風の精
シルバルク山脈の森は、朝露がまだ木々に光る静寂の中に包まれていた。薄霧が漂う中、細い木漏れ日がまばらに差し込み、その光の中で風の妖精エアリアルたちが軽やかに戯れている。彼女たちはまるで風と一体となったかのように、ふわふわと宙を舞い、透き通るような羽が小さな鈴の音のように音を立てて揺れていた。
その時、森の奥から静かな足音が近づいてきた。妖精たちはその気配に気づき、目を向ける。木々の間から姿を現したのは幼さの残る青年のような容姿ながらに、身にまとう威厳を湛えたヴィルカインだった。彼の瞳には穏やかさが漂いながらも、どこか焦りの色が混ざっているようだ。エアリアルたちは興味深そうに彼を見つめ、ふよふよと近寄ってきた。
「おぉ。エアリアル達よ」
ヴィルカインは軽く手を上げ、柔らかく微笑む。
「セリヴァルを知らぬか?またしばらく帰って来ぬのだが、お主らと遊んでいたりはせんかのう?」
容姿と裏腹の老翁のような口調だが、エアリアル達には聞きなれたものだった。
「セリヴァルって、ヴェアリル・リヴノールのことでしょう?かぜとだいちの御子を、あなたもヒトがつけた名で呼ぶのね」
小さな風の妖精たちは目を見合わせ、くすくすと笑い声をあげた。小さな光のような妖精たちが、ヴィルカインの周りをふわりと舞いながら、風のようにささやく。
「わたしたちのリヴノール」
「いたわ」
「いたわね」
「さっきまで、わたしたちと遊んでいたわ」
「そうね。さっきまで。たくさんウタを歌ってくれたわ」
口々に答えるエアリアルにヴィルカインは「むぅ」と唸る。すれ違いだったかと肩を落とす。
周囲に小さな花々が咲き乱れているのは妻が歌っていたからだったのか。
「さっきまで、ここにおったのか?」
「そう。さっきまで」
「そうね。たいようが3度のぼるまえよ」
「3度のぼったわね」
「のぼって、しずんだわね」
ヴィルカインは妖精たちの無邪気な囁きを聞き終えると、しばし黙り込んだ。
―太陽が3度昇って、沈む前…
「3日前ではないか!それは”さっき”ではないのう!」
きゃーっとエアリアルたちは笑いながら逃げるが、その純粋な無邪気さは意地悪なものではなくそれが妖精たちの普通なのだとヴィルカインは思い直し脱力した。
「…まぁ、良い。どうせまた人の世に降りておるのだろう」
頭をかきながら閉口するが彼の表情は柔らかく、どこかで妻の奔放さを楽しんでいるようにも見える。
「あなたのかぜならリヴノールにもとどくのに」
「しばることはできないけど、あなたならとどけられるのに」
「みちびくもののヴィルカインなら、とどけられるのに」
要は、妻に会いたいなら風の力を使って自分の声を届けろということだろう。確かに風を司る導く者であるヴィルカインになら可能だ。
だが、彼はほとんどそれを行わない。
「…良いのだ。あやつがどこへ行っても何をしていても」
時間だけはあるからのうと呟き、彼は妻の歌が咲かせた花畑を愛おしそうに眺めた。
妻の風は今、誰を包み誰と共にあるのだろうか。