両手に花
数十分後。ティツィーが予想した通り、レインハイトは目を覚ました。比較的軽傷だと思われたシエルよりも早くだ。
「あれ……奴等は……?」
まだ完全に治ったわけではないのだが、腹部の皮膚は元通りになっており、表面上は完治したよう見える。その自然治癒能力は驚異的なものだった。
「……あぁ、良かった……。先ほどの二人組はあなたのお陰で逃げて行きました。……あの、痛いところはありませんか?」
むくりと起き上がったレインハイトの目に真っ先に飛び込んできたのは、安堵からか目尻に涙を湛えたアトレイシアであった。どうやら感極まってしまったようで、両手でレインハイトの手を包み込み、更にその手をふくよかな胸の膨らみで包み込んでいる。
アトレイシアの美しい顔はレインハイトの近くへと寄り添っており、柔らかい手と胸による二重構造の弾力地獄と、その近くにある可憐な少女の笑顔に耐えかねたレインハイトは、こらえ切れず逸らした視線の先にすやすやと規則的な寝息を立てて眠るシエルを捉え、静かに安堵した。
「えっと……ご無事で何よりです。そちらこそお怪我はありませんか?」
初対面の美女にどう接してよいかわからず、レインハイトは無意識に少々よそよそしい物言いになってしまったのを自覚した。
何というか、この女性は全身から高貴さがにじみ出ているのだ。もしかして噂に聞く貴族というやつだろうか、とレインハイトは頭の片隅で考えた。
その予想は案外当たらずとも遠からずというところだが、本人には知る由もない。
「レインハイトさんが守ってくれたおかげで、かすり傷ひとつありません。心配してくれてありがとうございます」
「いえ、気付いたら勝手に体が動いてて……あ、呼び捨てでいいですよ? レインって呼んでもらっても構いません」
恐らく自分より年上であろう少女に名前をさん付けされるというのはなんだかむず痒いものがあった。レインハイトは恥ずかしげに指で頬を掻きつつ、アトレイシアを見つめる。
「では……レインと呼ばせていただきますね」
嬉しそうにはにかむアトレイシアに少々気圧されつつ、レインハイトは彼女の言葉の続きを待った。
「私はアトレイシアと申します。……あの、その……よろしければ、私のことはアイシャと……」
アイシャというのは、アトレイシアが幼少の頃、母に呼ばれる際の愛称であった。
しかし、その母は既に亡くなっており、アトレイシアが王女としての自覚を持ち始めてからは、周囲にはもうその名で彼女を呼ぶものは居なくなっていた。
それを寂しいと感じたことは今まであまりなかったが、なぜだかこの少年には、王女としてではなく、一人の少女として自分を見て欲しいと願っているのだ。
それが己のどこからくる感情なのかということまでは現在のアトレイシアにはまだわかっていなかったが、少なくとも、その意思には抗えそうになかった。
アトレイシアが感情を上手く整理できずにいることなど知るはずもないレインハイトは、言い難そうに訥々と話す彼女の様子に首を傾げた。そして、
「わかりました。ところで、アイシャさんがシエルを……そこのエルフの子を治療してくれたんですか?」
特に躊躇いもなく、アトレイシアを自然にアイシャと呼んだ。レインハイトからすれば当たり前の対応だったのだが、アトレイシアにはそれがとても特別なことのように感じられた。
己の心奥に暖かな光が生まれたのを自覚しつつ、アトレイシアはにこやかな笑みをレインハイトに向けた。王女としての冷めた笑顔ではなく、歳相応の少女としての笑顔だ。
「はい。苦しそうだったので治癒魔法を使いました。容態の方は心配ないと思います」
「そうですか。ありがとうございました」
王女というフィルターを通さずに受ける言葉というのはこうも心地よいものなのか。アトレイシアは自然と己の顔がほころぶのを感じた。
だが、喜んでばかりも居られない。アトレイシアは少々悩んだ。
このまま少年に身分を偽り続けても良いのだろうか。もちろん、できれば自分が王女だということは知られたくはないが、命を救ってくれたレインハイトに嘘をつき続けるというのは胸が痛い。
アトレイシアはどうしたものかと思索したが、そう簡単には妙案は浮かばなかった。
とにかく、それよりも今は王都に戻るのを再優先にすべきだろう、とアトレイシアは詰まりかけた思考を切り替え、考える。
自分が乗ってきた馬車は先の襲撃で焼け焦げてしまっている。王都に戻ろうにも、このまま歩いて帰るわけにもいくまい。
その時、アトレイシアは少し遠方に四人掛けと思われる馬車を発見した。
「レイン……あの、あそこに停まっている馬車はあなた達が乗ってきたものですか?」
「そうですよ。……あ、アイシャさんも一緒に乗っていきますよね? 王都に行くんですけど、方向は大丈夫ですか?」
「……ご一緒させて頂いてもよろしいのですか?」
「当たり前じゃないですか。こんなところにアイシャさんのような女性を一人で置いていけるわけ無いですよ」
もしそうであれば、どうやって頼み込めばよいものか……とアトレイシアは逡巡していたのだが、そんなことは当然だと言わんばかりに、レインハイトは言い放った。
「えっと、では、お言葉に甘えて……」
頬を染め、少々呆けつつ、アトレイシアはレインハイトの申し出を受けることにした。
レインハイトには、自分が王女だとはまだ伝えていない。つまり、この少年の対応はアトレイシアという個人に対して行われている無償の行為ということになる。
取り入るためでもなく、恩を売りたいがためでもなく、ただ純粋にアトレイシアという個人を思っての行為である。そのことが理解できたとき、思わずアトレイシアの頬を涙が伝った。彼女の美しい碧眼から、大粒の涙が流れ落ちる。
思い返せば、先刻の戦闘の際もそうだったではないか。アトレイシアという少女の命を助けるために、この少年は、己の命を懸けてあの恐ろしい殺し屋と対峙していたではないか。
最初から身分など関係無かったのだ。自分がただの町娘だろうとなんだろうと、きっとこの少年は同じように助けたに違いない。アトレイシアは涙しつつ、そこでようやくレインハイトという少年の優しさを理解した。
「あ、え? アイシャさん?」
いきなり堰を切ったように泣きだしたアトレイシアにぎょっとしたレインハイトは、どうすればよいかわからず、おろおろと両手を空中に彷徨わせるという挙動不審な行動をとっていた。
「ぐすっ……すみません……安心したら気が抜けてしまって……」
人前で涙を流す(それも同じ人物に二度も)など、普段の彼女から考えてみれば決してあり得ないことであった。しかし、命の危機を脱したことによる安堵感に、レインハイトに優しくされたことが加わり、どうにも感情の制御がつかなくなってしまったのだ。
結局、空中に彷徨うレインハイトの手が行き着いた先は、涙するアトレイシアの頭の上であった。人の頭を撫でた経験などほとんどないことに加え、彼女の頭上にあるティアラが邪魔になり、レインハイトは上手く撫でることができない。
しかし、その不格好な行為により、アトレイシアの涙は少し勢いを弱めた。
レインハイトは、呆けたように上目遣いで見上げるアトレイシアに笑顔を向けた後、口を開いた。
「もう心配いりませんよ。次にまた誰かが襲ってきても、僕がアイシャさんを守りますから」
レインハイトはアトレイシアを安心させるためにそう言ったのだが、度重なる感情の揺れにより少々錯乱しているアトレイシアには、それが愛の告白のように聞こえた。
しかし、アトレイシアは己が錯乱していることを自覚しており、きっとこの少年はこういった甘い台詞を平然と言ってのけてしまうような天然なのだろう、ということまで見抜いていた。いくら錯乱しようとも、彼女の冷静な思考が停止することはない。
ただし、それは「自覚している」というだけであり、アトレイシアは己の感情を制御できているわけではない。目の前で人が殺され、自分も殺されそうになったとあれば錯乱するというのも当然であろう。
よって、アトレイシアは少年の言葉が単なる善意のみによるものだと理解しつつ、しかし、己の感情に抗うことができないまま、レインハイトの後頭部に手を回し、己の胸に掻き抱いた。
「えっ? ……あの、アイシャさん?」
図らずも傷心の美女に付け入る形となったレインハイトは、己がしでかしたことを一ミリたりとも理解してはいなかった。顔面に心地よい弾力が押し付けられ、その強烈な色香に朦朧としつつ、「ミレイナさんのよりも張りがあるなあ」などと失礼なことを考えていた。
「レイン……助けてくれて……ありがとう」
しかし、そんな言葉が上から降ってきては、いつまでも胸に集中しているわけにもいかないだろう。レインハイトは頬を緩め、アトレイシアの背に腕を回し、優しく撫でた。その様は、傍から見れば美女の胸元を見つめニヤける変態少年と何ら変わらなかったが、アトレイシアに頭を押さえつけられているため、仕方のないことだろう。
その時、レインハイトは視界の端に、何かがゆらりと立ち上がるのを見た。
左目はアトレイシアの胸により完全に遮断されており、残っているのは右目の視界のみだ。
レインハイトの狭い視野の中、美しい銀髪の少女は、その長い耳を端まで赤くさせ、わなわなと肩を震わせていた。
「あ、シエル。良かった、目が覚め……」
「レイン、どうしてニヤけながら女の人と抱き合ってるの……? 私が寝ている間ずっとそんなことしてたの……?」
「え? あ、いや、違うんだ。これには深い訳が……」
シエルが目覚めたことに安堵したのもつかの間、何故かお怒りになっているシエルを、どうにかして宥めなければならないという火急の案件がレインハイトに突きつけられた。
「……んっ、レイン……くすぐったいですよ」
そんな中、空気を読まずアトレイシアが嬌声を発した。焦ったレインハイトが変なふうに背中を撫でてしまったからだろう。図ったようなタイミングで放たれたその声は、シエルの怒りに油を注ぐ形となった。
「レイン! 今すぐその人から離れなさい!」
「あ、ああ、そうだな」
よくわからないが、ここはシエルにおとなしく従ったほうが良さそうだ。己の第六感を信じ、アトレイシアから離れようと手を付いた、その直後。
むにゅ、という感触がレインハイトの手のひらの中で暴れた。
即座に直感する。自分はこれ以上ない悪手を打ってしまったと。
そんな手近な場所に手を付こうとすれば、現在己を悩ます凄まじい破壊力を持つ弾力に向かうということは明白だっただろうに、なんということをしてしまったのだ。レインハイトの馬鹿野郎。
見なくともわかると言うほどそれに触れ慣れているなどということはもちろんなかったが、人体でこれ以上に心地よい感触を手のひらに与える部位はきっと他にあるまい。
その証拠に、
「あんっ」
アトレイシアが先程より激しい嬌声を上げた。
幸せの膨らみが現在手中にあるというのに、レインハイトの顔色はすぐれない。
シエルのゴミを見るような視線が降り注ぎ、レインハイトは背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「……えーと、ごちそうさまでした?」
「何がごちそうさまよ! レインのばか!」
もうどうしたらいいのかわからず、レインハイトは開き直ることにした。
「いや違うんだよ。不可抗力っていうか本当に離れようとしただけで……」
「うるさい! レインのえっち!」
何故か目元に涙を湛えたシエルを眺めたレインハイトは、優しげな微小を浮かべると、アトレイシアからそっと離れ、シエルに近付いた。
「……シエル」
レインハイトは、少し真剣味を帯びた声でシエルの名前を呼んだ。不機嫌なのは変わらないが、シエルはおとなしくなる。
「……何よ」
レインハイトはそのままゆっくりと歩み寄り、シエルをそっと抱き寄せた。
「シエル……無事でよかった……」
「……ばか……こんなことしたって、許してあげないんだから」
言葉とは裏腹に、シエルはレインハイトに頭を預けた。シエルだって少しの間とはいえ、あのヴィンセントと対峙したのだ。怖かったに決まっている。
そんなことを考えていると、レインハイトの胸にふつふつとヴィンセントに対しての怒りが込み上がってきた。
(俺の腹に手を突っ込んだ挙句、シエルまで殴りやがって……あいつぜってえ許さねえ)
「ん……痛いよ、レイン」
ヴィンセントの事を思い出していたら、いつの間にか力を入れ過ぎてしまっていたようだ。シエルは辛そうに顔を顰めている。
「ご、ごめん!」
ぱっとシエルを開放し、レインハイトは素直に謝った。
「……あ、そうだ。シエル、この人はアトレイシアさんっていって、俺達と一緒で王都に行きたいらしいんだ。馬車もなくて困ってるし、一緒に連れてってあげてもいいよな?」
シエルは先程からアトレイシアと一度も会話をしていない。レインハイトは一応紹介しておくことにした。
「レインがいいなら、私はいいけど」
それを聞いて安心したのか、アトレイシアはほっと胸をなでおろし、シエルに頭を下げた。
「アトレイシアです。……ご迷惑おかけいたします」
「シエルです。私達も王都に向かう予定だったので、気にしなくても良いですよ」
シエルはアトレイシアに対して特になんとも思っていないようだ。恐らく、先ほどのことは全面的にレインハイトが悪いと思っているのだろう。
ともあれ、剣呑とした雰囲気にならなくて良かった、とひとまず安心するレインハイトであった。




