ワガママな生徒会長
◇
「……あら」
「げっ……」
僅か数秒で己の行動を後悔することになるとは。そんなことを胸中で呟きつつ、レインハイトは己のテンションゲージが凄まじい勢いで下がっていくのを感じた。
「……おはようございます」
「おはよう、レインハイトくん」
図書館から勢い良く飛び出したレインハイトの目に飛び込んできたのは、学年色である赤色を基調として配色されたチェック柄の短いスカートと、太腿のあたりまである長い黒ソックスが特徴的な学院指定の制服に身を包んだ、藍色の髪を持つ少女。三日前、クリードにとどめを刺そうとするレインハイトの邪魔に入った三年生。王立アイオリア魔法学院現生徒会長――エリナ・フォン・アルハートであった。
「……あれ? 今って授業中じゃないんですか?」
三日前の件で気まずいためできれば話をしたくない相手であるが、挨拶をしてしまった手前そのまま歩き去るわけにも行かず、レインハイトは無難な質問を投げかけた。
瀟洒な作りの校舎は静寂に包まれており、エリナとレインハイト以外の人影は確認できない。辺りに漂う静謐な雰囲気が、現在魔法学院は授業中であると暗に告げているようにも感じられる。
「ええ、まあそうなんだけど、ちょっと用事があってね……」
レインハイトの予想通り、エリナは肯定した。
「……どんな用事ですか?」
よしておけばいいのに、レインハイトはあまり深く考えようともせず、己が興味の赴くままに問いをぶつける。
不幸中の幸いとでも言うべきか、今回はあの傲慢な貴族の付き人――ユリウスが付いて来ておらず、エリナは一人だ。もっとも、もし彼がエリナの後ろについていたならば、レインハイトは挨拶もせず、そそくさとその場を後にしていただろうが。
「ふふ、私のことが気になるの……?」
と、何故か科を作り、魅惑的な笑みを浮かべてそんなこと問うエリナ。
その笑顔を視界に収めた瞬間、レインハイトは即座にエリナを無視してこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。彼女に安易な気持ちで質問をぶつけた数秒前の自分を殴りたい気分である。
と言うのも、表面上は魅力的に見えるのだが、彼女のそれはどこか寒気がする笑顔なのだ。
まだ三日前の件を根に持っているのだろうか。だとすればやはり接触は避けるべきであった、とレインハイトは心中で嘆息した。
「……別に、嫌なら教えてくれなくても結構です」
「もう、これくらいで怒らないでよ。意外と怒りっぽいのね」
「チッ……では、僕はこれで」
とても付き合っていられない。苛立ちのあまり思わず口から舌打ちが漏れ出たレインハイトは、不機嫌そうな顔でその場を後にしようと歩き出した。
しかし、素早い動作で颯爽と過ぎ去ろうとしたレインハイトの右腕を、恐ろしく自然な動作でエリナが掴んだ。当然、腕が停止したならば、それに繋がるレインハイトの肉体も連鎖的に静止する。
「ごめんごめん! ちょっとからかっただけだってば!」
「別にいいですから、手を離してください」
「それは嫌よ」
この女、真顔で言いやがった。
どうして自分の腕の解放を他人に拒否されねばならないのか。レインハイトは激しく困惑した。そして、当然の疑問を呟く。
「なぜ……」
「手を離したら君が逃げちゃうじゃない」
当たり前じゃない、といった風に全く邪気のない笑顔を向けるエリナ。その時、レインハイトは悟った。「ああ、この人は俺の苦手な人種だ」と。
恐らく人の話を聞かないタイプの人間だろう。しかし、ここで諦めたら纏魔の修行ができなくなってしまう。レインハイトは説得を試みた。
「逃げませんよ。ただ寮の自室に戻るだけです」
「だーめ……あ、そう言えば君、纏魔術使えたわよね? ちょっと手伝って欲しいことがあるのよ」
どうやら説得は無駄だったらしい。
だめだ、完全にペースを握られている。レインハイトはその場で頭を抱えたい衝動に駆られたが、即座に思い付く。
そうだ、自分は纏魔を使えるではないか。こんな細身の少女の腕なぞ、纏魔を使って振り切ってしまえばいいのだ。
ふはは敵に塩を送るとは馬鹿な女め、とレインハイトが「纏魔術」の基本である、魔力を己の肉体内に流し自身の身体能力を強化する「練纏」を応用した技、自己の脚力を増加させる練纏式体術、『疾風』を発動させようとした――次の瞬間、
「えいっ」
ガチャン、という音を立て、レインハイトの手首に硬質な何かが巻きついた。
「……おい、あんた何を……」
レインハイトの右手首には、金属鉱石のようなものでできた細身の手錠がかけられていた。
当然手錠なのだから、手首を拘束する穴は二つ存在する。レインハイトの右手首を包む手錠から伸びる短い鎖が繋がったもう片方の穴には、何故かエリナの細くしなやかな左手首が嵌まり込んでいた。
いや、問題はそこではない。この程度の太さの手錠など、例え金属製だろうとレインハイトの纏魔を持ってすれば簡単に破壊することが可能であるはずなのだ。しかし、
「え、なにこれ……」
先程から両手で手錠をこじ開けようとしているのに、力が全く入らない。と言うより、何故か“魔力を全く操作できない”のだ。
当然の如く、魔力の操作を行えないならば、魔法の発動は愚か、魔力により肉体を強化する術である纏魔を使用することすら不可能である。
一体何故だ、と驚愕の表情を浮かべたレインハイトが上へと視線を移すと、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた生徒会長の顔が視界に入り込んだ。
「てへっ」
器用に右目を閉じ、エリナは可愛らしく舌をぺろっと出した。
「てへっ、じゃねえよ! なんだよこれ!」
「え? 知らない? じゃあお姉さんが特別に教えてあげる。これは『干渉鉱石』っていう、魔力の操作を阻害する特殊な鉱石で作られた対魔道師用の手錠なの。……どう? すごいでしょ?」
得意顔で驚愕の事実を告げるエリナ。彼女の表情が次第に明るくなっていくに連れ、レインハイトの表情は青くなっていった。
「……ははは、何を馬鹿な、そんなことあるわけ――ってマジで魔力操作できねえ!? なんだこれ……嘘だろ……? おいお前! 早くこれを外せ!」
突如として起きた不測の事態に、大いに取り乱したレインハイトが必死の叫びを上げる。
様々な方法で魔力操作を試みたレインハイトだったが、結局、纏魔の基本である身体強化術、練纏式体術『纏』ですらまともに使うことができなかった。魔力そのものを練り上げることなら可能なのだが、それを操作しようとすると何らかの力によってたちまち妨害されるのだ。
どうやらエリナが言っていることは本当のことらしい。
「あはは! いいリアクションね。期待以上の反応が見れて嬉しいわ」
「……何故こんなものを持っているんですか……」
楽しそうに笑うエリナにげんなりとした非難の目を向けるレインハイト。彼女は意に介した風もなく、依然ケラケラと笑い声を上げている。
「楽しいのは分かったから、いい加減この手錠を外してくれよ……」
そもそもどうして自分は拘束されているのだろうか。この女本当に何なの……、とレインハイトの気分は先程から下がりっぱなしである。
「この手錠はね、私達生徒会に特別に支給されている拘束具なの。ほら、普通の手錠じゃ魔道師や纏魔術師には通用しないでしょ? ……ところでレインハイトくん。三日前の件、本当は食堂で先に手を出したのは君の方なんだって? ああ、君の場合、出したのは足か」
怪しい笑みを浮かべたエリナは、手錠を介してレインハイトを近くに引き寄せた。
やばい、バレてる。もしかしてこの手錠はそういうことなのだろうか。レインハイトは背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
三日前、使用人という肩書きを持つレインハイトは、己の主人であるハーフエルフの少女シエルと、その友人ソフィーナに強引なナンパを仕掛けてきた三年生の二人組に喧嘩を売り、その内の片方であるクリードと決闘をした。その際、レインハイトは食堂で先に仕掛けてきた二人組のもう片方である名も知らぬ小太りの三年生の足を、纏魔で強化した脚力で踏み砕き、骨折させている。
頭に血が上ってしまっていたとはいえ、その件だけに関して言えば、レインハイトが小太りの少年に行ったその行為は明らかな過剰防衛である。
「……先に足を出してきたのはあちらの方です。僕はそれを避けて、床を踏んだだけです。そこにたまたま先輩の足があっただけで、別に踏もうとしたわけじゃ……」
エリナの澄んだ瞳から首ごと強引に目を逸らし、レインハイトは弱々しくも抵抗を試みた。
「ふーん。まあ、過ぎたことをいちいち咎めるつもりはないわ。向こうにも非はあったし、一応は決闘で決着が付いたことだしね。……でも、今度また私の前でこの前みたいな事件を起こしたら……その時は覚悟しなさい」
右手で強引にレインハイトの頭を掴み、ぐりんと自分の方に向かせ、カチャリ、とわざとらしく手錠を鳴らすエリナ。その表情はどう見ても可憐な笑顔なのだが、しかし、目だけが一切笑っていなかった。
これ以上の抵抗はやめたほうがいいだろう。レインハイトは素直に敗北を認めた。
彼にしては妙に物分かりがいいが、当然、この態度にはそれなりの理由があった。
何かについて平常に思考することすら困難なほどに、レインハイトには魔力の使えない状態が怖くてたまらなかったのだ。自分の中の本能が、この状況は非常に不味いと告げている。
早く手錠を外してもらいたいという一心で、レインハイトはエリナに頭を下げた。
「わ、わかってますよ。……一応これでも反省してるんです。すみませんでした」
しゅん、とうなだれたレインハイトを眺めていたエリナは、「この子、ちゃんと謝れるんだ」という失礼な感想とともに、己の全身にぞくりとした何かが駆け巡るのを感じた。
「そ、そう、最初から素直に謝ればよかったのに……ところでレインハイトくん。君、案外近くで見ると可愛らしい顔をしてるのね。背も小さいし、……ふふ、子供みたい」
エリナの体に流れたのは、嗜虐心と呼ばれる感情であった。
「……別に可愛いとか言われても嬉しくねーよ……あと、身長のことは気にしてるんで言わないでください」
悄然と俯いたレインハイトは、エリナの瞳に灯る怪しい光に気付かない。
エリナの身長、約一六〇センチメイル。対するレインハイトの身長、約一五二センチメイル。一年前からは一応二センチメイルほど伸びてはいるが、何故かレインハイトはシエルにも抜かされそうなほどに体の成長が遅いのだ。
いや、既にもう抜かされているのかもしれない。レインハイトは己の背の小ささを認めたくはないため、村で過ごしていた時から彼女との背くらべをひたすら拒んできたのだ。
自然魔法が使えないことと、この同年代の女子にも劣るほど低い身長が、森で目覚めてから現在に至るまで常に付きまとってきた彼のコンプレックスであった。
しかし、そんな悲嘆にくれるレインハイトの態度すらも、現在のエリナにとっては、己の嗜虐心を刺激する絶好のスパイスでしかなかった。
「そう? 私はとってもチャーミングだと思うけどなあ……」
そう言いながらも、エリナは腰を曲げ、レインハイトの背後からその耳元へ口を近付けた。
吐息に撫でられた耳からぞわりとした寒気が背筋を走りぬけ、レインハイトはようやくエリナの怪しい目付きに気付いた。何故か彼女は息も荒く、規則的に耳を撫でる風がくすぐったい。レインハイトはぶるりと肩を震わせる。
「え、エリナさん……?」
急にどうしたんだこの人、と困惑するレインハイト。
驚きと恐れが半分づつといった様子で己を見つめる少年を眺め、エリナは自らの口端を釣り上げた。ぞくぞくとした感覚が背筋を撫で付け、もっとこの少年を困らせたいという衝動が彼女を掻き立てる。
それにしても、まさか自分にこんな趣味があったとは思いもしなかった。もしも自分に弟がいたら、こんな風にからかったりしていたのだろうか。エリナは己の高揚を自覚しつつ、そんな思いを巡らせた。
「……いい加減離れてくれませんか……っていうか、こういうのはあのユリウスって人とすればいいじゃないですか」
レインハイトはもぞもぞと体を動かすのだが、その度に背中に柔らかな少女の肉体が押し付けられ、どぎまぎしてしまっていた。乱暴に動くわけにもいかず、困り果てている。
「うーん……ユリウスはそういうのじゃないのよねえ。一応年下ではあるんだけど、あの子はちょっと考え方が硬すぎるから。まあ、悪い子ではないんだけど」
そうレインハイトの耳元で呟いている間、エリナの右手はレインハイトの腹部の辺りを撫でまわしていた。
誤解のないように説明するが、これは彼女がレインハイトを異性として意識し、誘惑しているわけではない。エリナは彼が見せる困った反応を楽しんでいるだけなのだ。実に質の悪い趣味である。
しかし、彼女のそんな事情など知る由もないレインハイトにとって、この状況は、得体の知れない恐怖をただ与えてくるだけのものでしかなかった。
長耳族の村でシエルの母であるミレイナに体を撫でられた時とは根本的に違う感覚に、レインハイトの中の本能的な何かが激しく警鐘を鳴らしている。この生徒会長、絶対やばい。
(……ん? この状況、よく考えたら……)
その時、ようやくと言うべきか、レインハイトはついにあることに気が付いた。この危機を脱する――いや、一発逆転の一手である。
「……エリナさん、生徒会長がこんなことをしていいんですか?」
「ん〜? いーのいーの」
エリナは相変わらず魅惑的な笑みを浮かべ、耳に息を吹きかけては反応するレインハイトを見て楽しんでいる。そちらにばかり夢中になっているようで、レインハイトに起こった密かな変化には気付いていない。
「ところでエリナさん、この手錠って、確か魔力操作の一切を封じる鉱石でできているんでしたよね?」
「そうよ。この手錠を使えば、どんなに強力な魔道師でも完全に封じることができるわ」
そう喋っている間ですら、エリナは手を止めようとはしない。こんなところを誰かに見られたらどうするつもりなのだろうか。頭の片隅でそう考えつつ、レインハイトはエリナに笑みを向けた。その視線は既にか弱い草食動物のそれではなく、凶悪な肉食獣のそれへと変化している。
「へぇ……じゃあこの手錠をかけられちゃったら、例え魔法学院で第三位の実力を持つ『八脚』であっても、ただの女の子に変わっちゃうんですかね?」
「それはそうよ。そんなの一位だって二位だって……え?」
その瞬間、ぴたりとエリナの右手が止まった。
エリナに背後を取られているためレインハイトには彼女の顔を拝むことは叶わなかったが、しかし、たとえ見えなくとも、現在の彼女の表情が蒼白に彩られているであろうことは想像に難くなかった。
「そうですよね。そのための手錠なんですもんね」
魔道師を拘束するための道具。その手錠は現在、レインハイトとエリナのそれぞれの手首を拘束している。レインハイトが魔力の操作ができないのであれば、当然エリナにもそれができるはずがないのだ。
「れ、レインハイトくん? あの……ちょ、ちょっと目付きが怖いわよ?」
「ふふ……僕を敵に回したこと、後悔させてあげますよ」
片腕の分だけで魔力操作を妨害できるなら、もう片方は普通の金属にしておくべきだろう。そうすればこんな間抜けな事態は起こり得ないだろうし、鉱石の消費も二分の一に抑えることができる。
レインハイトは頭の片隅でそんなことを考えつつ、恐怖に震えるエリナに一歩近付いた。
「ま、待ってレインハイトくん! ちょっと調子に乗っちゃったの、ごめんなさい! ……話せばわかるわ! 話し合いをしましょう?」
「ふふふ……ごめんで済んだら警察はいらないんですよ……」
「え? けいさつ? なにそれ!? ……うわーん! 誰か助けてえええ!」
何故かそんな言葉が頭に浮かんだので口に出してみたのだが、確かに改めて考えてみると「警察」とやらが何なのかはレインハイト自身にもよくわからなかった。
まあ何でもいいや、とすぐに余計な思考を切り捨てたレインハイトは、素早い身のこなしでエリナの背後を取った。
「さて、どんなお仕置きをしましょうかね」
「……そうだわ! ……レインハイトくん、私とあなたには五センチメイル以上の体格差があるのよ? いくら私が女とはいえ貴方のような子供に力比べで負けるわけ……」
一瞬息を吹き返したかに見えたエリナだったが、しかし、全力で抵抗しているのにも関わらず、左腕を拘束するレインハイトの想定以上の力によって全く身動きが取れず、身体をよじる度に「んっ!」とか「ふうんっ!」という艶めかしい声を上げるだけであった。
「子供って……僕は一応十三歳なんですが……」
「……え、うそ、なんで……? そんな小さい体のどこにこんな力が……い、いやあっ!」
エリナは体が軋むほどに左腕を捻っているのだが、まるで腕全体が石膏で塗り固められているかのように、拘束された腕はぴくりとも動くことはなかった。これ以上無理に動かせば関節が外れそうだ。
こんな寒気のするような膂力が、本当にあの少年の細腕から生み出されているというのだろうか。仮に纏魔を使用せずにこれほどの力を出せるのならば、素の筋力だけでも強引に手錠を破壊することも可能かもしれない。
この手錠はきちんと効果を発揮していないのではないか。エリナはそんな疑念を抱いたが、しかし、自分は先程からいくら魔力を操作しようとしても、この手錠に妨害されているのだ。僅かなほころびすら感じさせないほど完璧な魔力遮断である。
その結果が「『干渉鉱石』は正常に作用している」という現実を否応なくエリナに突きつけていた。
「子供とか小さいとか、言いたい放題だな……」
げんなりと呟いた少年の声にびくりと全身を震わせたエリナは、そこでついに正常な思考を保てなくなった。生まれてから一度も経験したことのなかったような恐怖に飲まれ、軽いパニックに陥る。
己が弱者として強者に狩られるというこの状況は、常に強者で在り続けてきた彼女にとって、とても耐え切れるものではなかったようだ。
その瞬間、ついに攻守が完全に入れ替わった。
「ひっ……いやっ! 襲われるうううっ!」
半狂乱で声を上げるエリナには、既に生徒会長としての威厳など皆無であった。
「こいつ……聞いちゃいねえ……」
まさか自分がエリナにそれほどの恐怖を与えているとは露知らず、レインハイトは呆れたように呟く。
「それじゃあ……あんまり気乗りしないけど、やり返すとしますか」
レインハイトは手錠のかかっていない左腕を、眼前で拘束したエリナの手前に回した。
本人が気づいているのかは謎だが、気乗りしないなどという割には、レインハイトは随分とやる気に満ち溢れた笑みを浮かべている。
「あ……や、やさしく……せめてやさしくしてぇっ! ……い、いやああああああああああっ!」
次の瞬間、少女の懇願虚しく、獰猛な肉食獣による一方的な蹂躙が始まった。
数分後、レインハイトの眼前には、廊下にへたり込み、瞳に涙を浮かべ、肩を大きく揺らしながら荒い呼吸をする生徒会長の姿があった。激しい運動により制服は乱れ、スカートは危うい位置まで捲り上がってしまっている。長いソックスと短いスカートの切れ間から覗くきめ細やかな太腿が目に眩しい。
「はあ……はあ……も……だめ……」
上気した顔でレインハイトを見上げるエリナは、自らの肩を抱くようにして震えていた。
これではまるでレインハイトが彼女に対して何か「イケナイコト」を行った事後のように見えるが、しかし、レインハイトが行ったお仕置きとは、ただひたすらエリナをくすぐるという至って健全なものであった。
見方によっては性的な嫌がらせとも取られかねないが、レインハイトにはそんな意識は全くなかった。彼にとってはただの仕返しなのだ。時折彼女の少し大きめの柔らかな胸に手が触れたが、それは不可抗力である。
己の腕の中で淫靡な声を発しながら為す術もなく悶えるエリナを三分間ほど眺め、先刻の鬱憤を晴らしたという満足感を得たレインハイトは、つい先程、ようやく彼女を開放したのだった。
「……レインハイトくんって……サディストだったのね……」
眼前でそう呟く乱れたエリナの姿は、レインハイトに何やら高揚感のような楽しい気分を与えた。エリナと同じく、彼の中の嗜虐心が刺激されたのだ。
しかし、その出処の知れぬ謎の感情から危険な香りを敏感に嗅ぎとったレインハイトは、もう少しエリナをくすぐり続けたいという衝動を抑えつけ、己の右手首をさすり、息をついた。
エリナとは違い、レインハイトは自己の欲望を理性によって強引に制御したのだ。
「……ったく、それにしても厄介な手錠だな……」
二人を拘束する手枷は既に外されて床に転がっていた。お仕置きの途中でエリナが手錠の鍵を落としたため、今しがたレインハイトが解錠したのだ。
「そうね……次からは使い方を変えることにするわ……」
もう懲り懲り、といった風に苦い笑みを浮かべ、エリナはゆっくりと立ち上がった。先程まで乱れ喘いでいたとは思えないほど淑女然とした所作で崩れた制服を整える。
「次は僕以外の人にしてくださいね」
「貴方がまた騒ぎを起こさなければね……」
と、両者はお互いに憎まれ口を叩き合い、同時にため息をついた。
「……そう言えば、用事の方はいいんですか?」
確か用事があるって言っていたような……、とレインハイトが何の気なしに尋ねると、ちょうど服装を正し終えたエリナが大きく目を見開き、
「あああああああああ!」
と叫んだ。
この人は生徒会長としての威厳や貴族としての体面にもう少し気を使ったほうがいいのではないだろうか。レインハイトは困惑の視線をエリナに向ける。
「どうしよう……早く行かないと……」
レインハイトの視線など眼中にない様子で、エリナは顔を青くして慌てていた。
急いでいたのに何故絡んできたんだ……、と呆れたようにエリナを一瞥すると、レインハイトは踵を返した。
「……それじゃあ、僕はこの辺りで」
「ええっ!? この状況で普通帰る!? レインハイトくんの鬼! 悪魔! ドS!」
この鬼畜、と攻めるような視線を向けるエリナ。
レインハイトはその視線を軽く流し、口を開いた。
「急いでいるんでしょう? 邪魔をしないようにっていう僕なりの配慮です」
「手伝って欲しいことがあるって言ったじゃない!」
「……今は忙しいんで、また今度……」
無論、エリナから手伝えと言われたことは覚えていたが、面倒そうなのでレインハイトは逃げることにした。
そうはさせまいと、エリナは背を向けたレインハイトに声をかけ続ける。
「ちょっと! 私をすぐってる時にどさくさに紛れて胸触ったでしょ? その対価だと思って手伝って!」
「あれは不可抗力というか、わざとではないというか――」
言い訳をするために足を止めたレインハイトに、エリナは強力な一言を浴びせる。
「じゃあ……君のご主人様に言いつけてやる」
「えっ」
レインハイトは振り返り、エリナに驚愕の視線を向けた。そこに先程までの余裕は無く、頬が引きつり、目は泳いでいる。
「シエル・フェアリードさんだっけ? 手伝ってくれないなら、シエルちゃんにレインハイトくんが私の胸を無理やり揉みしだいたって言いつけてやる!」
若干涙目のエリナは、駄々をこねる少女のようにそう言い放った。
それは非常に不味い。レインハイトは状況が自分に不利な方向へ変化したのを察し、冷や汗を垂らす。
シエルは何故かレインハイトが女性と絡んだり接触したりするのを酷く嫌う傾向にある。恐らく自分のおもちゃを他人に取られるのが嫌だという心理だろうが、毎回そういったことで機嫌を悪くするのだ。
更に厄介なのが、それが明らかな不可抗力によるアクシデントであったとしても、シエルは一方的にレインハイトが悪者であると断じる点である。彼女にとってはレインハイトが行った行為そのものが重要なのであり、それに至った理由や経緯などはどうでもいいのだ。
何故対象が女性限定なのかは判断しかねるが、そのせいで一日中部屋の空気が悪くなるというのもあり得る。想像しただけで気が重くなる事態だ。
レインハイトは肩を落とし、エリナに弁明する。
「『無理やり揉みしだいた』っていうのはちょっと語弊があると思うんですが……」
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと行きましょう」
しかし、エリナに取り合うつもりはないらしく、レインハイトの承諾を確信し、いそいそと歩き出してしまった。
エリナが予想した通り、ここで彼女に逆らってもメリットは無いと考えたレインハイトは、歩みを進める度に己の気分が沈んでいくのを感じつつ、エリナの後に続いた。




