王女の憂鬱
◇ ◇ ◇
アトレイシアは陰鬱な気分で窓の外を覗き込み、隣に座る者に気付かれないように注意しつつ、儚げなため息をついた。
現在彼女は豪奢な馬車に乗っており、その周囲を二十人あまりの騎士に護衛されながら、目的地へと向かっている最中であった。
彼女の正式名称は、アトレイシア・エレアノール・ミラ・アイリス・フォン・アスガルド、という長ったらしいもので、その正体は、数時間前、この馬車が出てきたばかりである王都アイオリアに住む王の娘、アスガルド王国第一王女であった。
陽光を浴び、きらきらと光る透き通るような内巻きの金髪を携え、凛とした表情で窓の外を見つめる彼女は、誰もが羨む美貌を持ち、選ばれし王族でありながら、魔法の才覚まで持ちえていた。
陶器のような白い肌を持つアトレイシアは、胸元を大きくのぞかせた純白のドレスに身を包んでおり、彼女の持つ美しい金髪と相まって、さながら女神が地上に降臨したかのような強烈な色香を放っている。
彼女の体型は、現在の十五という年齢から見ても、よく成長していると言えるだろう。当人は特に望んでいたわけではなかったのだが、最近急激に丸みを帯び、胸や尻が突き出て来たのだ。きっと母親の影響だろう。
そんなスタイルの良さの産物か、アトレイシアは本来であればもう少し歳を重ねなければ着こなせないであろう純白のドレスを、むしろ霞ませてしまっているのではないかと感じるほど完璧に自分のものとしていた。
巷では、歴代最高の美人王女として有名で、民衆からの人気もあった。そんな何もかもを持っている彼女は、一体何に思い悩み、その美しい顔を暗くしているのだろうか。
その原因は、彼女の隣りに腰掛け、下卑た笑みを浮かべている男であった。
男の名はザミエル。アスガルド王国王立騎士団の大佐である。年齢は四十半ばほどで、頭には頭皮が目立ち、でっぷりと肉を蓄えた、軍人にはあるまじき体型をしている。以前は剣の腕が立ち、相当鳴らしていたらしいが、現在では見る影もない。魔法もある程度使えるが、本人に言わせれば、「魔法を使うよりは、剣を持って戦うほうが性に合っている」だそうだ。
馬車を包囲する騎士達は全員ザミエルの部下であり、彼の指示の下、護衛を行っていた。
現在、ザミエルの視線は隣りに座るアトレイシアの胸元に注ぎ込まれており、アトレイシアが余所見をしているのをいいことに、チラチラと視線を外すこともなく、ひたすら真っ直ぐに彼女の谷間を覗きこんでいた。
汚らわしい。アトレイシアはそう思わずにはいられなかった。横を見ずとも、ザミエルが自分の胸元を注視していることは容易に気配で察せられた。
アトレイシアは威嚇の意味を込め少し睨んでみたが、ザミエルはそれを意に介した風もなく、王女の肢体を舐めるように眺め見た。
「相変わらずお美しい」
うっとりしたように言うザミエルに生理的な嫌悪感を抱きつつ、アトレイシアは無理やり表情筋を動かし、笑顔を作った。相手に己の感情を悟られてはならないこともある王女という顔を持つ彼女からすれば、心では一ミリたりとも笑っていなくとも、自然な笑顔を作り出すことは造作も無い。
「ありがとうございます」
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。アトレイシアは己の運命に対し、悲憤を感じずにいられなかった。
ザミエルは満足そうに汚い笑みを浮かべると、再びアトレイシアの胸元を眺めはじめる。
よりにもよってこんな下品な男と結婚しなければならないとは、趣味の悪い冗談にしか聞こえない。でなければ悪夢だ。
しかしこれは現実である。現在馬車は王都外の村にあるロイス教会という場所に向かっており、本日、そこでささやかな結婚式を執り行う予定だ。もちろん、その後王都でも大々的に式を開くのだろうが、今回のこれは、その前に教会で小さな式を挙げたいというザミエルの我儘である。故にお忍びであり、護衛も最小限だ。
アトレイシアはわかっていた。原因は自分が王の娘、王女だからだ。
王国軍の大佐であるザミエルと婚約することにより軍の上層部を王女派のものとし、同時に国民の支持も高め、自らが女王となる。この婚約はそのための第一歩である。それは頭ではわかっていた。
アトレイシアには兄が居る。名はクリストフと言い、正当なる第一王子である。本来であれば、彼が順当にこの国の王となるはずだったのだ。
それが今、アトレイシアとクリストフは王位の継承をどちらがするかで争っている。アトレイシアを王女派、クリストフを王子派としてそれぞれを擁立し、現在、両者の力は拮抗していた。
普通であれば、第一王子であるクリストフが王になるはずである。女であるアトレイシアは、例えクリストフより先に生まれたとしても王には届かないはずなのだ。しかし、アトレイシアの才能がその全てを狂わせたのだった。
この世界では、魔法という才能が大きければ大きいほど高い地位につくことができる。わかりやすい実力主義だ。
魔法の才能は血統が強く関係していると信じられており、実際に魔道師からは魔法を使える子供が生まれやすい。
このアスガルド王国も、魔法の才が色濃く受け継がれた家系に領地を与え貴族とし、国を治める王族もその例に漏れず、代々魔法の才を受け継いできた。この世界――ミリスタシアは良くも悪くも魔法が支配しているのだ。
しかし、何の因果なのか、皆に望まれる形で第一王子として生まれたクリストフには、魔法の才が殆どなかったのだ。
そして、その二年後に生まれた第一王女であるアトレイシアは、歴代でも類を見ないほど大きな魔力を持って生まれてきた。まるで兄から魔力を吸い尽くしてしまったかのように、彼女の魔力は強大なものであった。
魔法の才の有無は王族にとっても、貴族にとっても大切なことである。いくら第一王子といえども、魔法の才覚で圧倒的に妹に劣るクリストフを王にしても良いのか否か、首脳陣の意見は分かれた。
王子に否定的な者達は、やがて王女であるアトレイシアに目を付けた。彼女は持って生まれた強大な魔法力に加え、その美貌により国民からの人気も高かった。女性であるとはいえ、王の資質は充分に備えていたと言えよう。
自然、彼女の元には王子否定派が集まり、それが現在の王女派の基板を作り出した。初めは数人が集まっただけの極々小さな派閥でしかなかったのだが、今はこうして王子派とも互角に渡り合う程の大きな組織となっているのだから、彼女のカリスマ性というのはやはり伊達ではなかったのだろう。
無論、王子派も王女派がそうして着々と力をつけていくのを黙って見ていたわけではない。両者の権力争いは、現在に至るまで長らく続いていた。
が、しかし、それももうそろそろ終結を迎えるはずだ。今回のアトレイシアの婚約によって、王女派は王立騎士団上層部の力を手に入れる事になる。それにより両者のパワーバランスは崩壊し、長年拮抗を続けた戦いは終着を迎え、アトレイシア新女王の誕生は揺らがぬものとなるだろう。
今のところ、その計画は順調に進んでいると言えよう。婚約を大々的に発表してしまえば、もう王子派は手を出せなくなるはずだ。
しかし、計画に滞りはないにもかかわらず、当人であるアトレイシアは浮かない表情を浮かべ、憂いていた。その原因は、自分の隣で胸元にご執心している下卑た男の手に落ちることへの覚悟が、未だにできていないからである。
王の娘として生まれてきたからには望んだ結婚などはなからできるとは思ってはいなかったが、それにしても、このような自分より二回り近くも歳を食った醜い男にこの身を捧げる事になるなど、誰が予想できようか。こんな男にいいようにされるのであれば、王の継承権など兄に放り投げてやる、とアトレイシアは割と本気で思っていた。彼女は王女である以前に、まだ見ぬ運命の王子様を待ち望む歳相応の少女なのだ。
と、その時。そんな彼女の懊悩を斟酌することなく、今までは眺めるだけに徹してきたザミエルが、ついにその手を彼女の肢体へと伸ばし、その長くみずみずしい脚に這わせた。アトレイシアの魅力に耐え切れなくなったのだろう。吐く息はわずかに荒い。
一秒たりともザミエルを視界に映したくなかったアトレイシアは、窓の外に視線を向けていたためその動きに気づかなかった。俄に生じた脚を撫でられる感覚に、ぞわりと全身が粟立つのを感じたアトレイシアは、身を捩ろうと自らに指令を送った。しかし、恐怖により固まった体はなかなかいうことを聞かず、ただザミエルの方に振り返るので精一杯であった。
そこには、人間という皮を被った醜悪な悪魔の様な男がいた。アトレイシアのしなやかな大腿を撫でまわし、だらしなく表情を崩している男。アスガルド王国王立騎士団大佐、ザミエル卿。
この男は、アトレイシア達王女派が自分の権力を欲していることをきちんと理解していた。だからこそ、王女の肢体を撫でまわすなどという恐れ多い行為を、こうして行動に移すことができたのだ。ここでアトレイシアが彼の気分を害せば、この話は破談になり、最も被害を被るのは王女派の連中とアトレイシアだ。
故に、美しい彼女に睨まれたところでザミエルにはその手を止める気などなく、むしろ逆に、これから彼女を服従さていくことへの興奮が彼を支配していた。
車内は二人の他に誰も同席しておらず、外で警護する騎士も、中の様子を覗きこむような野暮な真似はしまい。助けを請おうにも、外にいる騎士は全員ザミエルの息がかかっている。そんな者達にアトレイシアが助けを求めたところで素直に応じてくれる保証はなく、むしろ黙殺される可能性のほうが高かった。
この下郎、私の魔法で氷漬けにしてやろうか、などと思うだけなら簡単なのだが、それを実行に移せる度胸はアトレイシアにはなかった。
しかし、アトレイシアに胸中で散々言われているザミエルだが、これでも彼は我慢した方である。アトレイシアは美しいのだ。男であれば誰しもが彼女に触れたいと願うのは当然の帰結であり、それも狭い室内で二人きりとくれば、手を伸ばしてしまうというのは男の性というもの。婚約者だという免罪符があれば尚更だ。
だが、アトレイシアにはそんなことは関係の無いことであった。ザミエルに太腿を撫でられるその感覚はやがて体中を巡り始め、彼女に強烈な不快感を与えた。まるで全身に虫が這いまわっているかのようだ。
アトレイシアは一分一秒でも速くこの状況から逃げ出したい気持ちを必死に抑え、恐怖に戦慄きつつも、ただただ耐えた。たった数秒間腿を撫でられているだけなのだが、彼女にはそれが途方もなく長い時間に感じられた。
「そう怯えないでください、私達は夫婦になるのですから」
そんな彼女を見て、ザミエルは口を開いた。アトレイシアは頭ではわかっていたのだが、実際にその事実を口に出された瞬間、ぞっと怖気が全身に駆け巡るのを感じた。
やはり自分は拒絶しているのだ。この男、ザミエル卿を。それは本能的なものだ。私はこんな男のものになりたくはないと、自分の内にある何かが慟哭している。
それを嘲笑うかのように、ザミエルの手が、ついに彼女のきめ細やかな胸元へと伸びた。アトレイシアの体は金縛りにあったかのように静止しており、ザミエルの豚のように醜い手を拒絶することができない。
その膨らみに吸い寄せられるように近づいたザミエルの手が、その柔肌に触れるかと思われた、その寸前。馬車の外に赤い光りが発生した。揺らめくその光は、魔法によって突如空間に生み出された炎が発しているものだった。
一瞬遅れ、ザミエル側の扉が勢い良く開かれる。ザミエルはアトレイシアの胸元に伸びていた手を引き戻し、ノックもせず扉を開けた騎士に対し少々憤りを覚えつつ、そちらを向いた。
「大佐! 敵襲です!」
しかし、その言葉を聞いた瞬間、ザミエルの表情が険しいものとなった。軍人の顔である。衰えたとはいえ、ザミエルは現役の軍人なのだ。その切り替えは流石というべきか、即座に剣を取り、その場から腰を浮かせた。
「王女様はこちらに隠れていてください」
そう短く告げると、そのままザミエルは馬車の外に出て行った。アトレイシアは危機を脱したことに胸をなでおろしつつ、しかし、直前の騎士の言葉を聞き逃してはいなかった。
「敵襲」と、確かにあの騎士は言っていた。この馬車を商隊のものだと勘違いした盗賊だろうか。確かに、あれほどの護衛がついていれば、さぞ高価なものを運んでいるのではないかと思うのも自然だろう。
賊であれば、そこまで心配することはないのかもしれない。この馬車を護衛しているのはアスガルド王国が誇る騎士達だ。その腕前は並ではない。
少し嫌な予感がするが、杞憂だろう。そう考え、アトレイシアは事が済むのをしばし待った。魔法を使えるとはいえ、当然ながら実戦経験などは皆無であり、何より彼女が得意なのは治癒魔法である。出て行ったところで何もできないし、戦おうとも思わなかった。
しかし、すぐにまた戻ってくるだろうと危惧していたのだが、ザミエルは一向に帰ってこなかった。外は騒がしく、金属の弾き合う音が丁々と鳴り響き、アトレイシアは恐怖と不安で縮こまっていた。
そんなに時間がかかるほど苦戦しているのだろうか。このままここに居続けても自分に危険は及ばないのだろうか。様々な考えが頭を巡っては消えていった。
数瞬考えた後、アトレイシアは、思い切って外に出てみることにした。先刻よりは喧騒もおさまってきており、そろそろ戦闘も終わる頃だろうと思ったからだ。それに、出ると言っても覗く程度だ。それなら戦いの邪魔になることもあるまい。
何より、アトレイシアはこのまま静かに事態の収束を待つということには耐えられなかったのだ。確かに外に出るのは怖いが、それ以上に何もわからないというこの状況のほうが遥かに恐ろしかった。
アトレイシアは己の感情に従い、何かに誘われるように馬車の外にその身を投げ出した。
地面に降り立った少女の目に映ったのは、真紅の魔法陣を振りかざす襲撃者だと思われる男と、その魔法陣から放たれた業火が、たった今彼女が乗っていた馬車に直撃する光景だった。
慌ててその場に蹲ったアトレイシアは、背後で凄まじい熱が渦巻くのを感じた。魔法が直撃し轟音を立てた馬車は、為す術もなく一瞬のうちに炎に包まれる。
あと数瞬馬車から出るのが遅かったら、自分もあの炎に飲み込まれていたであろう。燃え盛る馬車を眺めたアトレイシアは、あまりの突発的な出来事に、一瞬の思考停止を禁じ得なかった。
少し遅れて思い出したかのように全身が粟立ち、ようやく現実に思考と体が追いついた。
ここにいては殺されてしまう。積み荷を狙った盗賊であれば、馬車を丸ごと焼くなどという愚行は犯さない。アトレイシアは直観的に自分が狙われていることを察し、動転しつつも襲撃者の男を視界に捉えた。もし自分を狙っているのであれば、既に次の魔法を構築しているだろう。発動の瞬間を見逃せば、今度こそ命はない。
しかし、襲撃者を視界に捉えた直後、アトレイシアの眼前に巨大な人影が現れ、その視界を遮った。
「ザミエル様……!」
「王女様、お逃げください!」
影の正体はザミエルであった。アトレイシアを庇うように襲撃者の前に立った彼は、己の腰から片手剣を抜き放ち、構えた。
「何をしているのです! 早くお逃げください!」
その場から動こうとしないアトレイシアに対し、ザミエルが吠えた。
動けるものなら動きたいところだが、アトレイシアは腰が抜けていた。体にうまく力が入らず、立ち上がることすら叶わない。
ドレスが汚れることなど構わず、無様に這いつくばるようにしてようやく立ち上がることに成功したアトレイシアの目に映ったものは、炎のような赤い髪を持った襲撃者が、こちらに向けて魔法を解き放つ瞬間であった。
「アトレイシア――」
婚約者である男が炎の槍に貫かれ、その首が空中に舞い上がる直前、アトレイシアは、ザミエルという男が最後に残した声を聞いた。
その男の声は、アスガルド王国の「王女」である彼女に向けたものではなく、「アトレイシア」という一人の少女に向けて叫ばれたものであった。
彼にその名で呼ばれたのは今回が初めてだ。男の首が落下していく様を呆然と眺めながら、アトレイシアは、ふとそんなことを考えていた。




