求めるは心
「折れたのか」
もうアレスは立ち上がることができない。
男は悔しそうに歯噛みする。こちらは化け物に成り下がってまでアレスを仕留めようとしていたのにもかかわらず、当の本人はたった一人殺しただけで心を折り、戦意を失った。
これを悔しがらずにいられるだろうか。
「否」
自問自答する。男は意を決して一歩踏み出した。
「大量殺人鬼が今さら偽善者面をするな!」
それは男、いや、この場にいる者の総意
アレスの心に影が生まれる。
そうだ。自分はあの死戦場で何万という人間を殺した大量殺人鬼
そう自覚すると、ふっと体が軽くなった。
「……ぁぁ、そうだ」
そよ風にもかき消されそうな声は誰の耳にも届かない。
大量殺人鬼が何を今さら人間のように悲しんでいる?
ポロポロと脳に響く音がより鮮明に、男の叫びは聞こえない。
自分は何者だ?答えは単純明快、ただの人殺し、無慈悲に、惨たらしく、残酷に、戦場を駆けまわった殺人者
思考がクリアになっていく。無駄な情報がすべて消え、ただ一つの事実のみを理解する。
「やれ」
男が魔人と化した部下たちに命令を下す。
魔人の一人がゆっくりと失意に暮れる少年の前へと立つとその鈎爪を頭部目掛け振り下ろした。
「仇は討ったぞ」
男は虚空に祈る。
だが、その祈りは届くことがないと現実を見て理解させられることとなった。
「やっぱり……そうだ…」
ポツリと呟かれた声に男は目を見開いた。
そしてゆっくりと視線を落とす。
「……」
絶句
男は視線の先の光景を見て言葉を失った。
本来ならばそこには忌々しき使徒の首が転がり、魔人と化した部下が立っているはずだった。
現実は違った。
立っていたのは部下ではなく剣を握り幽鬼のように不気味に佇むアレス、そして周囲に部下はいない。その代わりにアレスの足元には不自然に灰が積もっていた。
「何も感じない」
冷めきった抑揚のない声が男を現実へと引き戻した。
「っ、かかれ!」
五体の魔人が仲間の敵を討とうと一斉に不気味な使徒へと跳びかかる。
が、そんなこと今のアレスには無意味
アレスが亡霊のようにゆらりと力なく揺れた直後、閉鎖されたこの空間に冷めた風が僅かに吹いた。
魔人たちが跳びかかった態勢で時を止めたかのように一斉に宙で止まった。そして、全員が灰となって僅かに吹く風に乗って儚く消えていく。
「馬鹿な⁉ただの鉄剣で魔人を消しただと」
アレスの力に男は驚愕。そしてただの鉄剣で魔人五体を簡単に消し去ったその技量の高さに目を見張った。
そしてアレスがゆらりと顔を上げると男はまたしても言葉を失った。
「っ⁉」
アレスには表情が一切なく、その漆黒の瞳には何の感情も宿らない。それほどまでにアレスの瞳はどこまでも濁っていて何も映ることはない。
「感情とは何だ?」
唐突に投げかけられたそれは質問ではなくただの独白
男たちは言葉を発することが許されず、唯々目の前の化け物の話に耳を傾けるしかなかった。
「分からない。“俺”にはやっぱり心が分からない」
心に張り付けられた“記憶”という名のメッキがポロポロとはがれていく。
「森で過ごして、人と久しぶりに話した時、俺には感情が戻ったと思った。だけど、それは違った。今まで俺が感じていたものは感情ではなくただの記憶、過去俺自身が想った感情」
メッキがはがれた心には何も残らない。
「俺の心はあの時から壊れてしまった」
何も感じない心、それに代わった時の記憶は今でも鮮明に覚えていた。
あれは北方戦争終盤、きっかけはあの死戦場では些細な事、仲間を“皆殺し”にされ怒り狂い、敵である帝国兵を蹂躙し終え、空を見上げていた時の事、あの時アレスは何も感じていなかった。ぽっかりと心に何か大きな穴が開き、どこまでも続く虚無感に身を浸らせていた。
その時からだ。アレスが何も感じなくなったのは
アレスは虚無の中で何も見る事が出来なかった。
これが英雄の末路、誰よりも優しかった少年は人を殺し、仲間を殺され、心を失った。
だから、と言葉を続ける。
「俺は心を欲した。記憶の中でしか分からない喜び、悲しみ、怒り、その全てを欲した。俺は生きて感情を欲し続ける。記憶ではない本物の感情を」
アレスの存在理由、それは心を求める事。それ以外に今のアレスを突き動かす存在理由はなかった。そしてここに残った理由を思う。
「そして、あの時思った感情が本物であったかどうか確かめる」
それはあの時感じていた、守りたいという感情、その記憶とも分からない感情がアレスを帝国人たちと敵対させている理由だった。
アレスは独白を終えると男と視線を合わせた。その全てを否定する極寒の眼差しが男の肌を粟立たせ、不覚にも敵によって意識を戻らされた。
「距離を取って隙を窺え、真正面から決して戦うな!」
残り五体の魔人が散開し化け物の間合いから距離を取る。
男は焦りを浮かべる。予想外だった。まさか、すでに心が崩壊しているとは
心の無い存在ほど厄介な存在はいない。自分が傷つくことなど関係ない。それはまさしく死ぬまで戦い続ける人形だ。実際、アレスは肩口から大量に出血しているというのに気にした様子もなく周囲へ視線を配っていた。
そして先に動いたのはやはりアレスだった。
アレスの動きは誰にでも目で追える速さ、確かに速かったがでたらめな速さではない。
アレスに対抗するように魔人たちも動き出す。そしてそのうちの一体がアレスへと突っ込んだ。
「っ、戻れ!」
男が部下の魔人に向け叫ぶ。だが、無意味。魔人がセイ目掛け飛びだした時点でその魔人の運命は決まっていた。
魔人がアレスの正面に行く手を阻むように立ち、その爪を横薙ぎに振るう。
「邪魔」
アレスの虚無の瞳が行く手をふさいだ魔人を拘束する。どこまでも深い、何もない状態で広がるその瞳に魔人は意識を呑まれる。
「やっぱり」
死戦場での記憶を思い出しながらアレスは洗練された足取りで魔人の背後へ移動すると輝きを失った鈍色の剣で魔人の首を切り裂いた。
ポトリと落ち、瞬時に灰となった同胞を見て魔人たちの心に怒りの炎が宿る。
「止めろ!お前たちが近づいても無駄死にするだけだ!」
そんな男の制止を無視し二体の魔人がアレスへ向かい飛びだした。それぞれが不規則に動きアレスを惑わせようとするが無駄。感情の無い人形にフェイント、いかさま、そういった心を揺さぶる行為は意味をなさない。
それを知らず魔人のうちの一人が背後に回り挟み撃ちを仕掛けようとした。
正面の魔人は爪を立て心臓に狙いを定め、背後に回った魔人は大きく跳躍ししなやかな足を振り乱す。
回避不可能に思われたその攻撃がアレスにあたる直前、鈍色の輝きが紅の雫と共に宙に弧を描いた。鈍色の弧は的確にそれぞれの攻撃を弾く。人形がゆらりと柳のように揺れると前傾姿勢で魔人の懐へと飛び込む。そして躊躇いなくその刃を魔人の心臓目掛け突き刺した。
「ガァァァ!!!」
最後の抵抗とばかりに血を飛ばしながら叫びをあげると前傾姿勢となっている人形の左肩を叩きつけた。
ガクンと骨が外れ、より一層力が入らなくなった腕は力なく垂れるのみ。
魔人の攻撃はまだ終わらない。死ぬことが分かっているせいか決死の覚悟で貫かれた心臓そのままに目の前の人形を抱きしめた。人形の骨がきしみ、血管が圧迫される。
その覚悟の灯った瞳は背後の魔人に向けられ言外に俺ごとやれと訴えているようだった。
背後の魔人は同胞の覚悟を受け、その殺意を滾らせた肉を引き裂く爪を振るい下した。
まさか本当にこのまま化け物を倒してしまうのかと、男は僅かに期待してしまう。
「邪魔」
だが、無慈悲にもその期待は叶わなかった。
どこにそんな力が残っているのか、アレスは抱きしめてきた魔人の腹部に膝蹴りを叩きこみ、自分と魔人の腕に隙間ができた瞬間剣を引き抜いた。
純白の制服が魔人からあふれ出た鮮血を浴びる。
振り向きざまに鈎爪を弾くと流れるように剣を二度薙ぐ。
一度目は魔人の腕を断つ。そして足音一つたたせず距離を詰め、二度目は容赦なく首をはねた。
赤いシミと灰が広がる床の中心には、鮮血で濡れボロボロになった一体の人形が立っていた。肩が外れ、肉が断たれているというのに顔色一つ変えず虚無の瞳を向けてくる人形に男は全身が粟立つのを感じた。
本能が警鐘を鳴らし、思考が不可能だと否定する。しかし、男は退くことなく鞘から剣を引き抜き構えた。男を突き動かすもの、それは信念だ。倒れて逝った仲間の想い、それを繋ぎ、使命を果たさんとする信念だった。
だが、自らの感情を証明するべく戦う少年にはそんなこと関係なかった。
アレスが持つ血濡れの剣が不気味に光る。
直後、アレスの姿は男の視界から消えた。
「っ⁉どこに行った!」
返事が返ってくるわけもなく、その代わりに隣に立っていた魔人が灰となって消えていった。
男は視線を向け、目を大きく見開いた。
「な⁉」
男が振り向いた先にはいつの間にか背後を取っていた少年が剣についた鮮血を軽く振り払っていた。
男は瞬時に思考を動かし、剣を振るう。男の剣は弧を描きアレスの首元へと吸い込まれるように振るわれた。
だが、こんな攻撃で倒せるわけがない。そう気づいていながらも無意味に剣を振るう男の行動はアレスには分からなかった。
なんのために戦う?何がそこまで人を突き動かす?
そしてその疑問の答えはもう分かっている。心だ。感情だ。感情こそが男を突き動かし、今この場で自分を抹消せんと戦っているのだとアレスは気づいていた。だが、その感情が理解できない。
常に移ろう不確かなもの、人の行動に大きく影響を与える誰もが持つもの、それが感情
アレスはそれを失った。あの死戦場で
だからだろうか、アレスは剣を振るって反撃せずに一歩下がり胸を浅く切られた。胸元から血がにじむが血濡れの制服に新たな紋様を刻むことはない。
「く、浅いか」
男が苦々しく表情を歪める。
アレスはその表情に注目した。少しでも感情を読み取り感情がどういったものか思い出そうとする。しかし、それは気づいていた奇襲によって邪魔されてしまう。
「コロス、コロス!」
いつの間にかアレスの横を陣取っていた魔人の一人が殺意を叫び器用な回し蹴りを頭へと叩きこんだ。
「っぁ」
痛みに感情の無いアレスから遂に声が漏れる。
頭に衝撃が走るのと同時にぐらりと視界が揺れ体制が僅かに崩れる。
「畳み掛けろ!!」
今度こそチャンスだと感じた男が最後の一体となった魔人へと指示を出す。
魔人は今にも膝がつきそうな程に崩れるアレスへととどめの一撃を加えようと動いた。
倒れかける少年を支えるように腕を前へ突きだしその歪んだ爪を心臓へ向ける。このままアレスが倒れれば向けられている鈎爪の餌食となるだろう。
「……」
すでに半ば倒れかけていたというのにアレスは強く片足を踏み出すだけで留まり、そのまま魔人と視線を交わさずに横へ剣を振るった。
アレスの振るった斬撃は魔人に切られたことすら悟らせずにその命を絶たせた。血は溢れることなく灰となって消えていく。
あれだけいた魔人は全て灰となって消えた。仲間を全て消され一人取り残された男はただ茫然とゆっくりと体を起こす少年を見ていた。
「ごほっ、が」
不意にアレスは咳と共に血を吐きだした。
自分が傷つくことを顧みない戦い方のつけが回ってきたのだ。
これは紛れもないチャンス
男は仲間を殺された怒りに火をつけ、不気味な笑みを浮かべた。
「は、はは、どうやら神は私を見捨てなかったようだな」
あぁ、神よ、感謝しますと男は信仰する水の神ウンディーネへと祈りを捧げた。そして今までたまりにたまった怒りを一気に吐き出した。
「お前は無慈悲にも我らの同胞を殺した」
アレスは深い傷を負い男の言葉を聞いているしかない。
不敵に笑い強気に出る男は叫ぶ。
「私の名はランドルフ・グラキス!水の神ウンディーネの敬虔な信徒にして、選ばれし“使徒”、神の代行者として今この時を持ち、我らが同胞を大量に殺した大罪人、光の神ルーミュの使徒へ神罰を下す」
直後、ランドルフの周囲に大小様々な水の球体が浮かび上がった。
それと同時にランドルフが赤い粉を取り出しそれを体内へと取り込んだ。
うっ、と吐き出しそうになる不快感を堪え、周囲に浮いた水を吸収しながらランドルフの体が変質していく。
体全体の筋肉が隆起しブチブチと音をたて服が破け散る。頭からは灰色の剛毛が伸び、骨格から変わっていく。強面の顔は見る影もなくすでに逝ってしまった魔人たちと同様に獣、しかし、その鋭い瞳は海のような深い青になり、体は他の魔人たちよりも一回り大きく完全な化け物と化していた。
「ワォォォン!!!!」
化け物と化したランドルフの遠吠えが空気を揺らし音波の衝撃がアレスを襲う。何の抵抗もできないアレスは音波に呑まれ大きく揺さぶられ倒れた。
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