あの世で、感情は物語になる
人は死ねば、すべてから解放されるのだろうか。
怒りも、悲しみも、憎しみも、生きている間だけの仮初めの熱であり、肉体が滅びれば、きれいに消えていくのだろうか。
本作は、その素朴で残酷な期待を、静かに裏切るところから始まる。
主人公は死ぬ。
しかし彼女は、安らぎも救済も手にしない。
胸の奥に残ったのは、許せなかった記憶、言えなかった言葉、裁かれなかった理不尽――ひとつの「怒り」だった。
天国も地獄も、生まれ変わりも用意されている。
だがそれらは、万能の答えではない。
光に溶ければ、人生は漂白される。
忘却を選べば、物語そのものが消えてしまう。
罰を望めば、怒りは自分自身を焼き続ける。
この物語が描く「あの世」は、裁きの場ではない。
正解も救済も与えない。
ただ、人が生前に抱えきれなかった感情――とりわけ「怒り」を、そのまま置いておくための空間である。
怒りは、醜いものだと教えられてきた。
許せない自分は未熟で、どこか欠けていると。
だが本当にそうだろうか。
理不尽に傷つけられ、声を奪われ、沈黙を選ばざるを得なかった人間にとって、怒りとは最後まで自分を保つための証でもある。
それは破壊衝動であると同時に、「私は確かにそこにいた」という記憶の重さなのだ。
本作は、怒りを消す物語ではない。
許しに至る物語でもない。
怒りを抱えたままでも、存在していいのだと認めるための物語である。
もしあなたの胸にも、まだ熱を失わない石があるなら――
この物語は、あなたのための机の上に、そっと置かれている。
第一部・序章 「死んだのに、私はまだ怒っていた」
第一章 あの世に「正解」はなかった
第二章 天国を信じた人々の場所
第三章 生まれ変わりを望む魂たち
第四章 地獄を探す私
第五章 憎まれたまま死んだ者の行き先
第六章 裁かれない理由
第七章 葬式の席
第二部 怒りは、消えなくてもいい
第八章 それでも私は、許せなかった
第九章 許さない魂たちの場所
第十章 生まれ変わりを拒んだ理由
第十一章 それでも、あの人を見た
第十二章 怒りの、置き場所
第十三章 あの世とは、誰のためにあるのか
第十四章 伝えられなかった言葉
第十五章 葬式の、もう一つの役割
第十六章 あの世とは、怒りを抱えたままでも行ける場所
第三部 怒りを抱えたまま、生き続けるために
第十七章 怒りが生まれる瞬間は、音がしない
第十八章 裁けなかったという事実
第十九章 地獄を信じた夜
第二十章 天国がなければ、悲しみは意味を失う
第二十一章 裁かれなかった者の、その
第二十二章 裁きを手放すのではなく、預ける
第二十三章 地獄と天国が、人の心に残り続ける理由
第二十四章 私は物語になる
第一部・序章 「死んだのに、私はまだ怒っていた」
死は、期待していたほど静かではなかった。
心臓の鼓動という、生まれてから一度も止むことのなかった重低音が唐突に消え去ったあと、代わりに耳の奥に居座ったのは、古い冷蔵庫が発するような、低く、執拗な唸りだった。
視界の端が、古ぼけた映画のフィルムのように、ひび割れた白光に侵食されている。
私は、自分がどこに立っているのか、あるいは浮いているのかさえ判然としないまま、その不快な耳鳴りに意識を集中させた。
五感というフィルターが剥がれ落ちるプロセスは、驚くほど事務的で、冷淡だ。
恐怖はなかった。
恐怖を感じるための脳という臓器が、すでに機能を手放していることを、冷徹な理性が理解していた。
だが、釈然としない。
胃の腑のあたりに、重く、冷え切った石礫が詰まっているような違和感がある。
それは生前、あの人の理不尽な言葉に対して、反論の一矢さえ報いることができずに飲み込んだ、鋭利な形のままの怒りだ。
唾液とともに飲み込み、内臓の奥底で澱のように積み重なっていたそれが、肉体を失った今、皮肉にもかつてないほどの鮮明さを持って主張を始めている。
死ねば、すべての感情は肉体という牢獄から解き放たれ、霧散するものだと信じていた。
憎しみも、悲しみも、血流が止まればただの情報の断片に成り果てると。
しかし、現実は違った。
実体を持たないはずの私の輪郭を、その石礫が内側から執拗に、鋭く突き刺し続けている。
私はまだ、あの人を許していない。
あの時、握りしめた拳の中で白くなった関節の痛み。
奥歯を噛み締めた時に走った火花のような不快感。
それらが、肉体を失ったはずのこの空間で、純度の高いエネルギーとなって渦巻いている。
この不快な重み、この「許せなさ」だけが、色彩を失いつつあるこの世界で、私という存在を繋ぎ止めている唯一の、確かな質量だった。
周囲を見渡そうと意識を動かす。 そこには、空も地面もなかった。ただ、薄い乳石のような乳白色の空間が無限に広がり、距離感という概念を無効化している。どこまでが自分自身で、どこからが他者、あるいは世界なのかという境界線が、頼りなくたゆたっている。
この無音に近い静寂の中で、私の怒りだけが、赤黒い脈動を繰り返している。
それは、まるで暗闇の中で灯る呪わしい焚き火のようだった。
温もりを与えるためではなく、ただその周囲を焦がし、峻別するために燃え続けている。
「終わっていない」
声にはならない思考が、真空の空間を伝播していく。
死という幕引きが、この感情の完結を意味しないのであれば、私はこの「石」をどこへ運べばいいのか。
私は、重い足取り(それが足と呼べるものかどうかも怪しいが)で、その乳白色の霧の中へと踏み出した。
第二章 天国を信じた人々の場所
案内人の背中を追うようにして、私は光の密度が異常に高い方角へと引きずられていった。
歩くという行為に、もはや肉体的な疲労は伴わない。
ただ、精神が摩耗していくような、特有の倦怠感がつきまとう。
たどり着いたその場所には、影という概念が一切存在しなかった。
天から、地から、そして空気の分子そのものから降り注ぐ光は、魂の微細な凹凸さえも許さず、すべてを一様な平坦さで塗りつぶしていく。
それは救いというよりは、個としての剥奪に近い、暴力的なまでの無機質な清潔さだった。
私はその眩しさに、剥き出しの神経を直接日光に晒されているような、鋭い不快感を覚えた。
視界の先、遠くの方に、人々が静かに座っているのが見える。
彼らは一様に、穏やかな微笑を浮かべていた。
だが、その微笑みは、深い内省の末に辿り着いた平穏というよりは、色彩を抜き取られた壁紙のような、空虚な白濁にしか見えない。
「彼らは、信じていたのですよ。善行を積み、心を無にすれば、すべての苦しみから解放されると」
案内人の声が、凍りついた湖面を叩くような硬い音で響く。
「ですから、この場所には『何もない』のです。
他者への憎しみも、自己への執着も、そして――あなたを苦しめているその怒りさえも、ここでは光に溶けて、ただの均質なノイズへと変わる」
光の中に佇む人々の体は、今にも背景の白に溶け込んでしまいそうだった。
彼らの輪郭は、もはや周囲の空気と区別がつかないほど希釈されている。
私は反射的に、自分の胸にある「重い石」を、見えない手で抱え直した。
この光に曝されれば、私の怒りも、あの人から受けた傷も、すべては「なかったこと」にされてしまう。
それは、私にとって救済などではなかった。それは、私が生きたこと、あの理不尽に抗
おうとしたこと、そのすべての抹殺に他ならない。
この不快な重み、この解熱しない熱だけが、私をこの無菌室のような光から守る、唯一の「自分」という盾だった。
第三章 生まれ変わりを望む魂たち
案内人の歩みは、重力に逆らうように軽やかでありながら、その足跡が触れる場所だけは、灰色の砂が煤のように黒ずんで見えた。
辿り着いたのは、霧の密度が一段と濃い、淀んだ沼地のような場所だった。
そこには、巨大な孵卵器を思わせる、ぼんやりとした光の繭が無数に浮遊している。
繭の中には、胎児のように身を丸めた影が透けて見え、それらが一斉に発する、微細な羽虫の羽音のような呟きが、空間全体の温度を数度上げているように感じられた。
「彼らは、やり直しを求めているのです」
案内人の声が、湿り気を帯びて響く。 「肉体を脱ぎ捨てた瞬間に、彼らは恐怖し
た。
自分という物語が、あまりに中途半端に、
あるいはあまりに無惨に途切れてしまったことに。
だから彼らは、記憶という名の重荷をこの沼地に沈め、再び未知の『生』へと飛び込むことを選ぶ。
白紙に戻ることでしか、彼らは自分を許せないのです」
繭の一つが私のすぐ傍を掠めていった。
その瞬間、かつて嗅いだことのある「赤ん坊の産着の匂い」と「消毒液の混じった風」が鼻腔を突き、私の意識を現実へと引き戻そうとする。
だが、私はその誘惑を拒絶するように、喉の奥の「石」を強く噛みしめた。
やり直す?
記憶を消して、あの理不尽な痛みさえも
「なかったこと」にして?
それは救いなどではない。
あの人が私に投げつけた言葉、私を否定した眼差し、それらをすべて無効化し、敗北を認めることと同じではないか。
「私は、ここには残らない」
私の言葉に、繭たちの呟きが一瞬だけ止まった。
案内人が、初めて微かな、凍りついたような笑みを浮かべたように見えた。
「再生を拒む魂は、往々にして、地獄という名の鏡を求めます。あなたは、自分を焼く炎を探しているのですね」
第四章 地獄を探す私
案内人が指し示した先には、それまでの乳白色の世界とは決定的に異なる「闇」が口を開けていた。
それは単なる光の不在ではない。
あらゆる音を飲み込み、視線を吸い尽くし、冷気そのものが質量を持って押し寄せてくるような、絶対的な沈黙の領土だった。
私は、自らその闇の縁へと足を踏み入れた。足元から這い上がってくるのは、生前、深
夜の台所で一人、震える手で冷めた水を飲み込んだ時に感じた、あの底冷えするような孤独の感触だ。
「ここが、あなたの望む地獄ですか?」
案内人の姿はもはや見えない。
闇の奥から、彼の声の残響だけが、剥離した皮膚のようにひらひらと舞い落ちてくる。
私は目を凝らした。
そこには針の山も、煮えたぎる釜もない。ただ、果てしなく続く鏡の迷宮のような、
あるいはひび割れたアスファルトが続く廃墟のような、荒涼とした景色が広がっていた。
地獄とは、罰を受ける場所ではない。 地獄とは、自分の怒りが、誰にも届かない
ことを証明し続ける場所なのだ。 暗
闇の中で、私の「怒りの石」が、鈍い燐光を放ち始めた。
その光に照らされて、かつて私を傷つけた「あの人」の背中が、蜃気楼のように遠くに見えた。
追いつこうとしても、距離は一向に縮まらない。
私の足元の影が、ドロリとした黒い粘液となって地面に張り付き、私をその場に縛り付ける。
「なぜ、私をあんな風に扱ったのか」 「なぜ、謝らなかったのか」
闇に向かって叫んだ問いは、冷たい壁に跳
ね返り、鋭い礫となって自分の胸を切り裂く。
地獄の正体は、自らが発した呪詛が、すべて自分自身に還ってくるという「完全なる孤立」だった。
私は、暗闇の中で膝をついた。
痛みはない。
ただ、実体を持たないはずの私の指先が、怒りという熱によって、じりじりと焼けるような感覚だけが、本物だった。
第五章 憎まれたまま死んだ者の行き先
案内人が立ち止まった。
そこは、これまでの平原とも闇とも違う、ひび割れたアスファルトが果てしなく続く、放棄された都市の残骸のような場所だった。
建物の影からは、時折、腐った果実が潰れるような湿った音が聞こえてくる。
「あそこにいるのは、誰かに憎まれたまま、その呪いを解かれずにこちらへ来た者たちです」
案内人の指差す先、建物の隙間に、灰色の泥のような塊が蠢いていた。
それはかつて人間だった形を辛うじて保っているが、その表面には無数の小さな「口」が開き、常に何かを呪うように、あるいは言い訳を吐き捨てるように、泡を吹いている。
「誰かを傷つけ、その代償を支払わぬまま死ぬ。
それは一見、逃げ得のように思えるかもしれません。
ですが、こちら側では『逃げる場所』そのものが消失します。
彼らは、自分が誰に、どのように憎まれているかという情報を、皮膚の裏側に直接書き込まれたまま、永遠にそれを読み返し続けることになる」
私はその「口」の一つから漏れる、粘り気のある声を聞いた。
それは、生前私があの人から浴びせられた、あの無機質な拒絶の言葉によく似ていた。
「あの人も、ああなるのか?」
私の問いは、渇いた風にさらわれて、アスファルトの上を転がった。
「それは、あなたの怒りがどれほどの質量を持っているかによります。彼らの姿を規定しているのは、神の審判ではなく、残された者たちの記憶の濃度なのですから」
私は、自分の内側にある「石」を意識した。
もし私の怒りが、あの人をこの泥のような姿に縛り付ける鎖になるのだとしたら。
その事実に、私は微かな高揚感を覚えると同時に、言いようのない寒気に襲われた。
憎むということは、相手を自分の中に、あるいは自分を相手の中に、永遠に幽閉することと同義だった。
第六章 裁かれない理由
「なぜ、ここには法廷がないんだ」
私は、案内人の無機質な横顔に向けて、抑えきれない焦燥をぶつけた。
「悪いことをした奴がいて、傷ついた私がいる。白黒をつける場所があって然るべきだ。そうでなければ、生きていた時の苦労が、まるでないがしろにされているようじゃないか」
案内人は歩みを止め、ゆっくりと私の方を振り向いた。
彼の瞳の中には、星のない夜空のような虚無が広がっている。
「法廷、というのは、人間が社会を維持するために発明した、最大にして最良の『妥協点』ですよ。誰かを罰することで、システムを正常に戻す。ですが、ここはシステムの外側です。ここでは、罰を与えることよりも、その感情をどう『処理』するかが優先されます」
彼は足元から、一掴みの灰色の砂を掬い上げた。
「例えば、あなたが望む通り、あの人がここで極刑に処されたとしましょう。あなたの喉の奥にあるその石は、それで消えますか? 相手の苦悶の声を聞けば、あなたの削り取られた自尊心は、元の形に再生するのでしょうか」
砂が彼の指の間から、さらさらと零れ落ちる。
その一粒一粒が、私の過去の記憶の断片のように見えた。
「裁きとは、終わらせるための儀式です。ですが、本当の怒りは、終わらせることを拒絶します。あなたは裁きを求めているのではない。ただ、自分の受けた傷が、この宇宙にとって意味のある出来事だったと、誰かに認めさせたいだけだ」
その言葉は、私の肺の奥に鋭い棘を刺した。
「ここでは誰も裁きません。なぜなら、あなたがあなた自身を裁き、許し、あるいは呪い続けるそのプロセスそのものが、この世界のエネルギー源だからです」
案内人の背中が、再び霧の中に溶け込んでいく。
私は、沈黙に支配されたアスファルトの上に立ち尽くしていた。
裁きがないということは、この怒りを、永遠に自分一人の手で抱え続けなければならないという宣告でもあった。
私は重い足を引きずり、再び歩き出す。
次の場所――私の記憶が、物理的な形を持って現れるであろう「葬式の席」へと。
第七章 葬式の席
風景が、粘り気のある黒いインクをぶちまけたように反転した。
アスファルトの裂け目から、湿った木の匂いと、嗅ぎ慣れたはずの菊の花の、鼻を突くような青臭い香気が噴き出してくる。
気がつくと、私は冷たい板張りの床の上に立っていた。
そこは、私の葬式の席だった。
視界が滲むのは、涙のせいではない。
この空間そのものが、私の記憶という不安定な磁場に干渉され、絶えず揺れ動いているからだ。
祭壇の中央には、私の写真が鎮座していた。生前、お仕着せの笑顔を浮かべて撮ったあの一枚だ。
その微笑みが、今の私には酷く空々しく、剥製にされた死体の皮のように見えた。
焼香の煙が、蛇のように低く這い回り、参列者たちの足首を絡めとっている。
彼らの顔は、磨りガラス越しに見るようにぼやけていたが、その隙間から漏れ聞こえる密やかな囁きだけは、鋭利な刃物となって私の耳に届いた。
「――残念だったわね」
「――でも、あんなことがあった後じゃ、かえって……」
同情という名の薄っぺらな皮を被った、好奇の視線。
彼らは私の死を悼んでいるのではない。
私の人生に起きた「あの事件」を、安全な場所から消費しているだけだ。
その時、会場の隅に「あの人」の姿を見つけた。
心臓がないはずの胸の奥が、熱い鉛を流し込まれたように激しく脈打った。
あの人は、黒い喪服に身を包み、いかにも悲しみに打ちひしがれたような顔をして俯いていた。
その完璧な「演じられた絶望」の滑稽さに、私は喉の奥からせり上がってくる暗い笑いを抑えることができなかった。
あの人が一歩踏み出すたびに、私の葬儀会場は、地鳴りのような音を立てて崩壊し始める。
壁紙が剥がれ落ち、そこから真っ黒な虚無が顔を出す。
私の怒りは、死してなお、この平穏な儀式を破壊し尽くそうとしていた。
第二部 怒りは、消えなくてもいい
第八章 それでも私は、許せなかった
「見ていられないか?」
いつの間にか隣に立っていた案内人の声は、吹き荒れる記憶の嵐の中でも、驚くほど静かに響いた。
彼の足元だけは、崩壊していく床の影響を受けず、絶対的な静寂を保っている。
私は、あの人の焼香する背中を指差した。指先が怒りで震え、そこから黒い煤のよう
なものが立ち昇っている。
「あの人は、私の人生を壊しておきながら、あんな顔をして私の前に立てるんだ。謝罪の言葉一つなく、ただ『悲劇の目撃者』としてのポジションを確保しようとしている。
あれが、人間が最後に選ぶ、最も卑劣な自己防衛だ」
案内人は、私の指先から立ち昇る黒い煤を、珍しい異物でも見るように見つめた。 「
許し、という言葉は、時に暴力となります。
世の中には、許すことで救われる物語が溢れていますが、それは裏を返せば『許せない者は不完全である』という断罪でもある。あちら側(生者の世界)の論理では、あなたは今、その不完全な魂として扱われているわけです」
「そんなものは救いじゃない」
私は叫んだ。
私の声は、葬儀会場の天井を突き破り、乳白色の空へと響き渡る。
「許してしまえば、私の受けた痛みは、ただの『過去の出来事』として整理され、古い記憶の奥底に埋もれてしまう。
あの人が私にしたこと、私が感じた絶望、それらすべてが、和解という名の美談によって漂白されてしまう。そんな屈辱に耐えるくらいなら、私は永遠に、この黒い煤を抱えたまま、暗闇を彷徨ったほうがマシだ」
案内人は、静かに首を振った。
その動作に伴って、崩壊していた葬儀会場が、ゆっくりと灰色の霧へと還っていく。
「ならば、彷徨いなさい。あなたの怒りが、あなた自身の輪郭を焼き尽くしてしまわない限り、ここにはそれを拒む法はありません。しかし、覚えておきなさい。怒りを持ち続けるということは、あの人と繋がっているという、最も呪わしい絆を断ち切らないということでもあるのです」
私は、自分の手のひらを見つめた。そこには、まだあの人の喪服の黒さが、残像のように焼き付いていた。
第九章 許さない魂たちの場所
案内人が示したのは、吹きさらしの崖が連なる、荒涼とした海岸線だった。
海、と呼ぶにはその液体はあまりに重く、
墨汁のような黒濁が、音もなく岩肌を噛んでいる。
空からは、雪とも灰ともつかない、冷たい結晶が絶え間なく降り注いでいた。
崖のあちこちに、石像のように硬直した魂たちが点在している。
彼らは一様に、海の方を――あるいは、何もない虚空を見つめたまま、微動だにしない。
「ここが、許すことを拒み、執着の檻を自ら選んだ者たちの居場所です」
案内人の声が、風に削られた岩の鳴き声のように響いた。
一人の魂の傍らに寄ってみる。
その体は、もはや乳白色の柔軟さを失い、ひび割れた黒曜石のような質感に変わっていた。
彼の胸元からは、細い鎖のような光が伸び、黒い海の中へと深く沈んでいる。
その鎖が震えるたびに、彼は苦悶に満ちた、だがどこか悦楽さえ滲むような、深い溜息を漏らす。
「彼らは、傷つけられた瞬間の自分を、永遠に保存しようとしているのです。許してしまえば、あの時の痛みも、自分が正当であったという確信も、この黒い海に飲み込まれて消えてしまう。だから彼らは、自らを石に変えてでも、その『正しさ』を守り抜こうとする」
私は、その石のような魂たちの群れに、同族の匂いを感じた。
私の喉にある「石」もまた、彼らのように私の全体を侵食し、やがて私を一つの硬質なモニュメントに変えてしまうのだろうか。
その予感は、恐怖よりもむしろ、奇妙な安堵を伴って私を浸した。
誰にも汚されない、誰にも奪われない、絶対的な孤立。
それは、私が生前、もっとも切実に求めていた「安全地帯」の完成形であるようにも思えた。
第十章 生まれ変わりを拒んだ理由
「あなたは、彼らの一人になりたいのですか?」
案内人の問いが、私の思考のひだを冷たく撫でた。
私は、降り積もる灰を見上げた。
視界の端で、また一つ、繭のような光が空へと昇っていくのが見えた。
第三章で見た、生まれ変わりを待つ魂たちだ。
彼らは忘却という名の恩寵を受け入れ、真っさらなキャンバスに戻って、再びあの無慈悲な地上へと降りていく。
「生まれ変われば、この石は消える。そうだろう?」
私は、自分の胸を強く押さえた。
「そうすれば、あの人のことも、あの夜の屈辱も、すべてはリセットされる。新しい名前、新しい家族、新しい記憶。……だが、それは『私』の勝利なのか?」
案内人は答えず、ただ私の言葉が空中に描く歪みを見つめている。
私は吐き捨てるように続けた。
「記憶を消してやり直すのは、敗北の隠蔽だ。私は、あの理不尽な痛みを知っている『私』のままで、あの人の罪を証明し続けたい。
もし私が生まれ変わってしまったら、この世から、あの人が犯した過ちの唯一の目撃者が消えてしまうことになる」
私の怒りは、もはや単なる感情ではなかった。
それは、歪められた過去を繋ぎ止めるための、唯一の錨だった。
「忘却による救済など、私には必要ない。たとえこのまま、石のように冷え切り、ひび割れていくだけだとしても。私は、この怒りという『真実』を手放すつもりはないんだ」
その瞬間、足元の岩場が激しく震えた。私の執着が、死後の世界の静寂を乱し、新たな風景を引き寄せようとしていた。
「いいでしょう」案内人の輪郭が、さらに深く、不気味に揺らぐ。
「ならば、見届けなさい。あなたの怒りが、何を創り出し、何を焼き尽くすのかを」
第十一章 それでも、あの人を見た
記憶の断片が、剥離した皮膚のように空中に舞い、再び形を成していく。
案内人が指し示したのは、死後の静寂を切り裂くような、あまりに卑俗で、あまりに鮮明な「日常」の一場面だった。
そこは、生前私が何度も通り過ぎた、何の変哲もない街角のカフェだった。
陽光が窓から差し込み、埃の粒が金色の砂のように舞っている。
その光の中に、「あの人」が座っていた。
あの人は、友人らしき人物と向き合い、楽しげに笑っていた。
その笑い声は、私の葬儀で見せたあの「演じられた悲劇」とは正反対の、軽やかで、一点の曇りもないものだった。
彼女がスプーンでカップの縁を叩く小さな音が、私の耳元で爆音のように響く。
「――本当に大変だったのよ。でも、私にできることは精一杯やったつもり」
あの人の口から漏れたのは、私に対する加害の記憶を、自らの「美徳」や「苦労話」へと鮮やかに変換した、無垢な自己正当化の言葉だった。
私の指先が、怒りの熱でじりじりと焦げ付くような音を立てる。
あの人は忘れているのだ。
あるいは、自分の都合のいいように物語を書き換えている。
私がどれほど夜を徹して悩み、彼女の一言にどれほど魂を削られたか。
そんなことは、彼女の人生という物語においては、単なる背景のノイズに過ぎないのだ。
「あれが、あなたの怒りの対象の正体です」
案内人の声が、私の思考のひだに冷たく浸透する。
「あなたが石を抱えて震えている間、彼女は新しい記憶を積み上げ、上質な麻のシーツのように自分を包み込んでいる。
あちら側では、声の大きい者の記憶が『真実』となり、沈黙した者の痛みは『なかったこと』にされる。
それが、生の摂理です」
私は、窓を突き破ってあの人の喉元に掴みかかりたい衝動に駆られた。
だが、私の手は空を切り、光の粒子をかき回すことしかできない。
私は死者であり、彼女はまだ、厚顔無恥な「生」の特権を享受しているのだ。
第十二章 怒りの、置き場所
風景が再び、崩落する。
カフェの華やいだ空気は一瞬で霧散し、私たちは再び、音のない灰色の荒野に立ち尽くしていた。
私の足元には、先ほどの怒りの余熱で、灰が黒く焼け焦げた跡が残っている。
「どこに置けばいいんだ」
私の声は、もはや叫びではなく、深海から立ち昇る気泡のような、絶望的な呟きだった。
「あんな奴のために、私はいつまでこの石を抱えていなければならない? 彼女が笑っているのに、なぜ私だけが、この冷たい場所で彼女の罪を記憶し続けなければならないんだ」
案内人は、私の足元の焼け跡をじっと見つめていた。
「置き場所など、どこにもありませんよ。あなたがそれを『重荷』だと感じている限りはね」
彼はゆっくりと腰を落とし、灰の中に指で一本の線を引いた。
「怒りとは、他者との関係においてのみ発生する感情です。相手を裁きたい、謝らせたい、認めさせたい。その期待という名の糸が、あなたとあの人を強く結びつけている。たとえ死の境界線を越えても、その糸が繋がっている限り、あなたは彼女の人生の付録であり続ける」
「付録だと?」
「ええ。彼女という物語を補完するための、悲劇的な注釈です」
その言葉は、どんな拷問よりも深く私を打ちのめした。
私の怒りは、私を救うためのものではなく、皮肉にも私を「あの人の一部」に留め置くための鎖になっていたのだ。
「ならば、どうすればいい。この石を捨てろというのか? 忘却という名の敗北を選べというのか?」
案内人は立ち上がり、私の胸元にある、今や黒い熱を放つ「石」に、触れるか触れないかの距離まで手を近づけた。
「捨てる必要はありません。ただ、その石を『武器』として使うのをやめるのです。武器として握りしめるから、あなたの掌は血に塗れ、その重みで動けなくなる。その石を、単なる『石』として――あなたの人生という長い旅路で拾い上げた、一つの硬質な記憶の破片として、ただそこに在ることを許すのです」
私の喉の奥で、石が微かに震えた。
それは、拒絶の震えなのか、あるいは、初めて訪れた諦念の予兆なのか、自分でも判然としなかった。
第十三章 あの世とは、誰のためにあるのか
案内人が引いた灰の中の線は、いつの間にか深緑色の亀裂となり、そこから冷たい地下水の匂いが立ち昇っていた。
私はその亀裂を跨ぎ、さらに深い霧の中へと足を踏み入れた。
足裏に触れる感覚は、砂から湿った苔のような、不確かな弾力へと変わっている。
「あの世とは、生者のためにある場所ではありませんよ」
案内人の声が、どこか遠くの洞窟で反響しているかのように響く。
「生者は、死後の世界を『精算の場』だと考えたがります。悪人が罰せられ、善人が報われる。人生という物語の整合性を取るための、都合のいい結末としてね。ですが、実際のこの場所は、もっと巨大で、無機質な『濾過装置』に近い」
視界が開けた先には、巨大な時計の歯車を思わせる、半透明の円盤が幾重にも重なり、ゆっくりと回転している広場があった。
円盤が擦れ合うたびに、雪の結晶が砕けるような、美しくも残酷な音が周囲を支配する。
その円盤の隙間から、無数の「感情の断片」が、蛍の光のように溢れ出していた。
「ここにあるのは、意味を失った記憶の残骸です。あの世が本当に必要としているのは、あなたがたの『正しさ』ではなく、あなたがたが抱えきれなくなった『余剰な熱』の廃棄場所なのです。もし、この場所がなければ、地上は人々の未処理の怒りと悲しみで飽和し、瞬く間に焼き尽くされてしまうでしょう」
私はその光の粒の一つに手を伸ばした。
触れた瞬間、見知らぬ誰かの、焼けつくような嫉妬と、冷え切った絶望が指先を伝って流れ込んでくる。
「それなら、私のこの怒りも、単なる廃棄物に過ぎないというのか?」
「廃棄物、あるいは、燃料ですよ。この世界を回し続けるためのね」
案内人の輪郭が、円盤の回転に合わせて細かく振動する。
「ここは、誰かのためではなく、ただ『在る』ために在る。
あなたの怒りは、この巨大な装置の一部として、ただその熱を捧げているに過ぎないのです」
第十四章 伝えられなかった言葉
装置の轟音に背を向け、私はさらに奥へと進んだ。
そこには、音を完全に遮断された、無音の回廊が続いていた。
壁面は黒い鏡のような鉱石でできており、そこには私のこれまでの人生で、口にすることなく飲み込んできた「言葉」たちが、文字の形をして浮かんでは消えていた。
あの時、言うべきだった反論。
あの人に、叩きつけたかった呪詛。
そして――あの人に、ただ「痛い」と伝えたかった、幼い叫び。
それらの言葉は、声に出されなかったがゆえに腐敗することなく、真空の中に保存されていた。
私はその壁に指を這わせた。
石のように硬い文字の輪郭が、指先の腹を鋭く切り裂く。
血は出ない。
ただ、そこから青白い煙のようなものが立ち昇り、私の胸の「石」と共鳴して震えた。
「伝えられなかった言葉は、行き場を失って、魂の重力になります」
案内人が、背後の闇から囁く。
「あちら側で、あなたは沈黙を選んだ。それは美徳だったのかもしれないし、単なる臆病だったのかもしれない。ですが、その沈黙の分だけ、この石は重さを増したのです。言葉にできなかったエネルギーは、逃げ場を失い、あなた自身の内側を侵食するしかなくなった」
私は、壁に浮かぶ「どうして」という文字を、掌で力強く押し潰そうとした。
「今さら、何を言えというんだ。もう喉も、舌も、相手の耳さえないというのに」 「
ええ、届くことはありません。ですが、叫ぶことはできます」
案内人が一歩前に出る。
彼の影が壁に投影され、無数の「伝えられなかった言葉」を覆い隠していく。
「ここでは、相手に届く必要はありません。
あなたの内側で、その言葉を解き放つこと。それが、この死後の回廊で許された、唯一
の贅沢なのです」
私は大きく息を吸い込んだ。
肺という器官がないにもかかわらず、全身の細胞が、凍りついた空気を求めて激しく収縮するのを感じた。
第十五章 葬式の、もう一つの役割
ふたたび、あの湿った菊の花の匂いが鼻腔を刺した。
視界が揺らぎ、崩壊した葬儀会場の残骸が、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように再構成されていく。
しかし、今度の光景は少し違っていた。
参列者たちの顔は、先ほどよりもさらに希釈され、のっぺらぼうのような匿名性を帯びている。
その中で、遺影の中の私だけが、奇妙なほど鮮明な色彩を放っていた。
「葬式とは、死者のための儀式ではありません」
案内人が、焼香の煙の中から、幽霊のように音もなく現れた。
「これは、生者が『納得』するための儀式です。あなたという複雑な人間を、一冊の閉じた本として本棚に片付けるための背表紙を作る作業ですよ。彼らは、あなたの死に、無理やり意味を見出そうとしている。そうしなければ、自分の日常に空いた穴を埋められないからです」
焼香台の前に立つあの人が、ハンカチで目元を拭う。
その動作は、スローモーションのように引き伸ばされ、布が皮膚に擦れる乾いた音までが、空間に響き渡る。
「あれが、葬式のもう一つの役割です」と案内人が続けた。
「生き残った者が、自分は正しい側にいると再認識するための、残酷なまでの自己確認。
あなたが抱える怒りは、彼らの精巧な儀式にとって、排除されるべき不純物なのです。
だからこそ、彼らは涙を流し、花を捧げ、あなたの『許し』を勝手に捏造する。それによって、自分たちの罪もまた、静かに漂白されていく」
私は、遺影の中から自分の目をじっと見つめ返した。
もし私が今、この場所で実体を持って叫び声を上げたら。
あの人のハンカチを剥ぎ取り、その無垢な顔を怒りの煤で汚してやれたら。
だが、私の指先は、焼香の熱に触れることさえできない。
「彼らが勝手に完成させた『私の物語』の中に、私の本当の怒りは一文字も刻まれていない……」
その事実が、喉の奥の「石」を、さらに冷たく、硬く、研ぎ澄ませていくのを感じた。
第十六章 あの世とは、怒りを抱えたままでも行ける場所
葬儀の光景が、線香の灰が崩れるように瓦解していく。
私たちはふたたび、乳白色の空と灰色の砂が広がる、あの根源的な虚無へと戻ってきた。
しかし、最初に来た時とは、空気の質感が異なっている。
刺すような冷気の中に、微かな、だが確かな「熱」が混じっている。
それは、私の内側から漏れ出している、あの怒りの余熱だった。
「天国や地獄を、特定の目的地だと思わないことです」
案内人は、無限に続く水平線を見つめながら言った。
「ここは、あなたが持ち込んだものだけで構成される庭園です。もしあなたが、慈悲と安らぎだけを携えてきたなら、ここは天国と呼ばれるでしょう。ですが、もしあなたが、この黒い石を手放さずに辿り着いたなら――ここはその怒りを受け入れるための、唯一の器となる」
私は、自分の手のひらを見つめた。
生前、私は「怒りを持ち続けることは醜いことだ」と教えられてきた。
許せない自分は、どこか魂の欠けた、不完全な人間なのだと。
だからこそ、この場所に来るまで、私は自分の怒りを隠し、否定し、消し去ろうと無駄な足掻きを続けてきたのだ。
「ここは、あなたがあなたであることを、そのまま肯定する場所です」
案内人の輪郭が、夕刻の影のように長く伸びる。
「怒りを抱えたまま、納得できないまま、答えが出ないまま。その歪な形のままで、あなたはここに来ていい。あなたの『許せなさ』は、この広大な死後の風景において、何一つ拒絶されることはないのです」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥の「石」が、初めて僅かに溶け出したような感覚があった。
消えるのではない。
それは、私の肉の一部として、馴染み始めたのだ。
私は、無理に笑おうとするのをやめた。
無理に許そうとするのもやめた。
ただ、この重みを、私の生きた証として、この灰色の砂の上に刻みつける。
「怒りは、消えなくてもいい。……そうだな?」
私の問いに、案内人は答えなかった。
ただ、遠くで風が鳴り、私の足元にある黒い焼け跡を、静かに灰が覆い始めていた。
第三部 怒りを抱えたまま、生き続けるために
第十七章 怒りが生まれる瞬間は、音がしない
案内人が立ち止まったのは、何の変哲もない、だがどこか見覚えのある白い壁の前だった。
その壁に触れると、指先から石膏の冷たさが伝わり、同時に私の意識は、あの「決定的な瞬間」へと引き戻された。
怒りが生まれる瞬間、そこには劇的な音楽も、雷鳴のような轟音もなかった。
ただ、窓の外で鳥が羽ばたく微かな音や、遠くで誰かが食器を洗う乾いた音。
そんな、ありふれた生活の断片の積み重ねの中に、その瞬間は潜んでいた。
あの人が、私に向かって決定的な一言を放ったとき。
私の内側で何かが「パチン」と弾けた音さえ、私以外には聞こえていなかったはずだ。
「音のない爆発、とでも呼ぶべきでしょうか」
案内人の声が、記憶の断片をなぞる。 「人は、巨大な不幸に直面したときよりも、
日常の些細な、だが逃れようのない侮辱によって、より深く魂を損なわれます。修復不可能な亀裂は、常に静寂の中で入るのです」
壁の表面に、あの日の光景が、セピア色の写真が焼けるような速度で浮かび上がる。
私の唇は震えていたが、言葉は出なかった。
怒りがあまりに巨大で、あまりに純粋すぎたために、それは言葉という狭い出口を通り抜けることができなかったのだ。
その時、私の中で生まれた「音のしない怒り」が、時間をかけて冷え固まり、今の私を支配するあの「石」になったのだ。
私はその壁を、爪が剥がれるほどの力で掻きむしった。
石膏の粉が雪のように舞い、私の絶望を白く染めていく。
第十八章 裁けなかったという事実
「私は、彼女を裁くチャンスを、何度も見逃してきた」
私は、自分の手のひらに残る、あの日あの時、握りしめすぎて爪の跡がついた生々しい記憶を見つめた。
「相手が悪だと分かっていても、私は波風を立てることを恐れ、社会的な調和という名の、臆病な沈黙を選んだ。彼女を裁かなかったのは、他でもない私自身なんだ。その『裁けなかった』という事実が、今の私を、この石を、これほどまでに重くしている」
案内人は、私の足元に広がる石膏の粉を、冷淡な眼差しで見下ろした。
「裁く、という行為には、責任が伴います。
相手を断罪するということは、自分もまた、同じ土俵で血を流す覚悟を持つということだ。
あなたは、あちら側(生)では、その痛みに耐えられないと判断した。それは知性であり、同時に、魂の逃避でもあった」
「逃げた、と言うのか」
「ええ。ですが、それはあなただけの罪ではありません。人間は、そうやって少しずつ自分を削りながら、システムの一部として生きることを選ぶ。ですが、死後のこの場所では、その『削り取った破片』が、無視できない質量を持ってあなたを圧迫する。あなたが裁かなかったものは、今、あなた自身を裁く刃となって返ってきているのです」
空気が、急速に重力を増した。
私は、四つん這いになり、灰色の地面を這った。
裁けなかった悔恨。
謝らせることができなかった無念。
それらが、実体のないはずの私の体を、見えない万力で締め上げる。
「裁きは、地上でしか完結し得ない。ここにあるのは、その『間に合わなかった結末』の残骸だけです」
案内人の言葉が、私の背中に重い石板のようにのし掛かる。
私はその重みの中で、初めて、自分の怒りが「相手」ではなく、「自分自身の弱さ」にも向けられていたことに気づき始めていた。
第十九章 地獄を信じた夜
案内人が立ち止まった場所は、ひび割れたアスファルトが果てしなく続く、深夜の国道を思わせる空間だった。
街灯は死んだ魚の目のように濁り、等間隔で並ぶその明かりが、私の足元の灰色の影を不自然に長く引き伸ばしている。
そこには、あの夜の湿り気があった。
あの時、私は自分の部屋の片隅で、ただ一人、地獄という場所を信じていた。
地獄は、地の底にあるのではない。
それは、深夜二時の静寂の中にあり、スマートフォンの液晶から漏れる青白い光の中にあり、そして、どれだけ叫んでも届かない、あの人との間に横たわる絶望的な距離そのものだった。
私は、窓の外を走る車のエンジン音を聞きながら、あの人の不幸を、それも再起不能なほどの徹底的な破滅を願っていた。
そのどす黒い祈りが、私の肺を黒く染め、呼吸を浅くさせていた。
「美しい地獄ですね」
案内人の声が、冷たい風に乗って私の鼓膜を震わせる。
「あなたが信じた地獄は、あの人への刑罰ではなく、あなた自身の逃げ場だった。あの人が地獄に落ちることを願うとき、あなたは辛うじて、自分が『被害者』という安全な、そして正当な立場に留まることができた。憎しみが、あなたの唯一の生存戦略だったのだ」
私は、凍りついたアスファルトの上に膝をついた。
掌を地面に押し当てると、そこから生前の私の、あのじっとりとした汗の感触が蘇る。
「私は、あんな風に誰かを呪わなければ、夜を越せなかったんだ。呪うことでしか、自分の価値を証明できなかった」
「ええ。その呪いが、今のあなたを形作る石の正体です。地獄とは、あなたが自分を許すために、誰かを永遠に責め続けるという『契約』の場所なのですから」
案内人の指先が、街灯の光を切り裂く。
その瞬間、夜の国道は、砕け散った硝子のように粉々に砕け、再び虚無の闇へと飲み込まれていった。
第二十章 天国がなければ、悲しみは意味を失う
闇の底から立ち昇ってきたのは、あまりに鮮やかな、幼い頃の記憶だった。
それは、ただ「悲しい」という感情が、まだ誰への攻撃性も持たず、透明な雫のように頬を伝っていた頃の風景だ。
「もし天国という場所が、一切の苦しみから解放される純白の空間だとするなら、それは同時に、あなたが流したすべての涙を『無意味なもの』として処理する場所でもあります」
案内人の輪郭が、今度は朝焼けのような淡い光に縁取られる。
「あなたが悲しんだこと。傷ついたこと。夜を徹して震えていたこと。天国へ行くためにそれらすべてを忘れなければならないとしたら、あなたの人生に残るものは何ですか? 漂白された魂は、もはや『あなた』ではない、ただの無菌の意識に過ぎない」
私は、目の前に広がる穏やかな、しかしどこか空虚な光の海を見つめた。
そこに天国があるのかもしれない。
だが、そこへ行くためには、私はあの人から受けた痛みも、あの夜の怒りも、すべてを捨てなければならない。
それは、私が生きたという歴史そのものを、ゴミ捨て場に放り込むことと同じではないか。
「悲しみに意味を与えるのは、幸福ではなく、その悲しみを抱え続けるという『執着』です」
案内人の言葉が、私の喉の奥の石を優しく、だが抗いがたい力で圧迫した。
「天国を拒むことでしか、あなたは自分の悲しみの正当性を守れない。皮肉なことですが、あなたの魂を救っているのは、聖なる光ではなく、その消えない怒りの熱なのです」
私は、自分の胸にある石が、かすかに光を放つのを見た。
それは天国の光とは異なり、不格好で、煤けていて、だが自分自身の体温だけが宿る、唯一の光だった。
「救われなくていい。……悲しみが消えるくらいなら、私はこの石を、永遠に抱きしめていたい」
私の呟きが、光の海を切り裂く一筋の亀裂となって、どこまでも伸びていった。
第二十一章 裁かれなかった者の、その後
案内人が再び指し示したのは、あのカフェの光景の「続き」だった。
時間は無慈悲に経過し、陽光の角度が変わっている。
あの人は友人たちと別れ、一人で街を歩いていた。
その足取りは軽く、彼女が通り過ぎるショーウィンドウに映る影には、私が期待していたような「罪の重み」など微塵も感じられない。
「見ていなさい。これが、あなたが望んだ『その後』の真実です」
案内人の声が、冷たい剃刀の刃のように私の意識を切り裂く。
あの人は自宅に戻り、平穏な夕食をとり、何事もなかったかのように眠りにつく。
彼女の夢の中に、私は現れない。
彼女が私の名を思い出すことはあっても、それは「少し気難しい友人との、不幸な行き違い」という、都合よく編集された記憶のラベルに過ぎない。
彼女は裁かれない。
法によっても、神によっても、そして、彼女自身の良心によっても。
私の胸の石が、今や真っ赤に熱せられた鉄塊のように脈動し、周囲の灰色の空間を歪ませている。
「なぜだ。なぜ、あんな人間が、あんなにも平気な顔をして『生』を完結させられるんだ。因果応報なんて、嘘じゃないか」
「嘘ではありませんよ」
案内人は、眠るあの人の穏やかな寝顔を、無機質な眼差しで見下ろした。
「ただし、あちら側の因果は、あなたの感情とは無関係に作動します。彼女は彼女の物語の中で、自分を肯定し続けるために、あなたの痛みを『なかったこと』にする必要があった。その『忘却』という能力こそが、彼女にとっての生存戦略であり、同時に、魂の極限までの薄っぺらさの証明でもある。彼女は裁かれないことで、永遠に『自分の犯した罪の重さ』を知る機会を失った。それはある種の、最も残酷な刑罰だとは思いませんか?」
その言葉は、私の焼けつくような怒りに、冷や水を浴びせかけるような静かな響きを持っていた。
第二十二章 裁きを手放すのではなく、預ける
「納得しろと言うのか。彼女の無知を、刑罰だと思い込めと?」
私は、案内人の襟首を掴み、叫んだ。
私の指先が触れた彼の衣服は、氷のような冷たさと、煙のような不確かさを同時に持っていた。
「いいえ。納得など、永遠にできなくていい」
案内人は、私の激高を受け流すように、静かに私の手を外した。
「裁きを手放す必要はありません。ただ、その裁きを、今ここで完結させようとするのをやめるのです。それを、この広大な、死後の時間の流れの中に『預ける』のです」
彼は足元の砂を掬い、それを空中に投げ上げた。
砂は重力に逆らって浮遊し、無数の星座のように光り始める。
「あなたが握りしめているその石は、あなたが一人で背負うには重すぎ、熱すぎる。
ですが、この『あの世』という場所は、そうした未完の怒り、行き場のない裁きを、そのままの形で保存しておくための巨大な貯蔵庫でもある」
「預ける……?」
「そうです。彼女への憎しみを消すのではなく、それを一つの『事実』として、この世界の風景に刻み込む。あなたが彼女を許さないという事実は、誰にも奪えない。あなたが裁きを預けた瞬間、その石はあなたを焼き尽くす武器から、あなたという存在を証明するための『記録』へと変わります」
私は、自分の胸に手を当てた。
石はまだそこにある。
だが、案内人の言葉に呼応するように、石から放たれていた刺すような熱が、少しずつ、穏やかな「重み」へと変容していくのを感じた。
裁かなくていい。
許さなくていい。
ただ、この怒りを、この世界の法理の中に預け、自分をその執行責任から解放する。
私は、深い溜息をついた。
それは、生前には一度もつくことができなかった、肺の最深部にある淀んだ空気をすべて吐き出すような、長く、重い溜息だった。
第二十三章 地獄と天国が、人の心に残り続ける理由
案内人の周囲で浮遊していた砂の星座が、ある一定の周期で脈動を始めた。
それは、この死後の世界という巨大な肺が、静かに呼吸を繰り返しているかのようだった。
「地獄も天国も、場所の名ではありません。それは、人間が自らの感情に耐えかねて作り出した『解釈の極北』です」
案内人の声は、今や風の音と見分けがつかないほど透明になっていた。
「あまりに深い愛を説明するために天国が必要であり、あまりに鋭い憎しみを飼いならすために地獄が必要だった。
人は、名前のない感情の塊を抱えたままでは、生きていくことも、死んでいくこともできない。
だから物語を紡ぐのです。
感情という実体のない熱を、地獄や天国という名前の檻に閉じ込めるために」
私は、自分の胸の奥に居座り続けていた「石」を、ゆっくりと、初めて自分の意志で外へと押し出してみた。
それは喉を通り、虚空へと吐き出された瞬間、赤黒い熱を失い、銀灰色の結晶へと形を変えた。
それは、あの人の言葉や、私の悔しさが凝縮された、美しくも歪な「私だけの真実」の欠片だった。
「見てごらんなさい」
案内人が指し示した先では、無数の魂たちが、それぞれに異なる色の結晶を抱えていた。
ある者はそれを黄金の光として、ある者はそれを深い藍色の闇として。
彼らは皆、自分という物語を完結させるために、その結晶をこの灰色の平原に埋め、自分だけの風景を形作っていた。
「人間が死後に辿り着くのは、裁きの場ではなく、自らの感情を『物語』へと編み直すための、広大な机の上なのです。あなたがここに石を持ち込んだのは、それを棄てるためではなく、それを土台にして、新しい意味を築くためだった」
私は、足元に転がった銀灰色の結晶を見つめた。
それはもはや私を突き刺す刃ではない。
私が、あの不条理な生を、確かに戦い抜いたという勲章のような重みを湛えていた。
第二十四章 私は、物語になる
視界が、ゆっくりと反転していく。
乳白色の空も、案内人の曖昧な輪郭も、遠くで回転していた巨大な歯車も、すべてが水彩画を水で薄めたように淡く、透明になっていく。
「私は……」
私の声は、もはや自分の喉から出ているのか、それとも世界そのものが発しているのか分からなかった。
「私は、あの人を許さない。その怒りを、私の魂の背骨にする。消え去ることのないこの重みを、私が私であるための、たった一つの『物語』にする」
案内人は、最後に一度だけ、深い霧の奥で頷いたように見えた。
「良い物語を。……たとえそれが、呪いから始まったものだとしても」
次の瞬間、私は目を開けた。
そこには、死後の平原も、案内人もいない。
朝の、どこか冷たい光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
枕元には、生前と変わらぬ、しかし少しだけ埃を被った日常の断片が転がっている。
胸の奥を確認する。
かつての、あの突き刺すような「石」の痛みは、もうない。
代わりに、そこには静かで、揺るぎない「質量」があった。
それは、昨夜までの私を支配していた、あの制御不能な怒りではない。
私が私として、あの不条理を抱えたまま生きていくための、一冊の本のような厚みを持った「記憶」だった。
私は、ゆっくりと体を起こした。
窓の外では、また新しい一日が、私の意志とは無関係に始まろうとしている。
あの人は、どこかで相変わらずの笑顔を浮かべているだろう。
世界は相変わらず不条理で、正義が勝つ保証などどこにもない。
だが、それでいい。
私は、私の物語の作者として、この怒りを一行も削ることなく、続きを綴っていくだけだ。
鏡に映った自分の目は、以前よりもずっと深く、暗い光を宿していた。
その暗闇の中にこそ、私という人間が、踏み越えられてはならない一線を守り抜いたという、気高い誇りが灯っていた。
私は、一歩を踏み出す。
怒りは消えない。
物語は、終わらない。
(完)
あとがき――石を抱き、物語を綴る
本作『あの世で、感情は物語になる』を書き終えた今、私の手元には、書き始める前にはなかった、ある種の静かな重みが残っている。
それは、作中の主人公が喉の奥に抱え続けた「石」の感触に似ている。
まず、この物語の性質について明確にしておかなければならない。
本作は完全なるフィクションであり、特定の宗教や既存の死生観を肯定、あるいは否定することを目的としたものではない。
ここで描かれた「あの世」という舞台装置は、天国や地獄といった既成の教義に依拠したものではなく、あくまで人間の内面にある「割り切れなさ」を視覚化するための、一つの比喩的な空間として構想した。
私にとって、物語を書くという行為は、科学や論理では記述しきれない感情の不可解さを、フィクションという回路を通して「仮設」することに他ならない。
本作において宗教的な色彩を排し、案内人を無機質な装置として描いたのは、救済を神やシステムに委ねるのではなく、あくまで個人の「記憶」と「対峙」の地平に留めたかったからである。
この物語を紡ぎ出すきっかけとなったのは、私にとってかけがえのない、一人の友人の死であった。
その死は、劇的な悲劇というよりは、あまりに唐突で、理不尽な中断であった。
友人の不在によって世界に空いた穴を眺めているうちに、私は、自分自身の奥底に沈殿していた、かつての「辛かった日々」の記憶が、濁流のように逆流してくるのを感じた。
それは、誰かに深く傷つけられながらも、社会的な調和を守るために沈黙を選び、自らの怒りを「なかったこと」にしてやり過ごしてきた日々である。
世の中には「許し」を美徳とする言説が溢れている。
時間が解決してくれる、相手を許すことで自分も救われる、怒りは毒にしかならない――。
それらは一見正論であり、耳に心地よい。しかし、本当の意味で魂を削られるような
侮辱を受けた者にとって、そうした安易な和解の推奨は、時に新たな暴力となって襲いかかる。
許せない自分は、魂の出来損ないなのだろうか。
怒りを抱え続ける自分は、救われる資格のない、執着にまみれた人間なのだろうか。
友人の死に直面し、自分の無力さと向き合う中で、私は確信した。
怒りとは、単なる負の感情ではなく、その人がその人であるための「尊厳の最後の一線」なのだと。
踏み越えられてはならない領域を、泥を啜ってでも守り抜こうとする、生命の必死な抵抗なのだと。
だからこそ、私は「救われないままの救済」を描きたかった。
怒りが消えることや、加害者が改心することを前提としたハッピーエンドではなく、怒りを抱えたまま、納得できないまま、それでもその「重み」を自らの物語の血肉として受け入れていく過程。
それこそが、現代という不条理な世界を生き抜くための、真に誠実な姿勢ではないかと考えた。
執筆中、私は何度も、かつて自分を傷つけた人々の顔を思い出した。
かつて自分が吐き損ねた言葉の断片に、指先を切り裂かれるような思いがした。
しかし、それらの痛みを一つひとつ、死後の世界の風景――あの乳白色の空や、灰色の砂、無機質な案内人の言葉――へと置換していく作業は、同時に、私自身の内側で凍りついていた時間を、ゆっくりと解凍していくプロセスでもあった。
あとがきとして最後に記したいのは、今この瞬間も、誰にも言えない怒りや、解消されない悲しみを抱えて夜を越そうとしている「あなた」への連帯である。
この物語が提示したのは、答えではない。
ただ、「怒りを抱えたままでも、あなたはここにいていい」という、静かな肯定の場である。
死後の世界という、極めて孤独で広大なメタファーを借りて、私は、私たちの内側にある「許せなさ」を、誰にも汚されない聖域として描き出したかった。
友人はもういない。
私の受けた傷も、今さら癒えることはないだろう。
だが、その消えない熱を燃料にして、私はこれからも物語を綴り続ける。
怒りは物語になり、物語は、いつか誰かの夜を照らす、一筋の冷たい、だが確かな光になると信じて。
この物語を、かつての私自身と、今を戦うすべての「怒れる魂」に捧げる。
城間 蒼志




