前編
そこは小さな部室だった。壁に接して置かれた棚には、筆記用具やコピー用紙、過去に発行した文芸部の部誌が並んでいる。中央のテーブルには、メイクポーチが置かれている。そしてその側には使用したと思われるメイク道具が散乱していた。
テーブルの手前に、二人の人間が相向かいになって座っていた。
「玲ちゃん、この前の小説おもしろかった! 相変わらず文章上手だね!」
一人の女――新島優が、相手にアイシャドウを塗っている。次にアイライン。そして女は、ビューラーを手に取った。
「痛い!」
優にまぶたを挟まれ、男は痛みを覚えた。男の目に涙が滲み、彼は恨めしげに相手を見る。
「ごめん、人のってやりにくいんだよね」
しかし優は悪びれた様子もなく、努力を続ける。しばらくして、どうにかまつげをあげると、メイクポーチからマスカラを取り、やはり苦労しながらマスカラを塗る。
その後も優は自身のメイク道具と相手の顔を見比べたりしながら、メイクを続けた。そして一仕事終えたと言わんばかりに、大きく伸びをする。
「完成! うーん、よく似合う。やっぱり玲ちゃんには、暖色系より寒色系の色が似合うね! 」
玲ちゃんと呼ばれた相手ーー柳沢玲はあからさまに嫌な顔をすると、優に押し付けられた鏡で顔を確認した。少し前までは自然な状態だった肌が、今はファンデやらチークやらで覆われている。
「あ、口紅忘れてた!」
優はメイクポーチを探り、全てをテーブル上にだした。ところが目当てのものが見つからなかったのか、しょぼんとする。
「忘れた。どうしよう……」
「なあ、優?」
「何?」
「もう、落としていいか? これ」
玲は自分の顔を指差した。メイクに慣れていないせいもあるが、非常に違和感があった。すると優は先程までの落胆した様子から一変し、強く否定した。
「ダメ! まだ写真とってないもん。それにこれは、罰ゲームなんだからね」
優はテーブルに置かれていたメイク落としシートを、素早く自分の鞄にしまい込んだ。
この前優の家でテレビゲームをしていた二人は、負けた方が勝った方の言うことを聞くという賭けをした。結果、勝者は優で、敗者の玲は言うことをきくことになったのだ。当初はメイクと服の両方をかわいらしくするという命令だったが、玲の必死の抵抗により、メイクだけで我慢するという結論に至った。
あの時に負けなければ、と悔やむ玲に対し、優はかわいらしい笑みを浮かべた。
「大丈夫。玲ちゃん、よく似合ってるよ」
「なあ、前から言ってるけど」
「何?」
「『玲ちゃん』って呼び方、やめてくれよ。恥ずかしいから」
「いいじゃん、かわいくて」
「……よくねえよ。女みたいだ。俺、男なんだけど」
玲は大きく溜め息をつく。優はごく当たり前のようにさらりと答えた。
「うん。男だね」
「かわいいって言われても、全然嬉しくないんだ」
「かわいいって言われたら、私は嬉しいけどな」
「それはお前が女だからだろ。俺は男だから、嬉しくない」
「でも本当にかわいいんだよ。この前の客寄せ用の女装、本当にかわいかったなぁ……ピンクのフリルのワンピース! 文化祭だけじゃなく、普段からああいうかっこしたら? 声も男にしては高いほうだし、低い声の女の子として十分通用するって!」
「断固拒否する」
この前の文化祭で女装をしたのは事実だ。しかしそれは、玲の望みではなく、あくまでも他の部員による強制だった。優を含む部員曰く、「玲は中性的な顔立ちをしているから、女の格好をしても似合うし、女装をすれば目立つ! 文芸部の客を増やせる!」とのことらしい。そして確かに、ワンピースそのものがあまり体型を意識せずにすむものだったこともあり、彼を女だと勘違いした客も多かった。そして女装をしたことで客の話題になり、何だかんだ文芸部に来てくれる人も例年に比べて増えたのは事実だ。
しかし玲は、文化祭での女装を二度と経験したくない過去としている。
「もったいない……じゃあ、せめて私みたいな格好ーー」
「やだ」
優の言葉を遮り、玲は即座に拒絶する。優は白い長袖の上に淡いピンクのパーカーを羽織り、下は膝丈のスカートを着用していた。彼が文化祭で着せられた服に比べれば、遥かにシンプルなデザインではある。
「玲ちゃんかわいいじゃん。文化祭のとき、すれ違う人皆振り向いてたし、それに優勝したじゃん!」
なおかわいいと言い続ける優の肩をつかみ、玲はぐっと彼女を自分に引き寄せた。
「俺、男だからな」
きょとんとしていた優の瞳を、玲はじっと見つめる。すると徐々に優の頬は赤らみ、目をそらし始めた。それに構わず、玲は優の唇に自らのそれをーー。
「失礼します!」
突如男の声がし、続いて扉が開かれた。玲は慌てて優から離れる。しかし時は既に遅かったらしく、入ってきた男は呆然としていた。
「こんにちは。入部希望の方ですか?」
優が頬を赤くしたまま質問したが、相手は答えない。ただ玲と優の顔を交互に見ている。
目の前の男は玲よりも背が高く、少し太っていた。真っ赤な長袖を着用し、黒のズボンを履いている。運動でもしているのかは定かでないが、頭は丸坊主。
玲はこの男に見覚えがなかった。知っているかと優に目で問うと、彼女は首を横に振った。
相手は何かを言いたげにしているが、言葉が続かないらしい。何度も何かを言いかけては、やめるという行為を繰り返している。それからしばらくして、彼は自分の顔を強く叩くと、ようやく言葉を続けた。
「そういう関係なんですか?」
「そういうって?」
「だから、その……恋人……」
「うん、私達、付き合ってるよ」
優は何でもないことのように答えた。すると男は頭を強くふったり、動き回ったりし始めた。
「嘘だ、嘘だ!」
さらに彼は、同じ言葉を連呼する。どうやらかなり取り乱しているらしい。
「まさかお前、優に気があるのか?」
玲が男の前にでて、詰問した。相手は男。なら優にほれていて、しかし彼女には恋人がいたという事実にショックを受けていると考えるのはおかしくないはずだ。
「ないですよ」
「じゃあ、なんでショックを受ける?」
玲が怪訝な顔をしていると、男は黙り込んだ。何かを言うのをためらっているようだ。時々玲と優の顔を見比べ、溜め息をつく。しかし玲に促され、男はようやく答えを口にした。
「……先輩が同性愛者とは思わなかったんです」
その瞬間、沈黙が生まれた。玲は男の意図が分からず、困惑しているし、男は恨めしげに玲の顔を見ている。優はきょとんとした様子で、首を傾げている。
「え? 私達って同性愛者なの?」
沈黙を破ったのは、優の驚きだった。
「同性同士が付き合ってるなんて、そういうことでしょう!?」
「そっか……でも、私女だよ」
「あなたが男なら、同性愛にはなりませんよ! あなたが女性だから、そうなんです」
「ちょっと待て」
ずっと考え事をしていた玲は、顔をひきつらせつつ男に声をかける。すると男は目を輝かせ、玲の手をとった。
「柳沢先輩! 今日も素敵ですね。随分とボーイッシュな格好ですが……」
突然のことにぎょっとしながらも、玲はその手を乱暴に振り払う。
「男の俺と女のコイツが付き合うことの、どこが同性愛なんだ?」
「ご冗談を。先輩は女性でしょう?」
何を言っているんだ、と言い返そうとする玲。しかしその前に優が口を開いた。
「うん。私、女だよ」
「あなたじゃありませんよ」
「えっ? 私、女だよ!」
「それは分かってます。ですが今はあなたの話をしてるんじゃないんです」
「じゃあ、誰の話をしてるんだ?」
嫌な予感を覚えつつ、玲は平静を装って質問する。すると男は、再度玲の手を握った。しかも今度は両手で包み込むようにしている。
「柳沢玲先輩、あなたです。先輩は僕の理想の女性なんです」
「……おい、俺は――」
玲はもう片方の手で相手の手を思い切り叩く。
「申し遅れました。僕、斎藤涼介、一年です」
「初めまして。新島優です、三年だよ」
優はにこやかに挨拶をしていた。
「新島優……ライバルとして覚えておきましょう」
「ライバル?」
「ええ。柳沢先輩、僕とつきあってください!」
男ーー涼介は玲に向き直ると、再度熱く交際を求めてきた。
「無理」
玲は即答すると、涼介からできる限り離れた。しかし涼介は玲に言い寄り続ける。
「先輩は女性にしか興味がないかもしれませんが、僕、諦められません!」
「……斎藤だっけ?」
「はい。感激だな、もう名字でよんでくれるなんて。ゆくゆくは下の名前で……」
「お前、大きな勘違いをしてる」
「なんですか?」
「俺は男だ」
これで好きだとか言わなくなるだろう、と玲は息を吐く。
「何を言ってるんですか?」
「俺を女だと思ってるなら、諦めてくれ」
「……先輩は女性ですよね」
しばしの間の後、涼介は確認するように聞いてきた。
「ちがう! 男だ。何百回だって言ってやる。俺は男だ、俺は男だ、俺は男だーー」
先程男だと言ったばかりということもあり、玲は口を荒らげて強く否定の言葉をぶつける。しかし涼介は納得がいかないらしい。
「……あんなかわいらしい格好が似合ってたのに?」
「かわいらしい格好?」
玲は頭をおさえた。人生でかわいいと形容されるような格好をしたことは、最近だと一度しかない。
「はい! 先日の文化祭で見たんです。ピンクのフリルのワンピースを着たあなたを! そうそう、文芸部って書かれた看板もかわいかったですよ。もう本当に素敵で……ずっと頭から離れませんでしたよ」
「見たんだ、あの時の玲ちゃん!」
ずっと黙っていた優が、突如反応した。
「すっごくかわいかったよね! しかもたまたまあったうさ耳がよく似合っててーー」
「ああ! あの、白い耳。かわいらしかったです」
「そうそう。その前に他の女の子にもつけさせたんだけど、玲ちゃんが一番似合ったの! 私、普段から玲ちゃんにはあーゆーかわいいかっこしてほしいんだよねぇ」
突然二人の会話が弾みだし、玲は入れなくなった。いや、会話に入りたいのではない。会話を止めたいのだが、止めても止まりそうにないのだ。
「柳沢先輩って、普段はボーイッシュな格好なんですか?」
「うん。もったいないよね」
「おい、何言ってんだよ」
それでもさすがに耐えかねて、玲があきれたように話に割って入ると、優は非常に残念そうに呟いた。
「だって玲ちゃん、本当に似合ってたんだもん」
「『文化祭の客寄せしてよ!』なんて無理矢理着せたくせに」
「……やっぱり柳沢先輩は女性ですね。僕を諦めさせる為に、男なんて嘘をついてるんだ」
涼介は謎の確信を得たらしく、にやりとした。
「違う! なんでそう俺を女にしたがるんだよ!」
それを全力で否定する玲だが、涼介には全く効果がない。
「先輩は女性です。新島先輩の話を聞いて、まちがいないと確信しました」
「え? 私の話?」
何か言ったっけ、と言いたげに優は玲に目を向けた。玲は何もない、と首を横にふる。
玲が女であるはずはないのだが、涼介は本気で信じているらしい。しかも妙に強気で、迷いが感じられない。
「新島先輩、言いましたよね? 柳沢先輩に対し、『玲ちゃん』って」
「うん。いつもそうだよ」
「その呼び方は、女にしか使わないはず!」
涼介はびしっと優を指差した。その光景には迫力がある。女にしか使っちゃダメなのかな、と優は不思議そうな顔で悩んでいた。
「……優、頼む」
「何?」
「今すぐ『玲ちゃん』って呼び方をやめろ」
玲は必死で頼み込むが、優は不服そうだ。
「え……前から呼んでて呼びやすいのに」
「玲君って呼んでくれ。玲でもいい。とにかく『ちゃんづけ』をやめてくれ」
「玲……玲君……」
優は二つの呼び方を交互に繰り返す。玲はそれを聞く度、どちらで呼ばれてもいいな、などと夢見ていた。しかし優は口を尖らせた。
「玲ちゃんの方がかわいい」
「かわいさなんて求めてないんだ。俺を男だってコイツに分からせるには、それしかない」
「先輩、僕と付き合ってください! 僕ならあなたをいずれ玲先輩と呼びますよ!」
「うるさい! 黙れこの勘違いやろう!」
玲は、下手したら苦情を言われるかもしれない声量で怒鳴った。しかしこの時間は行われている講義が少ないからか、または本館から離れた位置に部室が存在したからか、誰の文句もない。ただ、優は素早く耳を押さえていた。
「……先輩」
涼介はしゅんとすると、とぼとぼと部室を去ってしまった。
読んでくださりありがとうございました。
ジャンル、これであってるんだろうか……
普段はファンタジーにしとけば間違いがないので、それ以外は判断に困りますね。