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ーーまるで、水中で生きているようだった。
声が出せない、呼吸がままならない、藻掻いても絡めとられて逃げられない、刺すような冷たい視線、切りつけられるような、身だけでは足りない言葉の暴力。
「助けて」の一言も口にできない…したところで無意味だった。
死んでしまおうかとは何度も考えた。でも勇気がなかった。
刃物で自身を切りつけた後の痛みが、
高所から打ち付けられた後の痛みが、
気道をふさいた後、意識を失えなかった時の苦しみが、
鉄塊に身を委ね、破裂した後の視線が、感情が…
その全てが、怖かった。
本気でそんなことを考えた時期に比べれば、今の生活は…苦しいが、比較的幸せだった。
でも…どうやらそれも、終わりのようだ。
すれ違い際に伸ばした俺の手…それを掴む人の手…「やっと終われるんだ」なんて…変な安堵さえ覚えた。
目線を下げたまま固まる俺に、その紳士は柔和な顔で言った。
「君…いい腕してるね」
ーー怪盗夜空
ここ数年活発に活動しているその怪盗は、黒ずくめの衣装に身を包んだ謎の存在だ。
声音からか辛うじて男性だろうと言われている彼は、その名の通り夜に活動する。
人間離れした身体能力と、優れた審美眼を持つ。
おまけに口達者で、変装している彼に接した人物は軒並み恋に落ち、警官隊への煽り文句を聞けば、そのニヒルな家囲気に性別問わず惹かれてしまうなど…とにかく何かと、目立つ存在だ。
きっと中身はさぞ顔のいいイケメンなのだろう。いや、もしかしたら男装の麗人かもしれない。イキった陰キャが格好つけているだけだろう等、様々な憶測をされている彼が狙うお宝は、総じていわくつきの呪物だ。それも彼の不思議な雰囲気に合致し、人気の一端となっているのだろう。
狙うものが呪物で、収集したものがどこに行っているのかわからない…一切の足取りがつかめないところから、呪物の収集家説、それらを使って世界を滅ぼそうとしている侵略者説などなど…噂の膨張は留まるところを知らない。
…結論を言うと、どれも的を外している。
『いやぁ、最近の夜空人気はすごいね!やっぱ才能あったんだよ!』
電話口でそう上機嫌に話すのは、怪盗夜空の依頼人である「あお」…通称、パトロンと呼んでいる謎の人物。
彼らは、自身の余りある好奇心を満たすため、いわく付き…『不思議』に関わる呪物を俺に集めさせ、その効果を俺で実験することでその欲を満たしている…言ってしまえば性格の悪い依頼主だ。
「どうでもいい…ただ、姿見たさに逃げ道をふさぐのだけはやめてほしい…」
『君の身体能力なら問題ないだろうに…ところで夜空、今回はどう?今のところ、「呪い」っぽいものって感じる?』
今回盗み出したのは、筆者の怨念を一身に受けた呪いの本として言い伝えられている絵本…マルファル=K=ネメシスの遺作、「慈愛の王子の或る末路」だ。
ネメシスは、20世紀初頭に絵本作家として名を馳せた男だ。優しい色使いと美しい水彩画で描かれた絵柄が特徴で、彼が作る物語は全て幸せな終わりを迎えることが特徴だった。
心理描写が丁寧で、登場人物たちへの感情移入がしやすいこともあり、老若男女問わず人気があった。
…しかし、本作はそれが逆に悲劇を生んだ。「慈愛の王子の或る末路」は、現在で言う鬱になるようなバッドエンドの作品だったのだ。
いつもの優しい展開を期待して本作を読んだ読者が次々と引付やめまいを起こし、一時焚書騒ぎにもなったのだとか…そしてそんな折、ネメシスが自宅で首を吊って死んだという噂話まで出回り始め、「本に呪いを込めた」という話が現実味を帯びてしまった。
その結果本書は発禁となり、現在紙媒体で残っているのは今俺が持っている原本のみになってしまった…ということらしい。
『まあ、言われているのは読むだけで引きつけやめまいを起こす〜とか、夢で主人公の王子に焼き殺される~なんて軽めのものだから、とりあえず2,3日様子見てよ』
「わかった」
『前みたいに、装着しただけで皮膚が焼けただれるとか、動けなくなるレベルの高熱が出るとかっていうんじゃないみたいだから、そこは安心してね!』
「実害が出るのは本当にもうやめてくれ…ファラリスの時なんか、腕に火傷跡のある男を見なかったかとか聞かれたからな、実際に…」
『ああ、リスカメイクで誤魔化したって言ってたあれね…お一け、気を付けまぁす』
(本当にわかってるのか…?)
俺の依頼主は何かと適当だ。俺をスカウトしてきた時もそうだったが、見切り発車が過ぎる。いい例でいえば…怪盗名だ。
「まさか、本名で活動してるなんて誰も疑わないだろう?だから、"怪盗夜空"で行こう。うんうん、本を隠すなら本の中、夜空を隠すなら夜空の中ってね〜♪」
そんな至極適当な...そして安直な決め方をされてしまったそれだが、今のところ功を奏しているのか疑われたことはない。
そもそも、彼らが「怪盗といえば…」と言って俺に提示してきたキャラが、もう俺自身とは乖離しすぎている。疑われる余地もないのだろう、こんなド陰キャ。
通話を切り、傍らに置いた本を手に取る。何の変哲もない…と言ったら、今のものよりも少しばかり重厚なそれを戯れに開き、本文に目を通す。
…ああ、なるほど…これは…感受性の高い子供や若者に読ませるのは、キツいかもしれない。
ひと昔前の絵本、ということで少し舐めていた…と言ったらいいだろうか。思った以上の怪作だった。
そう、これは…九相図に似たような…一人の美しく優しい王子が、心を病み、すべてを憎むようになるまでの過程を、絵と小気味いいリズムの文章で巧みに表現している…俺も少し、読み終えてから気分が悪くなってしまったほどだった。
(…ほかにも見たことあったな、こんな作品…ゴーリーだったか…)
そんなことを想いながら時計を見れば、時刻は深夜3時を指していた。さすがに、そろそろ寝る準備を始めなくては…
絵本を読んだことで発生したもやもやはその後も消えることはなく、心の隅にしこりのように残った…このしこりこそが、鬱作品の旨味ではあるんだろうが…俺はどうも好きになれない。
(…助けてくれる人がいない絶望は…よく知ってる)
床に入り、目を開じると…トラウマのように、王子の恨みのまなざしが脳裏に浮かぶ。
(……お前も、災難だったな)
同情したところで、主人公の未路は変わらない…が、筆者の精神状態がおかしく、何かしらのとばっちりを受けたという点では…同情に値した。
(次生まれ変われたら…幸せな話の主人公になれたらいいな)
絵本の登場人物に、生まれ変わりなんかないんだろうが…なんとなく、そう願ってしまった。
(……お前も…俺も)
霞む意識の中、絵本が捲れる音がした気がした。
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……なにかが、擦れる音がする。それと、柔らかい物同士を打ち付けるような音…それから…抑えきれなかった、嬌声。
「やめて」といっても、やめてくれない。「どうして」と理由を問うても、答えてくれない。
自分の中に、無理やり割って入ってくる「何か」が、たまらなく気持ち悪い、痛い、苦しい…
なのに…そのはずなのに……
「俺、いい友達持ててうれしいよ。夜空ちゃん」
「また、してやるからな」
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「ーーーーーーーーっ!!!!!」
悲鳴を上げそうになりながら飛び起きる。そうしてそのまま、喉奥からせりあがってくるものを手で押さえ、トイレに駆け込む。
「うっ……ぉ、えっ……」
昨晩は何も食べていない。だから、出てくるのは透明な胃液だけだ。その刺激臭と、口内に残る苦みに耐えきれず、また嗚咽する。
「う、ぐっ……」
涙目になりながら合間に空気を取り込んでいると、背後から声がかかる。
「大丈夫ですか...?具合、悪いんですか...?」
そのまま背中をさすってくれて、少しすると落ち着いてきた。
目元と口元をティッシュで拭い、ぼうっとしたままの頭で、後ろの人物にお礼を言わねばと立ち上がる…後ろの人物……?
背筋が冷える。後ろの人物だって…?ありえない、だって…この部屋には、俺しかいないはずだ。
「治まりましたか?…よかった」
恐る恐る、後ろを振り返る……そこには……
「まだ、顔色が悪いですね…困りました…この辺に、お医者さんがいる場所はあるでしょうか…?」
美しい金糸の、多分、青年がいた…
「うわあああああああ!?!?!?!?」
「ひゃあああああああ!?!?!?!?」
ーーこれが、後に…俺のかけがえのない人になる、アザレアとの第一コンタクトだった。
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「…で、誰なんだ、お前は…どこから入ってきた…?」
「わ、わからないです…その、気が付いたらここにいて…ここはどこなのでしょうかって、僕が知りたいくらいで…」
「自分が何者かもわからないのか?」
「あっ、それはわかります!僕は王子です!小さな国の!」
「…名前は?」
「?…王子です」
「……王子って、名前なのか?」
「えっと…なんといいましょうか…そうとしか呼ばれたことがなくて…」
「………」
目の前の男…王子は、本気で困っているように目をうろうろと泳がせている。その姿に…俺は少したけ既視感を抱いていた。
美しい金糸の髪に、若草色の外套、白を基調としたファンタジックな礼服に、薄いグリーンを纏った白の双眸…昨晩読んだ、絵本の主人公に瓜二つなのだ。
となると彼は…絵本世界の住人で、それが現実に出てきたということになる…いや、いやいやいやいや…おかしい。さすがにおかしい。いくら呪いが宿ってるとはいえ、こんなことは…
「あ、あの…すみません、僕…本当にわからなくて…」
「………はぁ……」
ため息を一つ。とにかく…一旦パトロンに連絡を取ろう。もしかしたら、そっちの手引きかもしれない…そうじゃないと困る。
「少し、そこでじっとしてろ…いいな」
「は、はい……」
一応貴重品を持ち、廊下でパトロンに電話をかける。数コールの後、電話口からは少女の声が聞こえてきた…今日はそっちか。
『はいはーい、碧だよ〜。どうしたの夜空。朝から珍しいね』
「どうしたのじゃない…なんだあいつは」
『あいつ?何の話?』
「とぼけるな…もしかして、お前の片割れか?」
『ちょっと待って待って!本当に話が見えないんだってば!!蒼はこっちにいるし…何があったの?』
返ってきたのは期待していたような反応ではなく…むしろ、あまり望んでいなかった反応だった。
ひとまず、昨日後んだ絵本の主人公に似た姿の何者かが、いつの間にか部屋に入り込んでいたことを話すと、彼女は、ふむと相槌を打った。
「これ、なのか…?あの本の呪いって…」
『これはねぇ…ちょっと、予想外のことが起きたのかもしれないなぁ…興味深いねぇ…!』
「予想外って……」
『ひとまず、その王子さまうちに連れてこれる?いつでもいいからさ』
「………わかった。すぐ行く」
『OK〜!待ってるね!………ねえ蒼、ちょっと聞いてよ!今めっちゃ面白いこーー』
能天気な会話を遮るように、電話が切れる。ひとまず、あいつを連れて行こう…事態は予想外らしいが…心当たりはあるようだ。
一つため息をついて部屋に戻れば、王子は本を読んでいるようだった。取り上げたい気持ちもあったが…なんか疲れた...一旦良い。好きにしてくれ。
「あっ…お帰りなさい、夜空さん!」
「………名前言ったっけ?」
「えっ……ち、違いましたか…?」
「………はぁ………まあいいや。適当に着替え用意するから、いいところまで読んだら着替えて。出かける」
「あ、はい!」
…悪いやつではなさそうなんだけどな。
背丈はあまり変わらなかったので、服探しにはあまり苦労しなかった。また、俺の目の前でもためらいなく着替え始めようとした辺り、本当に男で間違いないようだ。
「…ん、服装はこれで遠和感ないな」
「ありがとうございます!…ふふ、こういうお洋服着るのは初めてです…!」
……帽子も欲しかったな、できれば。顔が目立つ。
「それじゃ行くぞ。絶対はぐれないように」
「はい!」
パトロンの屋敷までは、途中バスに乗って15分ほど…なのだが…
「わあっ!夜空さん、あれは何ですか!?白くておっきいのが飛んでますよ!!」
「いい匂いですねぇ…あの白くてふわふふわしたものは何でしょう…?」
「これ、動力は一体どうなっているのでしょうか…?馬もいないし、石炭の匂いもしない…うっ、煙たいです…!」
行く先行く先で目につくものほぼすべてに興味を示す王子に度々引き止められ、物を買い食べさせて…なんてやっていたら、いつもの数倍時間がかかってしまった。これが、なぜなに期…だろうか
「疲れた……」
「楽しかったですね、夜空さん!また今度、ゆっくりお散歩しましょう!!」
「しねえよ……」
ノッカーでドアを叩くと、中から幼い少女が顔を出す…おそらく、パトロンだ。
「いらっしゃーい、夜空!早かったね!!」
「十分遅かっただろ……」
「いや?私もっとかかると思ってたよ?すごかったでしょ、その子の好奇心」
「わかってたんなら、こっち来てくれてもよかったんじゃないのか?」
「だめ〜。夜空ん家ワンルームなんだもん。さ、入った入った~」
個人じゃないと話せないことでもあるのだろうか…先導されて入れば、中は相変わらずしんとした静かなロビーだった。物珍しげにきょろきょろする王子に「遅れるとはぐれるぞ」と声をかけついていく。脅しでもなんでもなく事実であることが伝わったのか、彼は俺の服の裾を握ってついてきた。
扉を数個通り過ぎ、ある部屋に通される…すると、そこは箱庭のような空間だった。
「えっ……?」
きょろきょろとあたりを見回す王子をよそに、先にティーテーブルで優雅にお茶を飲んでいた少年が、こちらを見やりにこりと笑う。
「やあ、ようこそ夜空…それから、新しい『不思議』くん。歓迎するよ」
席を立ち、流麗な動きでこちらに近寄ってきた少年は、俺たちを先導した少女と手をつなぎ続ける。
「まずは挨拶を。僕は蒼。こっちは碧。夜空からは、パトロンって呼ばれてるよ。好きに呼んでね」
「あお、さんと、あおさん…?どちらも「あお」さんなんですか…?」
「そうだよ」
「そうなんですか…よろしくお願いします…?」
「うん、よろしくね!」
次は俺のほうを見やり
「で、この子が件の、「王子様」だね?」
「ああ、話した通りた」
「OK…それじゃあ」
パトロンは、つないでいた手を放し…少年のほうは俺に、そして少女のほうは王子の前へ移動した。
「夜空はそのままここで。王子は、ちょっと碧についていってくれる?」
「えっ……」
「大丈夫だよ~、王子様。悪いようにはしないし…ただちょっと、お互いにとってナーバスな問題だから、分かれるってだけだから!」
「…ナーバス、ですか……」
王子はちらと俺の方を見る。その目には、少しだけ不安の色がともっているようだった。
「……何話されるかわかんないけど…大丈夫だ。ひどいことはされないから、行ってこい」
「あ……、………はい、わかりました…」
王子はちらちらとこちらを気にしながらも、少女と部屋を出ていった。残った少年は、「ここ座って、夜空。砂糖要らないよね?」と言いながら紅茶を入れてくれた。
オレンジの香りが、ふわりと香ってくる…オレンジティーだろうか。
「さて…夜空、先に言っておくね。あれは、君が思っている通り、ただの人間じゃない」
あっけらかんと言われた言葉に、だが俺はあまり動揺しなかった…というより、あまり実感がわかなかったのだ。
「...じゃあ呪いなのか…?」
「それもちょっと違う」
差し出された紅茶の底には、輪切りのオレンジが沈んでいた。そのまま席に直り、自身も一口紅茶を飲むと……話し始めた。
「『不思議』って……知ってるかい?」
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ーー不思議
それは、世界中に散らばった都市伝説や、超常的な現象の一種。いわゆる、オカルト事象と呼ばれるもの。
しかし、それらと一線を画す存在がおり…彼らは、それらのことを『不思議』と定義付けた。
『不思議』には、様々な姿かたちがある。人の形をとったもの、動物を象ったもの、植物だったり、実態を持たない「現象」であることもある。
共通しているのは、『不思議』は必ず人間の望みやトラウマ等、強い感情から生まれるということ。また、それぞれに消滅の原因となる弱点が存在すること。
また…『不思議』の持ち主になった人間のことを。『共心者』と呼ぶらしい
…結論から言うと、あの王子は俺から生まれた『不思議』なんだそうだ。そして、俺はその『共心者』…俺の何に反応して生まれた『不思議』なのかがわからない以上、無闇に刺激するべきではない。しかし、あの『不思議』をもとの姿…絵本に戻す、あるいは消滅させる方法ははっきりしているそう。
それは、自身の物語の結末を話すこと…そして、後者は「燃やすこと」だそう。
過去も何度か、書物から顕現された『不思議』がいたそう。そうして、そのどれもがこのやり方で元に戻ったり、消失したりしたそうだ。
「…だから、夜空が邪魔だと思うなら、今すぐここで結末を話して戻してもいい。そうすれば、あの王子様は元の慈愛の王子に逆戻り!晴れて夜空のぼっちライフも戻ってくるってわけさ」
「なるほど…いや、なるほどじゃないが…」
「突飛な話だよね。わかる。というかその反応が普通だよね!」
パトロンはけらけら笑うと、紅茶の底のオレンジをつつきながら続ける。
「でも、気を付けたほうがいいね。『不思議』は、自分が人間以外の何かだって自覚している場合と、そうじゃない場合がある。後者だと、接し方を気を付けないと君自身に危険が及ぶ場合もある。夜空だって、急に自分が「人間じゃない未知の生物だ」って急に言われて、それが本当だったらパニックになるだろう?」
「……ああ、ちょっと、想像はつかないが…」
「でしょ?だから……もしあの子に優しくしてあげようって気持ちが少しでもあるなら、少しずつ、話してあげるんだよ」
「……できる、んだろうか…俺に…」
「さあ?まあ、何かあれば僕らも手は貸すよ。『不思議』は貴重な存在だからね」
少しずつ話す…か。しばらくは心の整理がつかなそうだ…そういえば…
「なあ、パトロン…その、元に戻すっていうのと、消失させるのとは、何か違いがあるのか…?」
「ん~、そうだねぇ…」
彼は少し考えこむと、続ける。
「広義では同じ。どちらも、『不思議』としての終わりを意味する行為だね。ただ、まだ例がないってだけで、元に戻すってだけなら、また同じように共心者の気持ちを揺さぶるようなことが起きれば、再顕現は可能かもしれない」
「…試したことはあるのか?」
「あるさ。でも…再顕現出来た例は一度もない。それだけ、『不思議』の顕現ってのは奇跡に近いものなんだ」
「……そうか」
なら…好きな時に戻ってきていいと言って、こちらの世界を悲劇的な物語からの逃げ場にするということは…現実的ではないんだな。
「まあ…そんなに悪い物じゃないよ、『不思議』って。何せ、自分の心の分身みたいなものだからね。誰よりも自分のことをわかってくれるし、誰よりも自分を守ってくれる…夜空がそれをどう思うかは分からないけど…少しだけ、一緒にいてやったら?あの王子、この世界に興味津々みたいだし」
「……パトロンたちも、『不思議』なのか…?」
「………さあ?」
にんまりと笑って、彼は持ち上げたオレンジを一口齧る。
「どうだろうね?」
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王子は、行きの時よりも静かだった。パトロンから何を聞かされたのかはわからないが…ただ、ところどころで何か聞きたそうにうずうずしていたのを見るに、俺に気を遣ってくれているのだろうと思うことにした。
「聞かないのか」
俺が逆に聞いてやると、王子ははて、と首をかしげる。
「……気遣われるの、嫌いなんだ。だからと言って、朝みたいにがつがつ来られると困るけど…聞きたいこと全部…そこまで我慢しなくてもいい。いつまでここにいることになるかも、わからないし」
そう続けると、彼は顔を綻ばせて俺の手を握った。
「そう言っていただけで嬉しいです!確かに、今日の朝はいろいろ矢継ぎ早に聞いてしまって、申し訳なかったなって思いまして…だからあんなに疲れてたのかもしれないって…具合も悪そうだったのに、僕の為にパトロンさんのところに連れて行ってくれたりもして…!」
「あーあーあー、はいはい分かった!感謝伝わったから!もういいから!!」
「す、すみません……お話しできるのが嬉しくて、つい……」
悪いやつではない。ただ好奇心が旺盛で、素直で明るくて…俺なんかとは全く釣り合わないような…どうして、俺の『不思議』として顕現したのかもわからない…そんな、慈愛の王子。
「短い間になるかもしれませんが…よろしくお願いしますね、夜空さん!」
「……ん」
しばらくは、この王子に振り回される日々になるのだろうか…いや、終わろうと思えばすぐ終わらせられる。この王子の命は、俺が握っているも同然の状態なのだ。でも……
(……悪い気は、しない…むしろ、なんだか……)
長い間空いていた穴が埋まっていくような…満たされていくような…そんな、心地良い感覚があった。