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レインハイトと魔法の門  作者: アマノリク
第二章 〜理から外れし者〜
33/64

変わらぬ日常

   魔導歴一六四年 火の月(一の月)



 シエルの使用人として平穏に暮らしているうちに時は過ぎ、レインハイトが魔法学院にやってきてから、一年と八ヶ月が経過していた。



「おはよう、シエル」


「おはよー、レイン」


 もう何度目になるかわからない朝の挨拶を交わし、シエルを起こし終えたレインハイトは、部屋の窓から差し込む朝日を眩しそうに眺めた。


(……毎日毎日、ご苦労なこった)


 レインハイトは陽の光があまり好きではない。まあ、なんとなく嫌な感じがするというだけで、日常生活に影響を及ぼすほどの嫌悪感を抱くわけではないのだが。


「顔洗ってくるね」


「はいよ」


 洗顔のために部屋を出て行くシエルに返事をし、レインハイトは学院の制服をベッドに並べる。

 この後のスケジュールは、シエルが着替えるまで部屋の外で待った後、そのまま食堂に降りて朝食を取り、彼女を学院に送り出すという内容だ。何の事はない、何度も繰り返され習慣とまでなった日常である。


 しかし、同じような日々を送り続けたとて、環境は常に変化していくものだ。思えば、この一年半でいろいろな事が変わったな、とレインハイトは制服の用意しながら思いを馳せた。


 一昨年と比べて若干身長が伸びたこととか、最近おとなしくしていたおかげで学院の生徒から好奇の視線を向けられることが少なくなったこととか、『魔法の門計画』に資金を使いすぎたせいでエリドからもらった生活費が底をつきそうなこととか。小さことから大きなことまで、様々な変化が生じていた。


 改めて振り返ってみると良い変化より悪い変化のほうが多い気がするが、それはこれから良い方向へと変えていけばよいと考えることで、レインハイトはひとまず今のところはよしとした。


 因みに、これは当然のことだが、レインハイト自身だけではなく、同じ部屋で同居する主人――シエルにも変化があった。

 まず、彼女の交友関係が以前よりも広くなった。図書館や禁書庫を利用する際などに時折シエルの姿を見かけることがあるのだが、以前は決まってソフィーナと二人きりであったものが、今はレインハイトが知らない女生徒と談笑しているパターンもよく見られるようになったのだ。これは彼女の保護者的な立場のレインハイトとしても嬉しい変化である。


 その他にも、シエルとソフィーナは非常に優秀な生徒であるらしく、今年彼女らが三年生となると同時に行われる毎年恒例行事の「魔法技能測定」では、恐らく『八脚(はっきゃく)』に届くのではないかと言われていることや、時の経過により最近ますます魅力を増してきたシエルを付け狙うクリードのような悪い虫が増えつつあるらしいことなど、挙げだせばキリがないくらいだった。


 ただ、今列挙した変化の内で特に目覚ましいものを一つ上げるとすれば、それはやはりシエルの外見的な成長だろう。


 まず大きく変化した点は、初めて出会った頃よりも長く伸びた美しい銀髪だ。現在は肩にかかるまでに伸ばしており、より女性らしさが強調されている。

 顔立ちも成長によって可憐さと美しさが増しており、同じ部屋で過ごす家族同然のレインハイトであっても、時折ドキリとするほどの魅力を放つことが多くなっていた。


 体つきも以前よりも女性らしくなり、母親であるミレイナの影響か、特に胸のあたりが急速に成長しているようだ。これも学院の男子生徒を惑わす一因になっているに違いない。無論、同居人であるレインハイトも惑わされまくりだった。


 シエルを頭の天辺からつま先まで眺めながら、レインハイトは「実にけしからん事態だ」と心中で唸った。二年近く時間が経過したというのに身長があまり伸びていない自分とは比べ物にならない成長速度である。


「レイン、着替えるから外に……って、なに人のことまじまじと見てるの?」


「いや……お前、成長したなあって……」


 きょとんとして見つめ返してくるシエルに対し、レインハイトはしみじみと答えを返した。


「そ、そうかな……?」


 レインハイトの視線に照れたシエルは、自身の体を見下ろし、若干頬を染めながら問い返した。

 しかし、シエルの気持ちなどお構いなしに、レインハイトは更なる追い打ちをかける。


「ああ、前よりももっと可愛くなったよ」


「なっ!?」


 唐突な褒め言葉に驚愕したシエルは口をパクパクとさせ、少しの間放心した。

 冗談っぽさが欠片もなく、正面から真顔でそんなことを言われたのだ、照れ屋なシエルにはたまったものではない。それも、自分が密かに思いを寄せる相手からの言葉であればなおさらだ。


「……あ、ありがと……」


 シエルは胸の底からこみ上げてくる喜びと恥ずかしさがないまぜになった複雑な感情をうまく制御できず、無意識の内ににやけ顔にならないように返答するのが精一杯であった。


(うう……顔があっつい……赤くなってないかな……?)


 俯いてなんとか恥じらいをごまかそうとするシエルだが、残念ながら、そのエルフ特有の長細い耳まで真っ赤に染まっており、無駄な抵抗となってしまっている。


 無論、シエルはレインハイトの発言が“そういうつもり”のない無自覚なものだと頭ではわかっていたが、しかし、まだ年若い彼女は、自身に直接向けられた口説き文句を冷静にかわせるほどの人生経験を積んではいないのだ。


「はぁ……俺も早く成長したいぜ……」


「レインも……か、かっこいいよ……?」


 レインハイトはちびちびとしか伸びない自身の身長のことを指してそう嘆いたのだが、話の流れからそれを勘違いしたのか、羞恥で顔を真っ赤にしたシエルはお返しとばかりに彼を褒め返した。


「……ん? そうか? ありがとな。……それじゃあ、俺外出てるから」


 しかし、シエルの頑張り虚しく、彼女の言を軽く流したレインハイトは、それだけを言い残して部屋を出て行ってしまった。

 鈍い彼のことだ、シエルが気を遣ってくれたとでも思ったのだろう。


「……むー」


 激しい羞恥に苛まれた状態で一人取り残されてしまったシエルは、レインハイトにいいように弄ばれたような気がして、少し頬をふくらませた。


「……でも……可愛いって思ってるってことは、少しくらいは意識してくれてるってことなのかな……?」


 しかし、そのわずか数秒後、仏頂面を元に戻したシエルはそんな風にひとりごち、にまにまとしたにやけ顔を浮かべた。レインハイトが部屋から出て行ったためか、先ほどのように笑みを我慢することもない。


 村を出てきてからレインハイトに依存してしまいがちとは言え、シエルは元来素直で前向きな性格である。想い人に多少冷たくされたくらいでは、簡単にへこたれたりしないのだ。


「……っと、いけない。早く着替えなきゃ」


 時間にして数分ほどだったろうか。心地の良い別世界に旅立っていたシエルは、不幸中の幸いというべきか、遅刻が確定してしまうかという寸前で正気を取り戻すことに成功した。


 ――いや、やはり不幸であったというべきだろう。


 寝巻きを脱ぎ捨て下着だけどなり、さて今から制服を着るぞとシエルがシャツに手を伸ばした直後、木が軋む音を立て、ノックもなしに部屋の扉が開かれた。


「シエル、そろそろ時間だ、行く――」


「へ……?」


 目と目が合った瞬間、まるで時が止まってしまったかのように硬直する両者。早朝の肌寒さとは関係なしに室内の温度が急速に低下し、それに反比例するかのようにシエルの顔は熱を帯びていく。


 侵入者の正体はもちろん、シエルの使用人(仮)のレインハイトだった。彼の目は、素肌の上に下着のみというあられもない格好をしたシエルの肢体に釘付けである。

 すぐに目を逸らさねばならないと理性では理解していても、レインハイトに宿る男としての性質が邪魔をし、その思考を行動へと移すことを許さない。


(ってかなんでまだ下着のままなんだよ着替える時間ならいっぱいあっただろ! 確かにノックしないでドアを開けたのは俺が悪かったけどだからってまだシャツすら着てないっておかしいじゃん! もうそろそろ食堂行って列に並ばないと遅刻しちまう時間だし、そういう状況から鑑みても俺の行動にそこまで大きな罪はないはずだ! これは事故、事故なんですよシエルさん!)


 と、下着姿のシエルを見つめたまま硬直するレインハイトの脳内はその肉体とは相反してめまぐるしく回り続け、必死に言い訳を考え始めた。


「……しっかし……本当に良く成長したなあ……」


 だが、やはり彼も混乱していたのだろう。本来であれば口にだすべき事を心中で考え、心中で思うだけにとどめておくべきことを口に出してしまった。


 もっとも、健康な男児に素肌を晒した美少女の前で平静でいろと言う方が無理な話であろうが。


「……ど、どこ見て言ってるの!? レインのえっち! ばか! ヘンタイ!」


 案の定、レインハイトの余計な一言によって凍りついた時間は動き出し、羞恥が限界に達したシエルは、自身の革靴をレインハイトに向かって勢い良く放り投げた。


「うおおっ!? 危ねえ!」


 頭部を寸分違わずロックした豪速球がレインハイトに迫るが、直撃の寸前、なんとか右手で掴むことに成功する。


「……シエル、今はこんなことをしている暇は――っておい!」


 靴を掴んだレインハイトはなんとか怒り狂うシエルを説得しようと試みたが、残念なことに、その返答はまたもや靴の投擲という形で返された。球速は先程の倍はありそうだ。


 流石に今度は掴む余裕はなく、レインハイトは頭を横にそらしてなんとか革靴を回避した。的を外した革靴は部屋の扉を通り過ぎ、対面の壁に激突して大きな音を立てる。


 恐らく彼女は纏魔術(てんまじゅつ)で肉体を強化して靴を投げたのだろう。とても少女の手から放たれたとは思えないほどのすさまじい威力だ。どうやら完全にマジギレしているらしい。


 もしかしたら、一度目の投擲をレインハイトに軽々しくキャッチされ、余計に頭に血が上ってしまったのかも知れない。


「ばかレイン! どうして避けるの!」


「危ないと思ったからだよ! 纏魔術まで使いやがって、二発目は流石に当たったら洒落にならない威力だったぞ!」


「うるさい! いいから早く出てってよ!」


 それに関してはもっともな意見だ、とレインハイトはその発言に納得すると、今にも魔法の詠唱を始めそうなシエルに両手を上げて降参のジェスチャーをした。


「わ、わかった。わかったからそんなに怒るなよ……悪かったな、ノックせずに開けたりして」


 もたもたしているとまた何かが飛んできかねないため、またやらかしてしまったと肩を落とすのは後回しにし、レインハイトはシエルの返答を待つことなくそそくさと部屋を出た。


 もうこの時点でシエルの遅刻は決定的だろうが、レインハイトは一応扉越しに声をかけて急かし、彼女が着替え終わるのをひたすら待った。

 先に食堂に出向き彼女の分の食事を確保しておくという手を使えば多少の時間は短縮できそうだが、学生証を持たないレインハイトのような使用人は、単身で食事を受け取ることはできない決まりである。故に、ここは大人しくシエルを待つしかない状況だった。


 何もすることがなく、ただ待つしか無いとあれば、レインハイトの脳裏には自然と先ほどの出来事がよぎった。ほんの少し前に起きた事であるため、彼の網膜には未だシエルの白い肌が焼き付いている。


 本人の目の前であったため平静を装ってはいたが、実際のところ、レインハイトは内心ではかなり動揺していた。

 一体何が原因なのかといえば、無論、シエルの急激な成長である。


 使用人としてシエルと同じ部屋で寝起きするレインハイトは、一日最低でも二回は彼女と顔を合わせている。


 そのように毎日シエルの姿を見ているため、日に日に成長していく彼女を見ても、「そう言えば前より髪が伸びたな」だとか、「身長が若干俺より高くなったな……」くらいの軽い感想しか抱いてこなかったのだ。

 誰よりも近くにいたがゆえに、レインハイトは毎日着実に変わっていくシエルのことをきちんと認識できていなかったというわけである。


 しかし、それももう過ぎた話だった。先ほどの一件でシエルの成長をまざまざと見せつけられ、強引に今までの認識を改めさせられたからだ。

 年の近い妹のように思っていた少女は、いつの間にか魅力的な女性へと変貌していた。

 それが内面の伴っていない外面のみの変化だったとしても、一度そう意識してしまった限り、レインハイトはもう彼女をただの妹として扱うことはできないだろう。


 これからもシエルは成長を続けていくことだろうし、いつまでも男女が同じ部屋で寝泊まりしているわけにもいくまい。場合によっては、自分の稼ぎで宿を取り、一人で生活をしていくという道も検討する必要があった。


(『計画』のための資金も底をつき気味だし……そろそろ何か仕事でもはじめたほうが良さそうだな)


 難しい顔で思案するレインハイトは、今後の生活について様々な案を練り、一つ一つ慎重に吟味していった。

 以前決意したように、そろそろシエルに甘えてばかりの生活をどうにかしないとならないだろう。それは彼女のためにも、自分のためにも必要なことに違いない。


 そんな風に焦り、考えに没頭していたレインハイトは、己の背後――つまり自身が先ほど退室してきた部屋の扉が開いたことに気づくのが遅れてしまった。

 ギイ、と唐突に発生した押し開かれた扉がたてる音に振り返ると、眼前には顔面に向かって迫る平らな木の板が広がっていた。そして、


「ぶべっ!」


 回避の暇もなく、堅固な木製の扉がレインハイトの鼻面に直撃した。直後、衝撃により鼻腔に生まれたツンとした痛みが脳の天辺まで一気に駆け抜け、目頭に涙が溜まる。


「うう……」


「レイン? 大丈夫……?」


 着替えを済ませて部屋から出てきたシエルは、手で鼻を押さえながら上を向いて唸るレインハイトを心配そうに見つめた。


 レインハイトが顔をぶつけたのは扉の前で考え事にふけっていた彼自身の落ち度であるのだが、直前に喧嘩したとはいえ、シエルは苦しむ人の姿を見て非情でいられるような冷たい少女ではないのだ。


「だ、大丈夫だ……。悪い、ちょっと考え事してた」


 顔を覗きこんでくるシエルを右手で制し、鼻の痛みから回帰したレインハイトは小さく謝罪した。


「考え事って、何のこと……あ」


 いったい何を考えていたのかと問いただそうとして、シエルは先刻のハプニングを思い出すと同時にレインハイトの「考え事」に思い至り、一気に耳まで顔を朱に染めた。


「なっ! ち、違うぞ! 俺はこれからのことについてなんとなく考えてただけで……」


 それは邪推だ、とレインハイトは必死に両手を振るが、完全に図星であるため全身に動揺が走り、うまくごまかしきれていなかった。


「……レインの、えっち」


「う……」


 赤い顔をしたシエルのつぶらな瞳を向けられたレインハイトは、その視線から逃れるように首ごと目をそらし、苦い顔をした。

 ぷりぷりと怒ってくれればまだ反抗する気にもなるのだが、潤んだ瞳で下から覗きこまれてはそんな気も起きなかった。自然、二人は黙りこんでしまい、お互いに気まずい空気が流れる。


「……って、のんびりしてる場合じゃないだろ! もう遅刻は確定してるけど、だからって授業をサボるのはさすがに良くないと思うぞ」


「そ、そうだね。急いで行かなきゃ」


 しかし、その数秒後。シエルよりも早く現在の危機を思い出したレインハイトは、これ以上時間を無駄遣いする訳にはいかないと気まずい雰囲気を断ち切り、シエルに声をかけた。

 シエルも今の状況はまずいと考えていたのか、特に反論することなくそれに応じ、二人は互いに頷き合うと、小走りで一階に続く階段へと進む。


「……こんだけ遅れてりゃ食堂は空いてるだろ。シエルは急がなきゃだけど、俺はゆっくりと朝食を取らせてもらうことにするぜ」


 レインハイトは状況が変わったことにこれ幸いと飛びつき、自身達が向かう食堂へと話題をシフトした。


「うう……朝ごはんは抜きにして学院に向かいたいけど、もう朝食は予約してあるからちゃんと食べないとだよね……」


「そりゃそうだ。……ってか、シエルが朝食抜きにしたら俺まで朝飯にありつけなくなっちゃうじゃないか。とばっちりはゴメンだぜ」


 大幅な遅れに焦るシエルはこのまま学院に直行したいと言い出したが、レインハイトはそれをとんでもないといった表情で非難した。


 この魔法学院の食堂は予約制であり、当然ながら、シエルは既に今日の分の朝食を注文してあった。そのため、遅刻だからとシエルが食堂をスルーして学院に向かえば、彼女とその使用人であるレインハイトの分の二人前の朝食が無駄になってしまうことになる。いくら急いでいるとはいえ、そんなことをするのはマナー違反だろう。


 もっとも、レインハイトの言い分は、自身が朝食にありつけないかもしれないということに対しての不安がほとんどを占めていそうだったが。


「とばっちりって……遅刻の原因はレインにも少しあると思うんだけど」


「いーや、俺が部屋に戻った時点でお前はまだ着替えてなかったんだから、あの時既に遅刻は確定してただろ。人のせいにするのは良くないぞ」


 可愛らしくむくれるシエルに対し、レインハイトはあくまで被害者然とした態度を崩さない。まあ、事実その通りであるのだが。


「ふーん、そういうこと言うんだ。……レインのばか」


 その返答がお気に召さなかったのか、ぷい、とそっぽを向いてしまうシエル。


「拗ねるなよ、子供だなあ」


 そんなシエルに苦笑しつつ、レインハイトは不機嫌な主人を宥めにかかったのだが、


「自分の方が子供っぽいくせに」


「……それはもしかして身長のことを言っているのかな?」


 次にシエルが放った自身のコンプレックスに対する看過できない発言に、レインハイトは表情を凍りつかせ、彼女に怒りを内包した眼差しを向けた。

 無論、レインハイトはシエルに対して本気で激昂しているわけではないが、しかし、その視線はまるきり冗談というわけでもなかった。


 雀の涙ほどの進歩しか無いレインハイトとは違い、シエルはここ数年の肉体的成長が目覚ましい。そんな彼女に気にしている身長のことを揶揄されれば、いくら相手がシエルであっても癪に障るというものだ。


 彼女の女性らしさ的な面には今日まで全く気付くことのなかったレインハイトだが、身長というただ一点に関してだけは、かなり目ざとく確認していたのである。


「しーらない」


「待てコラ!」


 本格的に拗ねモードに入ってしまったシエルは、怒るレインハイトに取り合わず、いそいそと早歩きで食堂に向かう。その後ろから、簡単には逃すまいとレインハイトが肩を掴んだ。


「ちょっと! いやらしい手で触らないでよ、ばかレイン!」


「いやらしい手ってなんだよ! 俺にそんなつもりは一ミリもねえぞ!」


「ふ、ふんっ! さっきはしっかり鼻の下伸ばしてたじゃない。私、見てたんだから!」


「は、はあ? 見間違いだろ? 証拠でもあんのかよ」


「なっ! ……なにそれ、信じらんない! サイテー!」


 ぎゃあぎゃあとやかましく怒鳴り合いながら、二人は足を止めることなく食堂に無かって進んでいく。口論によってお互いにヒートアップしているせいか、その速度は言葉をかわすたびに早くなっていった。


「あんまり調子に乗ってると、明日からご飯抜きにするから!」


 しらばっくれるレインハイトの態度に激怒したシエルは、熱心に進めていた足を止めて後ろに振り向き、戸惑うレインハイトの鼻先に指を突きつけながらそう告げた。


「くっ……人の足元見やがって、卑怯だぞ!」


 現在のレインハイトは、魔法学院から「シエルの使用人」という扱いを受けることで、食堂で食事を得ることができている。そのため、シエルの気分一つでその権利を剥奪することも可能なのだ。


 食堂での食事は一定期間毎にまとめて予約するものであるため、いくらなんでもシエルの言うように明日からすぐに食事抜きという事態にはならないだろう。しかし、彼女が本気になった場合、次の期間からは本当に飯抜きになりかねなかった。


「ご主人様に向かってそういう言い方は良くないと思うなー。レインは私の使用人なんだから、それに見合った態度を取ってもらわないと」


 状況が有利になったと判断したのだろう、シエルは腰に手を当てた状態で胸をそらし、得意気に鼻を鳴らした。


「――かった……」


「え? なに?」


「……わ、悪かったよ」


 若干俯いたレインハイトは、耳を寄せてきたシエルに向けて絞りだすように謝罪の言葉を発した。納得したわけではないが、自身の弱い立場を認め、自ら折れることにしたのだ。


「はい? 聞こえませーん」


 そんなレインハイトの姿勢に気を良くしたのか、シエルは大人な対応をしたレインハイトの神経を逆なでするような態度を取った。


「っんのクソ女……!」


「え? ……ちょっと、今ひどいこと言わなかった?」


「言ってない言ってない。先程はどうもすみませんでした」


 一瞬怒りで口が滑ったが、冷静さを取り戻したレインハイトは首を振り、すまし顔でシエルをあしらった。


「ほら、早く行かないと遅刻じゃなくてサボりになっちまうぞ」


「う……そうだね」


 しぶしぶという感が否めないが、レインハイトの提案にシエルは頷き、黙って食堂に向かっていった。それを見てほっと一息つき、レインハイトも後を追う。



 外見的には多少の変化を経たものの、幸か不幸か、二人の関係は二年前からほとんど変わっていないようだった。



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