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予知能力者の犯罪

作者: 嘘河真白

ある日、予知能力者、笹村俊夫が人を殺した。

被害者は笹村の妻、好恵だった。

彼が言うには、予知で妻に殺されることを知ったので、殺される前に殺すことにしたという。

だから、自分は正当防衛だと笹村俊夫は主張した。

ここで、探偵の登場である。

「ふむ、正当防衛か」

探偵、遠峰邦彦は言った。

「確かに、予知で自分が殺されることを知ったら、殺される前に原因を排除しようとするだろう。だからといって殺すのは過剰だが」

「過剰というか、異常です」

助手の真水は自分の意見を遠峰に言った。

「異常、か。確かにそうだ。殺されるビジョンが見えるなら、対策も可能だ。わざわざ殺人を犯してまで、危険を回避するのはおかしい。」

現に、危険から身を守る超能力者の組織もある。と遠峰は付け加えた。

「確か、笹村好恵は無能力者だったのですよね?」

真水は言った。

「ああ、だけど、依頼で人を守る能力者がいるなら、依頼で人を殺す能力者もいるだろう?まずは、それについて探ろう」

遠峰はおもむろに椅子から立ちあがると、笑みを浮かべて言った。

「さて、楽しい情報収集の時間だ。」


遠峰は情報収集が好きだ。

なぜなら情報は答えに導いてくれるからだ。事件の真相が巨大なパズルなら、情報はパズルのピースだ。中には関係のないピースがあるが、それを選別する作業も楽しい。

情報を正しく理解し、組み合わせれば、自ずと真相は見えてくる。それを自分の手で行う作業が遠峰は好きだ。

「さてと、到着したか」

Bar猫の退屈。

ここに集まる人は訳ありの客ばかりだ。助手はこういった所に場違いな自分を感じていたが、仕事なので我慢した。

「マスター、ミルクを二つ」

「あいよ」

遠峰は16歳だが高校には通っていない、つまり中卒である。

真水はまだ10歳なので小学校に通っているが、基本的に学校以外は探偵の仕事を手伝っている。

「よう、探偵」

「やあ」

男が遠峰に話しかけてきた。

「いきなり呼び出してきたからびっくりしたぜ。で、どうしたんだ?」

「まずは、この写真を見てくれ」

そう言って遠峰は笹村好恵の写真を見せた。

「これはこれは、かなりのべっぴんさんで……まさか、美人の写真を見せびらかしにきたというわけじゃないよな?」

「実はそうなんだ」

「それはよかったな、満足したか?……じゃ、俺は帰るぞ」

「この女に見覚えはあるか?」

「ないな、これでいいか?」

「ああ、帰っていいぞ」

「……ったく」

男は帰っていった。

「それで、どうだった」

遠峰は真水に聞いた。

「本当みたいです」

さて、予知能力者に対してどのように探偵は真相に辿り着くのか疑問に思った者も多いだろう。

『あなたが犯人ですね!』と指差した相手が勝手に白状する、なんてことは現実には起こらない。

相手によっては死ぬまで口を閉ざす人もいるだろう。

なんてことだ、これでは手詰まりじゃないか!

そう思ったあなた、大丈夫です。手は打っています。

ここで読心能力者である真水の出番だ。

読心能力者。相手の心を読み、本音を知る能力である。

しかし能力には制限があり、考えていることを知るには地肌に直接触れなければならない。

触られるのが胸とお尻のおっきい美人のねーちゃんなら喜ぶだろうが、ほとんどが男である。ゲイでない限り喜ばない。

だがしかし真水は少女、大抵の相手は触っても心を許してしまうだろう。

肌に触れてなくても能力は使えるが、せいぜいYESかNOを知るくらいしかできないのである。

まともに能力を発動したとしてもその時考えていることしか分からないので、

例えば殺人事件の犯人に読心能力者が触れて『お前が彼を殺したんだな?』と質問したとしても、

犯人が(あー、うぜー、つうか腹減ったし。カレー食べたい)という内容が読み取れるだけである。

ちなみに上記の発言は警察の資料に書かれていたものである。遠峰は顔が広いのだ。

閑話休題、さっき話していた男は暗殺組織のブローカー、仲介屋だ。

ブローカーは唯一殺しを依頼する相手を知っている。

ならば直接聞けばいいじゃないかと思うだろう、ならなぜ遠峰はあんなことをしたのか。

理由は簡単だ。突拍子もない質問の時、相手は身構えていないので心の中は十中八九本音である。

馬鹿正直に「この前、予知能力者に妻であるこの女が殺されて、彼は自分が妻に殺される予知を見たので殺される前に殺したのだと正当防衛を主張したんだ。お前、この女に彼の暗殺を頼まれたか?」なんて聞いても、ブローカーはただ笑って情報料を要求するだろう。

高い情報料を支払ったからと言ってブローカーが本当のことを話す保証はない。こういったブローカーは読心能力者対策をしているという噂があり、YESかNOかではそれが本当なのか分からない。

実際は読心能力者対策はしていないかもしれないが、そんな噂があるというだけで、心を読んだところで得た情報に対する信頼は半減する。

だから、できるだけ素の反応が欲しかった。

得られた情報はYES。妻は夫の殺害を依頼してない。

「これで好恵が暗殺組織に頼んでいないと分かったな」

「そうはいいますが、妻を殺したのは予知を見てからじゃないですか。だったらその時の妻に殺害の動機はなくて、予知してから予知の出来事が起こる間までに殺害の動機ができたのだと考えられるのではないですか?」

「……んー、まあ理由はあるんだが……説明するより実際に聞いた方がいいだろう。笹村俊夫の家に行こう」

「どういうことですか?」

「簡単なことだ、俺の知ってる情報と君の知ってる情報に差があるってだけさ」


「この度の不幸、誠にご愁傷様です」

「ご丁寧に痛み入ります」

心にもない言葉を、と真水は思った。

「それで、詳しいお話をお聞かせ願えないでしょうか?」

「ええ、私の知っていることでよろしければ……」

よっしゃ!という遠峰の勝ち誇った顔を真水は幻視した。

「私はこの屋敷の使用人、佐伯恵子と申します」

「それは知っています」

遠峰は情報収集モードになると相手に対する配慮がなくなるのだ。

「向こうは喪に服しているのですからちょっとは容赦をしてください!おばあさんに失礼ですよ」

「真水よ、そこは妙齢の女性と言いなさい。彼女に失礼だ」

ああいえばこういう、と真水は思った。

「聞きたいこととは、何か?」

「まずは、笹村俊夫の能力についてです」

そう言って遠峰は真水を見た。

暗にこう言っているのだろう、これはさっき言ってた好恵が暗殺を頼まない理由に関係することだ。

「分かりました」

「予知は好きな時にできたのですか?」

遠峰は一つ目の質問をした。

「いいえ、できませんでした。予知能力者といっても天啓みたいなものらしく、いつも突然予知が起こるので旦那様は自身の能力を片頭痛と呼んでいました」

片頭痛、と呼んでいるところに、自分の能力をやっかいだと思っていることがうかがえた。

「予知できる範囲はどれくらい先の未来まで可能ですか」

二つ目の質問だ。

「一日先の未来が限界だそうです。それより先の未来は見たことがない、と言ってました」

遠峰が再度真水を見た。ついでにウインクを送られた。はたき返しておいた。

「予知される未来はどれも重大なことですか?」

三つ目。

「いいえ、特にそういったことはなかったですね。あくまで日常の風景を切り取ったものを強制的に見せられている、と聞かされました」

何のためにある能力なのだろう、と真水は思った。

「予知能力にインターバルはありますか?」

四つ目。

「一か月周期で予知が来るそうです。旦那様は予知周期をつけていました」

まるで女性みたいだな、と遠峰は思った。『ああ、明日あたり予知がくるのか。憂鬱だなあ』とでも言っていたのだろうか。

「そうですか、予知能力に関してはこれで終わりです。次に、夫妻のことを聞かせてもらえますか?」

「はい、いくらでも聞いてください」

「ご主人の趣味は?」

「ロッククライミングです」

「それはそれは危険なご趣味で」

「本当ですよ。いつも新しい傷を作っては奥様を悲しませていました」

そう言って使用人は写真立てを見せてきた。写真立ては新品のように綺麗で、中に映っている予知能力者は服がぼろぼろで体中が傷だらけにもかかわらず笑顔でピースをしていた。

これが人を殺すような男には見えない。そう真水は感じた。

「奥様の趣味は?」

「裁縫です。奥様の腕はプロ級なのですよ」

「夫婦仲は、どうでしたか?」

「それはもう良好でした。おしどり夫婦とはまさに旦那様たちのことを指しているくらいに」

「浮気、という線はありましたか?」

「とんでもない!旦那様も奥様も相手のことを一途に思ってました」

「しかし、だからといって一人の時間がないわけじゃないと思いますが」

探偵はなおも食い下がる。

「私は住み込みの使用人です。奥様が逢瀬をしようものなら私がすぐに気付きます」

「浮気ではなく、片思いの可能性もあるでしょう?」

片思いで殺人に発展するとか、好恵はどんなサイコパスだ、と真水は思った。

「それもありません、奥様は普段は家を出ませんから。関わるのは私ぐらいです。外出をされるとしても旦那様について行かれる場合のみです」

「つまり、使用人のあなたの横恋慕だと」

「面白いことを言われますね。これでも私、夫一筋ですのよ?」

なんとも言えない空気になってきた。真水は早くも帰りたくなってきた。

「あ、あの、家、とっても綺麗ですね」

真水は苦し紛れにお世辞を口にした。

「そこに気付くとは、さすが真水だな。俺も気になっていた……佐伯さん、この家には欠けたものがありませんね?それに、どれも新品みたいに綺麗だ」

珍しく遠峰に褒められたが、それがただの買い被りであることに真水は微妙な気持ちになった。

「そうなのですよ、これは奥様が完璧主義だからです。奥様は割れたり、壊れたりしたものを嫌います。特に身の回りに関しては潔癖すぎるほどに」

「では、常に新しいものを買っていると」

「いいえ、そうではありません。確かに欠けたものは買い換えますが、奥様は物持ちがいいのですよ?」

これを見てください、と渡されたのは懐中時計だった。これも新品みたいに綺麗だった。

中を開くと時計の針は正確な時刻を指している。一分の狂いもなかった。

「どれくらい前のものだと思います?」

「二、三年前でしょうか?」

真水の台詞に、佐伯はにっこりと笑った。

「奥様が五歳の誕生日にお父様から送られた物だそうです」

何年前、と言わないあたりがミソである。

「ですから、この家の家具も奥様の生まれる前からの物もありますよ」

この屋敷は予知能力者の物ではなく、妻の物だったか。玉の輿ってずるいと真水は思った。

「そういえば、アルバムってありますか?」

「ええ、ありますよ。ちょっと待っててください」

そう言って佐伯は席を外した。

「これで、俺が言った意味が分かったか?」

遠峰が聞いてきた。

「……予知できるのが一日先の未来なら、好恵が暗殺をするわけがないということ?」

「そうだ。いくら腕利きの暗殺者でも対象の下調べは欠かさないだろ?一日の間に殺害動機を持ったとして暗殺組織に依頼している間に一日なんてすぐに終わってしまう」

「暗殺委託現場を見たとか」

「そんなに都合のいい予知はないって言ってたぞ」

真水は佐伯の発言を回想した。

「そうだよね、普通暗殺を委託される場面なんてみようとしても見られるわけじゃないし……あれ?」

「気付いたか」

「それなら、どうして予知能力者は自分が殺されるって分かったんだろう?」

「そう、そこだ。正当防衛がおかしいと感じる、真実への一つのピースだ」

「一ピースというより、もうそれひとつで正当防衛なんて嘘だと立証できるんじゃ……」

「たとえそれが九割九部九厘の確率でありえないと考えても、残りの一厘が残っている。これは一歩目だ。まあそれはどうでもいいが、俺が知りたいのは真相であって正当防衛が成立するかしないかは判断材料の一つでしかない」

「でも、これ以上何を聞き出すのですか?」

「そのために今調べているんだよ」

アルバムなんて調べて何を探るつもりなんだと口にしそうになったが、真水はこらえた。遠峰は後で必ず話してくれるが、それまでは絶対に答えない。遠峰との付き合いの長い真水はそれを分かっていた。

「さっきも言ったけど、本当にきれいな家だよね」

真水は話題を戻した。さすがに待ち時間ずっと無言はちょっと辛い。

「ああ、だけどよく見てみるんだ。結構違いがあるぞ」

遠峰に言われ、真水は目を凝らした。みんな綺麗なのは確かだが、よーく見てみると、微妙な違いがある。

「……あれ?妙に綺麗なものと少し汚れているものと違いがあります」

「そうだ。その汚れているものと綺麗なものをグループ分けすれば、俺の言いたいことが分かる」

ふむ、と思い真水は脳内でグループ分けを開始した。

笹村俊夫の所有物や彼の映っている写真立てはすごく綺麗だ。しかし、好恵の家族が映った写真立てや来賓用の紅茶カップは微妙に汚れている。

つまり……

「好意の対象ごとに清潔度の違いがあるってこと?」

「正解でございます。アルバムを持ってきました」

「うわあ!」

これは真水の悲鳴だ。

「奥様は特に好きな相手には完璧を求めます。私のような使用人がいるのに、旦那様の身の回りのことはすべて奥様が行いました」

そこまで愛していると、逆にうっとおしいなと真水は思った。

「アルバム、見せてもらってもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」

一応断りを入れてから、遠峰はアルバムを見始めた。

出会った当初の二人が映っている。

「やっぱり」

遠峰が一言つぶやいた。

「やっぱり、とは?」

佐伯が聞いた。

「これを見てくれ。出会った当初のこの写真では確かに素体は美人だが、それほど人目を惹く美貌ではない。だが、最近の写真を見ると、まるで別人のように好恵さんは綺麗だ」

「何が言いたいのでしょうか?」

「この美貌を見て、多くの男性が付き合いたいと思うでしょう。それほどに美しい体なら当然だ。しかし、問題はそこではない。なぜ彼女は綺麗になったのかだ」

そこで一度区切って遠峰はお茶を飲んだ。

「続きをどうぞ」

「そう、それは恋!恋をすると綺麗になる、と言います。つまり彼女は恋を」

「他者との接点はないと言いました」

「家にいても他者とコミュニケーションを取ることはできる!SNSや出会い系のサイトといくらでも候補はあります!それに相手は生身の男性でなくても二次元という素晴らしい偶像があるそうじゃないですか」

「言いましたよね、私が気付くと。奥様が実在しない人物に思いを馳せているのなら私が気付くはずです」

「そうですか、それはすみませんでした」

引く時はあっさり引き下がる。それが遠峰であった。

「あんな穴だらけな理論、遠峰らしくないよ」

真水は遠峰に小声で耳打ちした。遠峰は多少のくすぐったさを感じたが、冷静に返した。

「俺は間違えることも大切だと思っている。確かに馬鹿らしい発想だと思うが、ありえないという可能性がゼロじゃない時点で私の思考の隅に候補として残り続けるのだ。間違えたということは選択肢が一つ減ったということ。たまにバカバカしいことが正解のことがあるからな。早めに折ることで余計な妄想に取りつかれなくなる」

そんなゴミ箱にポイする感覚で大演説会を行うなんて、遠峰は探偵のくせに馬鹿じゃないのかと真水は思った。

アルバムを見ながら遠峰は思った。それにしても写真が多いと。だがその写真のおかげで好恵が綺麗になった理由も分かった。

「なるほど、そういうことか」

遠峰は写真を何枚か抜き出し、真水に見せた。

「これがどうしましたか?」

真水には好恵が映っている写真、という印象しかない。

「左側が古い写真、右に向かうにつれて新しい写真になっていく。何か気付かないか?」

「……徐々に綺麗になっていってる?」

「そうだ。恋をしたから綺麗になったんじゃない。彼女は自分で努力して綺麗になっていったんだ」

「えっと、それが?」

「そんなに長い期間、誰に見せるでもなしに努力する女はいないだろ?もしナルシストだったら人に見せびらかしたいはずだ。それもないなら彼女は誰のために自分を磨き続けていたんだ?」

そう言われて、真水は探偵の言いたいことをやっと理解した。

好きな相手にとって完璧な女でありたかった。ただそのためだけに努力したのだと。

「好恵は、俊夫のことを死ぬまで愛していたってこと?」

なら、どうして好恵は俊夫を殺そうとしたのだろう?逆になぜ俊夫はそんな妻を殺そうとしたのだろう?真水は頭をひねった。

「では、次はここ最近の出来事を教えていただけますか?」

「そうですね……ああ、奥様の旧友の方が来られてましたね、奥様から呼ばれたそうで。珍しいことなのでよく覚えています」

遠峰は佐伯から彼女の連絡先を聞き出した。

「他におかしなことは?」

「そうですね、旦那様が予知を見たそうです」

予知を見たことは本当だったのかと、真水は思った。

「予知を見たのは事件当日ですか?」

遠峰が聞く。

「いいえ、事件前日でした」

「……え?」

思わず真水は声を漏らした。

確か、予知できる未来は一日限定だったはず。

それなら、すでに予知した出来事の予兆くらいあったはずだ。

わざわざ正当防衛など主張するより、その証拠を出せばいいのではないか?

「予知の内容は知っていますか?」

「いいえ。ただ、予知の内容に衝撃を受けたそうで、前日の夜は奥様に慰められておいででした。それなのに、なぜ……」

「それを知るのが俺たちの仕事です」

よくもまあそんな嘘を、と真水は思った。

「事件の起きた現場を案内してもらえますか?」


「旦那様のお部屋です」

案内された部屋は人一人住むには随分と大きい部屋だった。ここで五人くらい暮らせるんじゃ、と真水はどうでもいいことを思った。

「ここは?」

「旦那様の趣味のスペースです」

遠峰が指差した場所は笹村俊夫のコレクションが置かれていた。車関係の本や模型、ロッククライミング一式、大量のジーンズ、自分の犬の写真や動画、遊び道具としてボールやフリスビーがあった。

「すごいなあ、本も犬の遊び道具も新品みたいだ」

真水は率直な感想を口にした。

「やっぱり傷を作って捨てるからジーンズは大量購入してるのですか?」

「いいえ、旦那様はジーンズ全般がお好きなので、結果的にこんな数に……」

「ふーん、よく分からないな」

遠峰は興味なさそうにジーンズに触った。

「ちなみにその一着は二百万円です」

遠峰は手をひっこめた。

「ここにもアルバムがあるんだな」

ジーンズの物色をやめ、新たなターゲットになったのはアルバムだった。

「はい、旦那様は毎晩アルバムを眺めるのが日課なので」

「そんなに家族を愛している人が、どうしてこんな……」

気付けば真水はそんなことを口にしていた。

「……旦那様は、愛の深いお方でした。以前奥様に対して悪口を浴びせた人がいました。彼にそれほどの悪意はなかったのでしょう、けれどもそれを聞いた旦那様はその相手に対して拳をふるったのです。幸い大事にはいたりませんでしたが、周りが止めていなければどうなっていたか……旦那様も、『こんなつもりじゃなかったんだ……』と言っておられました。旦那様がこのような行動に出るのは奥様だけではありません。愛犬のジョンが野良犬に傷つけられた時、旦那様は野良犬の命を奪いました。ジョンは子供のいない旦那様方にとって、息子同然でしたから、気持ちは分かるのですけれど。旦那様も我に返ったらしく、『申し訳ないことをした、君を傷つける気はなかったんだ』と野良犬の墓を作って弔っておりました」


「今日は、ありがとうございました」

帰りの際、遠峰は置かれている靴を見た。

笹村俊夫の靴が一番綺麗で、次に好恵、最後に佐伯の靴の順だった。しかしどれも一目では新品と見間違うほどの美しさだった。

「あの、ひとついいでしょうか」

真水はどうしても気になっていることがあった。

「どうして、僕たちに本当のことを話したのですか?」

心を読んだ結果、佐伯はすべて本当のことを話していた。

佐伯はそれに対して真剣な表情を作り、口を開いた。

「あなた達の噂は聞いています。必ず真実にたどり着ける人たちだそうですね。私は、ただ真実が知りたいのです。なぜ奥様が殺されたのか。旦那様がなぜ奥様を殺したのか。それがどんな真実だったとしても、私が知りたいからです」


「ごめん、少し休ませて」

笹村俊夫の屋敷を出てから数分後、青い顔をした真水が言った。

「酔ったのか、真水」

読心能力者は他人の心を覗き続けると酔ってしまう。

他人の心というのは、自分の心とは違い、異質なものだ。

ほとんどの人は他人の愚痴を聞いていい顔をしない。読心能力者は、耳元で大量の愚痴を大音量スピーカーで流されるようなことをおこなっている。

「真水、ここでひとまず休憩しよう」

手ごろなベンチを見つけ、真水を座らせた。隣に遠峰が座る。

「ほら、俺の心を覗いていいぞ」

「……ありがとう」

真水は遠峰の腕に触れた。

遠峰の心の中は純粋な知識欲で満たされている。不純なものは何もない、澄んだものだ。

人の心を覗くのは嫌だが、こうして遠峰の心に触れることができるので、実は嫌じゃない。

遠峰の心の中に触れると、真水は貝殻に耳を当てている感覚を覚える。

ざざーん、ざざーん

そこから聞こえる海の音に、耳を澄ませるのだ。

心が落ち着く。真水は遠峰を見てそう思った。

読心能力者にとって純粋な心の持ち主はなくてはならないものである。

なぜなら読心能力者は処女としか結婚しないからだ。

これは単純な個人の趣向なのではなく、生理的に他者と交わった経験のある人が受け付けないのである。

なぜなら読心能力者にとって粘膜での接触はより深く相手の心を読んでしまうからだ。

例えその相手が記憶喪失で過去に他者と交わったことを忘れていたとしても、深層心理に触れれば一発で分かってしまう。

とある読心能力者は心を読んで処女と知った相手と行為に及んだ時、大量のバイブとローターで快楽を貪るイメージを受け取ってしまい、精神的外傷を負った。

読心能力者は他者の気持ちを読むのではなく、他者の気持ちを感じやすい人たちなのである。

そんな読心能力者はどうやって結婚をして子を為すのか。

実は闇の人身売買があるのだ。

扱われるものはカスタマイズヒューマンというもので、クローン技術によって好きな容姿にすることができ、生成から三日で成人し、歳を取らない。

ロリ幼女を求める相手にもロリ幼女の外見を与えられた生後三日の成人女性のクローンが与えられるだろう。

彼女等は生まれてから物を一切与えられず、点滴で栄養を取り、すべて機械で教養や社会常識などを習得し、生物との接触は一切行わない。

そんな彼女たちが初めて触れるのが、読心能力者になる。

処女独占主義を強いられる読心能力者にとって、最適な相手だ。

もし読心能力者の家に、光の一切入らない部屋や、入ることを禁じられている地下室があったら、そこに彼女等はいるだろう。

ちなみに、もしも真水が16歳以上で、遠峰が18歳以上だったら真水は強引にでも遠峰と結婚していただろう。

なぜ僕は6年早く生まれなかったんだと、真水はは自身の体を見てため息をついた。

「そういえば、真水と初めて出会った日も、こんな日だったな」

遠峰は、懐かしそうにそんなことを言った。

「……そういえば、そうでしたね。僕が先に座っていて、あなたが突然僕の隣に座りました」


真水は身寄りのない子供で、養父に仕事の道具として使われていた。

一大企業の社長である養父は、腹の探り合いに真水を利用したのだ。

汚いものをいっぱい見てきた。社交界はまさに地獄だった。

誰のどんな弱みを握ったとか、誰を蹴落とすとか、殺意だとか、陰謀と言ったどろどろとして気持ち悪い、そういったよくないものを受け取り続けた真水は、自身の心が犯されていくのを感じていた。

一つ人の心を知るたびに、自分の中の大切なものが、ひとつずつ失われていく日々を過ごしていた真水はある日、逃げ出した。

そして逃げた後のことを何も考えていなかった真水は途方に暮れてベンチに座り、そこで遠峰と出会った。

「なあそこの少女、ここにこんな顔の猫がいなかったか?」

それが遠峰の声を聞いた最初である。

「知りません」

「ふむ、おかしいな。彼女の行動パターンを見るに、ここにいるはずなんだが」

そもそも書かれている似顔絵がへたくそすぎて、見ていても分からない、と言った方がよかったかもしれない。

「あの、探しましょうか?」

あまりにも深刻そうな顔で唸っている遠峰を見て、自然とそんなことを口にしていた。

「いいのか?お駄賃はやらんぞ」

「いりませんって」

そんなこんなで二人の猫探しが始まった。

しかし、いくら探しても猫は見つからずに日が暮れてしまった。

「もう日も落ちた。君は家に帰りなさい」

「まだ平気です。親、帰ってくるの遅いから」

「しかし、未成年がこんな時間に出歩くのは……」

「あっ」

「どうした?」

ふと、声が聞こえた。

子供が親を呼ぶ声だ。助手は走り出した。

「こっちです!」

「俺は肉体労働は得意じゃないんだ!若い君のようにエネルギーに満ち溢れているわけでもない!だから、少し、ちょっと、待って、くれ……」

助手が向かったのは橋の下だった。

草むらをかき分けて開けた場所に出たところに、子猫達がみぃみぃ鳴いていた。

読心能力者は肌で触れていない心の声はYESかNOしか分からないが、動物の声にならない声は聞き取ることができる。

「なるほど、そういうことか……」

「飼っていた猫がいなくなったのって、こういうことだったのですね」

つまり、猫は自分の子供を産んで育てるために安全な場所を探していたのだ。

だから探偵が飼い主や目撃者に聞いた行動パターンを当てはめても見つからなかったのだ。

「情報量不足だったか。今回は君の勝ちだ、助手よ」

「別に勝負していたわけじゃないのですけど、ってなんですか助手って」

「助手は助手だ。君はなかなか見どころがある、俺の助手になってくれないか?いやなれ」

「ほぼ強制じゃないですか!」

「そんなことを言って、どうせ帰る場所はないんだろ?」

「どうしてそれを」

「ただのブラフさ。探偵の勘があれば的中率はほぼ100%だ。ただ、理詰めで真相に辿り着くのが信条の俺にとって、こんな方法は好かんのだがね」

「なんか、探偵の勘とか信用ならないものを聞いたけど、それで当てられちゃったから何も言えない……」

「探偵とはそういうものだ。なにはともあれ、これからよろしく頼む」

「こ、こちらこそ、よろしく……」

そして真水は遠峰の手を握り、彼の心に触れた。

いつもは身構えてからでないと触らなかったのに、あまりに自然な流れで握手をしてしまった。真水は自分が相手の感情の濁流に翻弄されることを覚悟した。

しかし、それは初めて知る心だった。

真水が知っているのは常に相手を蹴落としたり、不幸を呪ったりするネガティブな感情ばかりだったのだ。

だが遠峰にあるのは、好奇心。

知識欲によって構成されたそれは、深く踏み込んで自身が傷つくこともいとわない、とても危なっかしいものだったが、傷つくことを恐れた真水にとってそれはとても憧れるものであった。

この時初めて、真水は他者のことを深く知りたいと強く思った。


「どうでもいいこと聞いていいですか」

なんのけなしに真水は聞いてみた。

「なんだ?」

「もし、世界から謎がすべてなくなってしまったらどうしますか?」

「そんな世界は滅びればいい」

「滅ぼさないこと前提でお願いします」

「冗談だよ、探偵ジョーク。探偵嘘つかない」

「たった一言で矛盾しているのですが」

「鋭いな、さすが俺の助手だ」

「……。」

「そうだな、もし世界から謎がなくなったら、俺は謎を作る側になるだろうな」

「自分で作ったら、謎を解く楽しみがないじゃないですか」

「よく考えてみろ、真水。もし世界から謎がなくなったら、その世界に住む人々は謎を解くことの楽しさを忘れてしまうのだぞ。それは、とても悲しいことではないか?だから、俺が謎を供給するのだ」

「それで、具体的にはどんなことをするんですか?」

「……パズル作家とか、どうだ?」

「似合いませんね」

違う、聞きたいことはそれじゃないと真水は思った。

遠峰のプランを聞き、それを一蹴してへこませることが目的ではなかったはずだ。

本当に聞きたかったことは、もし世界から謎がなくなっても、あなたの助手として居続けられますか。僕はあなたに必要とされてますかと聞きたかったのだ。

「ああ、そういえばさっき、俺が謎を作っても俺自身が謎を解けないと言っていたな」

「はい」

「そうだな、もし俺が謎を欲した時は真水に謎を作ってもらうことにするよ」


少し休憩をしてから、遠峰と真水は妻の友人、佐々木志保に会うことにした。

「聞きました。好恵、殺されたそうですね」

友人の訃報を佐々木は心の底から残念がっていた。

「それで、どうして呼ばれたんだ?」

「ああ、それはね。これを受け取ってほしかったみたい」

そう言って差し出したのは、オルゴールだった。

「家の整理をしていたら見つけたらしくてね……懐かしいわ。このオルゴール、外箱を好恵がデザインして、掘ったのは私。二人の合作なのよ」

オルゴールを撫でながら、しみじみと佐々木はいった。

「二人で作ったものだし、私は掘って満足しちゃったから好恵に譲ったのよ。それがいきなり私に譲るなんて、もしかして好恵、殺されるのが分かっていたのかしら」

「無能力者なので、それはないな」

また無粋なことを、と真水は思った。


「そうして最後に来たのが、私というわけですか」

「ああ、情報がないままだと何もできないからな」

ガラス越しの笹村俊夫を見て、遠峰は言った。

「手短に、かつ単刀直入に質問する」

「どうぞ」

「一つ、本当にお前が殺したのか?」

「ああ」

読心結果はYES

「二つ、一日前に予知したのか?」

「違う、妻を殺した日に予知したんだ」

読心結果はNO

「すまなかった、間違えた。犯行当日に予知したのか?」

「そうだ」

読心結果はNO

「三つ、殺害理由は予知が原因か?」

「ああ、そうだ」

読心結果はYES

「四つ、妻の浮気が殺害理由か?」

「私はそんなことで人を殺したりしない!たとえ妻が浮気しようともそれは変わらない!私は憎しみで人を殺さない!」

読心結果はYES

「最後に、正当防……いや、楽しみが減る。最後の質問には答えなくていい。帰るぞ、真水」


「憎しみで人を殺さないってどういうことでしょうか」

真水は不思議に思っていた。

人が人を殺すほどの理由なんて、ほとんどの場合が憎しみなはずだ。

実際に殺した本人なら、憎しみで人を殺さないと答えるのに嘘はつけないだろう。

「簡単なことだ。憎しみ以外の原因だろう」

「あのですね……」

「少し小腹が空いたな」

「人の話を聞いてください」

「真水、確か君は激辛せんべいを常に携帯していただろう。それを一つ分けてもらえないか?」

「絶対に嫌です!」

「いいじゃないか、一つくらい」

「この子たちは一枚も譲るつもりはないんです、すべて僕がいただくのです!」

「……ふむ、俺はたまに不思議に思うのだよ。君のその、物に対する執着「愛着です」そう愛着、それが理解できない。私にはそれがないからだ。」

「謎に愛着があるじゃないですか」

「俺は謎自身に愛着を持っているのではない。たとえ謎が逃げようとも私の目に入った以上、真実を知るまで逃がさないだけだ。それに解かれた謎になど俺は興味がないからな。あくまで謎を解く過程が面白いのだ。特に人間の感情は時に非合理的だ。だからこそ解く価値がある」

「そもそも他人が愛着を持っているものを理解できるわけがないんです。例え心を読んでも理解できませんから」

そう、例えば学校以外は無休無給でほとんどの時間を拘束され、雇用者の世話を四六時中するという重労働をしていると周囲から思われていて、近所の人から『真水ちゃん、あの探偵にどんな弱みを握られたの?話すだけ話してほしいわ、おばちゃんの力でなんとかしてあげられるかもしれないから。大丈夫、行く場所がないならおばちゃんの子になっちゃえばいいんだよ!』と言われているが、真水にとっての一番の執着はそのひどい労働環境の探偵事務所でずっと働きたいということだったりする。

「執着、愛着か……そうだ!真水、君は激辛せんべいが好きか?」

「大好きです!!」

最近の真水の夢は気のすむまで激辛せんべいを食べることである。

「猫は好きか?」

「大好きです」

これはまあ、女の子だし?それなりに好きかな程度である。

「俺は好きか」

「自分が好かれる人間だと思ってるのですか?笑わせてくれますね」

鈍感野郎は責任とって僕と結婚しやがれ、という意味を込めて真水は遠峰の目を見たが、遠峰には伝わらなかった。僕は読心能力者じゃなくて伝心能力者だったらよかったのにと真水は思った。

「……まあ、いい。分かったぞ、事件の真相が。早速準備をしようと思う」

さっきまでの会話のどこに真相へのヒントがあったのだろうか。真水は首をかしげた。

「準備ってなんですか?」

「笹村俊夫を釈放してもらう」


「釈放おめでとうございます」

「……何の用だ?」

「お時間は取らせません。少し話をしましょう」

探偵のコネを使い、釈放された笹村俊夫を探偵事務所に招いた。

「いきなり釈放されたからおかしいとは思ってたんだ、お前の差し金か」

「まあ、そういうことです」

真水が入れたお茶を一口すすり、笹村俊夫は聞いた。

「で、用件は?」

「ちょっとした答えあわせです、時間は取りません」

遠峰はこれから経験するであろう快感を想像して唇を緩ませた。

「最初に笹村俊夫さん、あなたは正当防衛のために好恵さんを殺害したわけじゃありませんね?」

「そういえば、お前には直接話してなかったな。いいか?私は予知で殺されることを知って自分が殺される前に妻を殺したんだ。正当防衛であって当然だ」

「ですがあなたの予知はランダムで、その日に限って殺される瞬間を予知したと?」

「そうだ。妻に殺されるビジョンを見たんだ」

「しかし、おかしいですね。犯行前日に使用人の佐伯さんから笹村さんが予知をして好恵さんに慰められていたと聞いたのですが。一か月ものインターバルのある予知を一日おきで予知したのですか?」

「……そういえば、予知は一日前だった気がする」

「それもおかしいですね。それならあなたは自身を殺す相手に慰められていたことになる。普通なら殺す相手には近づかないはずでは?」

「う、うるさい!細かいことはいいんだよ!」

「まあ、別にこんな問答はどうでもいいんです。言いましたよね、私は真実が知りたいのだと。あなたはただ俺の話を聞いて、答えればいいんです」

「ふん、何を言っても私は認めんからな」

「では、本題です。俺が想定した、なぜ、このような事件が起こったのか、仮説を聞いてください」


「まず、俺がおかしいと思ったのはあなたの部屋でコレクションのジーンズを発見した時です。佐伯さんから聞いた話だと、あなたはジーンズ全般を集めていたというじゃないですか」

「そうだ。ジーンズが好きで何が悪い」

「ですが、ジーンズ全般のコレクションなのに、見つからなかったものがあるんです。いわゆる汚しや傷が入ったダメージジーンズです」

「……。」

「佐伯さんに確認したところ、あなたは妻に隠れてこっそりダメージジーンズを買っていたそうですね。ですが、改めていくら探しても見つかりませんでした。どうしてでしょう?」

「さあな」

「次に、犯行が起こる数日前に呼ばれた好恵さんの友人、佐々木さんに話を聞いた時です。用件はオルゴールを譲るというだけの話でしたが、それはどうでもいいことです。佐々木さんの話によると好恵さんが家の整理をしていた時にオルゴールを見つけたらしいと聞かされて、俺はこう思いました。『家の整理をするなら、夫であるあなたの部屋も掃除したのではないか』と」

「あいつは、好恵は綺麗好きだからな。掃除程度何もおかしいことはない」

「好恵さんがあなたの部屋を掃除した時、彼女はダメージジーンズを見つけたのではないでしょうか?ロッククライミングという趣味をお持ちのあなたは、怪我を多くされるそうですね。それも服がボロボロになるくらいの」

「何が言いたい」

「好恵さんはダメージジーンズを見て考えたはずだ。『ロッククライミングで怪我をして傷ついてしまったのね、捨てなくちゃ』と。好恵さんは完璧主義者でしたからね。実際家にあるものの中にひとつとして欠けたり破れたりしたものはなかった」

「……。」

「そして勘違いで捨てられた一着数百万もするダメージジーンズがないことを知ったあなたは、好恵さんを殺害した」

「物を捨てられたくらいで俺は人を殺さない」

「ええ、そうでしょうね。あなたは憎しみで人を殺さない」

「だったら」

「だってあなたは、悲しみを紛らわす代償行動で好恵さんを殺したのだから」

「……あ」

「佐伯さんは本当にあなたがた夫婦をよく見てらっしゃった。好恵さんに悪口を言った相手を殴って、『こうするつもりじゃなかったんだ……』と言っていたと。愛犬を傷つけた野良犬を殺した時も、『申し訳ないことをした、君を傷つける気はなかったんだ』と言っていたそうですね。これは頭が冷えて言った台詞というより、むしろ本心から相手を傷つけるつもりじゃなかったのでは?」

「……ああ」

「あなたはとても感じやすい人だったのでしょう。その溢れ出す感情を抑えきれず、物に感情をぶつけてしまう。犯行の日、あなたにそれが起こった」

「……はは、はははは……そうさ、そうだよ。私が悪いんだ、私が……」

押さえていたものが溢れ出したのだろう。読心を使うまでもない。これから話すことはすべて真実だ

「好恵を殺す前の日、私は予知を見たんだ。私はただ子供のように泣いていて、悲しいという感情だけが伝わってきた。どうしてだか理由が分からずに私もその感情に感化されて、とても悲しくなってしまったんだ。だから好恵に慰められはしたけど、次の日になっても精神が不安定な状態だった。そして私はダメージジーンズがないことを知った。あれはとても大切なものだったんだ。そして気付いたら、私は好恵の首を絞めていた。首を絞められている時に、好恵は言ったんだ。声にはなっていなかったが、唇の動きで分かった。『ごめんなさい、分からなくて』手を離した時にはすでに好恵は事切れていた。私は泣いたよ。子供のようにわんわんと。その光景はまさに予知の通りだった。だけど、予知の私はどっちのことで泣いていたのだろう?ジーンズを失ったから?好恵を失ったから?普段ならジーンズを失ったところで好恵に手をかけることなんてなかった。今までにも似たようなことがあったからね。だけど、あの日だけは違ったんだ。予知のことで私はナーバスになっていたんだ。だったら、私は予知によって人を殺したことになる。はは、なんだそうか。今まで誰に責任があるのか探し続けていて、やっと気付いた。私は予知に好恵を殺されたんだ。すべてはこの、役立たずな予知能力にあるんだよ!」

「笹村さん」

「さあ、さっさと警察にでもなんでも連行しろ!私はもうどうなってもいいんだ!すべて失ってしまったのだからなっ!」

「笹村さん、俺はあなたを連行するつもりなんてありませんよ」

泣き笑いしていた笹村の顔が、絶望に歪んだ。

「俺は謎を解く過程が好きで、謎を解いたからといって何かを要求したりはしない。正当防衛が認められたのなら、それに異を唱えるつもりはない。俺はお前の罪がどうなろうと、罰が与えられなくても、そんなことには興味がない」

笹村の顔から、表情が抜け落ち、何かが失われた。


「彼、自首したそうですね。」

遠峰にお茶を差し出しながら真水は言った。

「そうか。一度は罪を逃れたのに、今度は罰を受けにいくとは。人間の感情というものは分からない物だ」

遠峰はそれを聞いても何の興味も示さなかった。

彼は解いた謎には興味を失う。彼は刹那的快楽を好むのである。

ひとつ、真水は疑問があった。

「そういえば、どこを探してもダメージジーンズが見つかりませんでしたね」

「んー?ああ、それのことなら」

「知ってるんですか?僕、全然分からなくて……だって、ダメージジーンズを捨てたのなら佐伯さんが気付いていたと言ってましたし、でも家の中にはなくて……うーん、分からない……」

「なら簡単なことだ。ダメージジーンズは家の中にあったんだよ」「だから、それが見つからないと」「少々、姿を変えていたがな」

「……どういうことですか?」

「これを見てくれ」

そう言って遠峰はジーンズを一着取り出した。

「佐伯さんから借りてきたんだ。君が疑問に思うだろうと思ってな」

「これは、確かにジーンズですけど……ダメージジーンズではないですよね?」

「まあ、確かに分かりづらいかも知れないな。ちょっと貸してみろ」

遠峰はジーンズを裏返しにして真水に再度渡した。

「……あれ、この傷」

ダメージジーンズは綺麗に修繕されていた。

いかにも元からそうであったかのように、ひざの部分に色違いのひざ当てが縫い付けられていたのだ。

「好恵さんは欠けたものを捨てる人だけど、物を大切にする人でもあったからな。きっと、傷ついてもとっておいてある夫のジーンズを見て、それが夫の大事なものだと気付いていたんだろう。ただ取っておいてるだけなのに傷ついたから履けないのだと勘違いして修繕した結果、こんなことになってしまったけどな」

相手のことを思ってしたことが、結果的に殺害の動機になってしまった。こんな悲劇があっていいのだろうか。

「……救われない事件でしたね」

「そうだな……」

事務所に静寂の時が流れた。

「……真水、愛ってなんなのだろうか」

「随分とありふれた問いですね」

「ふと、気になってな。共に愛し合っているのに、なぜこのようなことが起こってしまうのか。普通愛とは双方にとっていいことが起こるものだと思っていたのだが」

「さあ、10歳児には理解ができないことなので……」

再び、沈黙の時が流れた。

「真水、キスしよう」

「……はぇ!?」

なぜこの流れでキスなのだ。しかも、『ちょっとあそこで食事しようよ』ってノリなのだ。普通はロマンチックなデートをして、ロマンチックな雰囲気の時に『キス、しようぜ』『はい、喜んでぇ!』となるのが一般的のはず。と真水は思った。

そもそも読心能力者にとって、キスしようとは結婚しようって台詞と同義である。

内面全てを見られるのだ。好きな相手でなければできない。

「あ、あの、き、キスはもっとこう、時と場合と場所というものがあってですね、いえ、別に嫌というわけではないんですよ、ただ、突然すぎて」

「なら、いいんだな」

遠峰は真水を抱き寄せてキスをした。

「はう……ん、ちゅ」

「……ん、」

遠峰も真水も互いが初めてのキスだったが、遠峰は粘膜の接触を図るために舌を絡ませる……いわゆるフレンチキスをしていた。

絡み合う口内の感触に混乱しながらも、真水の意識は遠峰の深層心理へと潜っていった。

真水は遠峰の奥の深いところまで流れ着いた。

遠峰の中はどこまでも澄んでいて、まるで深海のようだった。

真水はただ、遠峰の心の海をたゆたう存在だった。

そこは母なる海で、帰るべき場所。遠峰の心に包まれて、真水は安心感を覚えていた。

「……ひゃっ!」

気付けば、真水の意識は探偵事務所にあった。

「すまなかったな、俺も君との関係は長いから、好感を持っているし、試したかったんだ」

「……は、はぅ」

「しかし、あれだな。やってみてあれだが、よく分からないものだな、キスとは。免疫力を上げるためとはいっても、現在ではワクチンを打った方がお手軽だし」

「……はわわわ」

「真水、今興奮しているだろう」

心を読まれた?僕が!?……ありえないことだろうけど、まさか粘膜で接触したから僕の感情が向こうに伝わったんじゃ!と真水は思った。

「にゃ、にゃぜ、はにゃっにゃんにぇす?(な、なぜ分かったんです?)」

「簡単なことだ。現在、君の顔が真っ赤だからだ」

遠峰の言うとおり、助手はまるで熱に浮かされたかのように目がトロンとしていた。

「……それと、その、すまない」

「はにはへす?(何がです?)」

「キスをしたとき、どうやら舌を噛んでしまったようだ」

真水はその時初めて自身の口の中が鉄の味でいっぱいになっていることに気付いた。


……次回、「探偵はただでは死ねない」に続く。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ブローカーのくだりは結構「なるほどなあ」と思えたのでそれっぽいんじゃないかなと思える。 僕っ子可愛いよ可愛いよ僕っ子。 [気になる点] ・唐突に探偵が出てきたが何故探偵が関わっているのかは…
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