少年の傷
殺意に瞳を濁らし口元を不気味に緩ませる表情は殺人者そのもの。その姿を見てアレスの脳に一瞬、死が過った。
アレスの視界には全ての者がゆっくり動き、鮮明に映っていた。視界以外でも変化を感じる。見えなくてもフリートが自分を助けようと駆けだしたのが分かった。
そんないつもよりも数倍鋭くなった感覚が知らせる警鐘に自然と手が腰に携えている漆黒の長刀に伸びた。
殺される前に殺せ
本能が告げる言葉に体が無意識に従った。
―――極致一刀・閃
一瞬、ほんの一瞬だけアレスの前方に漆黒の弧が描かれた。直後、カチッという刀の鍔が鞘にあたる音が静かに響くと、殺意を滾らせていた帝国兵が不自然に地面に落ちた。その僅かな衝撃で帝国兵の上半身と下半身が分かれた。
セイの足元に血溜まりが広がっていく。
誰もが何が起きたのか理解できず呆然とする中、アレスだけは何をしたのか理解し手を震わしていた。
アレスはあの一瞬で刀を抜き一閃、帝国兵を鮮やかに切るとそのまま刀を鞘へと戻したのだ。刀に血は一切ついていない。神速とはまさしくこのこと、誰の目にも止まらず、衝撃を加えなければ分からないほど綺麗な切り口、本来なら称賛されるべき神技なのだが、辺りはしんと静まり返っていた。フリートですら黙り込んでいる。
「ぁぁ……」
アレスは自分の震える手に視線を落とした。
血で濡れていない綺麗な手、だが、その視線の先には赤黒い液体が溜まっている。
脳がそれを理解していても本能がそれを全力で拒否する。しかし、事実は変わらない。アレスはあの瞬間、正当防衛とはいえ確かに自らの手で人を殺した。
何のために帝国兵を捕虜にした?
何のために不殺の意志を貫いていた?
人を殺してしまった今、その答えが導き出せない。頭の中が真っ白になる。
アレスはどうにか状況を理解しようと記憶を遡るが、それはあまりにも悪手だった。
「うっ」
腹の底から湧き上がる何かにアレスは思わず口を抑えた。
思い出していたのは帝国兵を切った瞬間の記憶、刀は豆腐を切るようにすんなりと帝国兵の腰に入りその命を絶った。生きた肉を断つ気持ち悪い感触が刀から伝わっていた。
血の匂いがさらに先ほどの記憶を強く呼び起こし、アレスは嗚咽交じりにその場で吐いた。
優しき少年の心に亀裂が入った。
「アレス!」
整理が追いついたフリートはアレスの下へ駆けつけた。もう何も吐きだせないというのに嗚咽し続けるアレスに急いで肩を貸す。
「大丈夫か!」
「きもち、う……わるい」
たったその一言
それだけでフリートはアレスの心が深刻なダメージを負ったことを理解した。このままここに居続けてもアレスには何の得もない。唯々人を殺したことに自責の念を募らせるのみだ。
「お前ら動くなよ」
捕虜となることを選択した帝国兵を一睨みするとアレスを支えて立ち上がった。そのままアレスを避難させる。途中で会った王国兵に指示を出しフリートはアレスをテントへと運んだ。
テントの中には、様々な薬品が並べられたテーブルが置かれ、地面に敷かれた布がいくつも広がっていた。他にも白衣を着た医師が三名いる。ここは軍医のいる野戦病院だ。今はほとんど戦闘が行われていないため医師以外は誰もいない。
「頼む。アレスを少し休ませてくれ」
慌ただしく入ってきたフリートを見て医師たちは驚いたが、すぐに青年の肩に支えられているアレスの姿を見て患者が来たと理解した。
フリートはアレスを医師に預けると、やむを得ず捕虜の確認へと戻った。
それから捕虜の確認を終え、壊されたテントの修復も終わった頃にはもう夕暮れ時だった。フリートは急いで野戦病院に戻った。
「アレスは大丈夫か!」
大声を出して入ってきたフリートに向かって医師たちは一斉に人差し指を鼻にあて静かにするよう注意した。
医師たちが取り囲むようにして容態を観察していたのは簡易的に敷かれた布の上で眠るアレスだった。
「アレス君は無事です。あなたが出て行ってしばらくしたらこの通り寝てしまいました」
「そう、か」
フリートは安堵に胸をなでおろした。
だが、すぐに気を引き締めなおす。
「それで容態は」
「アレス君の容態は、今は正常です。ただ、ここに来た時は随分精神をやられていたようですので、起きた後どうなるかは分かりません」
深刻そうに告げる医師の言葉にフリートはやるせない気持ちを募らせるばかりだった。
フリートでさえ、アレスがここまで殺しに対し過剰に反応するとは思っていなかった。優しい故に人を殺したがらないのだと、だが、その考えは甘かった。実際に人を殺したアレスは正当防衛だというのに気に病み、精神をぼろぼろにさせるまでだった。そう、セイはフリートの予想を超える優しさ、いや、甘さを持っていたのだ。
段階的にその甘さを取り除いていこうとフリートは考えていたのだが、今回の緊急事態がアレスを予期せぬ方向へと導いてしまった。
翌日、アレスは目を覚ましたが会話は一切無し、一度王都へと戻ったが、傷ついた心はそう簡単に癒えるわけがなく部屋に塞ぎ込んでいた。
トントンと暗い部屋に扉をノックする音が響いた。
「アレス君、ご飯持ってきたんだけど、食べられそう?」
カレンが心配そうに尋ねるが部屋からは返事はない。
アレスが帰ってきてからこれで一週間だ。その間、アレスは一度も部屋から出てこない。それでもきちんとご飯と水分は取っているようだった。
やはり今日もだめかと、いつも通り部屋の前にご飯を置いて立ち去ろうとした時、不意にカチャリと久しく聞いていなかった音がカレンの耳に入った。
「やっと出てきてくれたんだ。心配し…た……」
扉がゆっくりと開かれ、その先に立っていたアレスを見てカレンは言葉を失った。
食事はとっているはずなのに頬はやつれ、眠れていないのか目元にくっきりと隈ができている。力強く優しさに満ちていた漆黒の瞳には一切の光が無く、今は何の感情も感じられないぼんやりとした瞳に変わり果てていた。
失意に暮れる少年が静かに口を開く。
「ご心配おかけしました」
いつものような、はきはきした口調ではなく、一切の感情を感じさせない酷く平坦な声
「僕はもう大丈夫です」
少年は笑みを浮かべる。しかし、その笑みはどこか影があり違和感を禁じ得なかった。
そんな笑顔を見てカレンは胸を締め付けられる思いだった。こんな表情、まだ幼い少年がするべき表情ではない。
「…本当に?……無理してない?」
「ほら、この通り」
アレスはカレンを心配させまいとその場で刀を振るうふりをして元気なことをアピールする。
違う。そうじゃない。そんな簡単な言葉をカレンは口に出来なかった。アレスの動きは確かにいつもと変わらないが、その表情はすでに死んでいた。振るう動作をするだけで当時のことを思い出すのか、嫌悪に表情を歪め数秒で動作を止めた。
「だから心配しないでください。さぁ、この話は終わりにしましょう。確かお昼ご飯でしたよね。お腹空いたな。あ、何か手伝えることがあるなら手伝いますよ」
それはいつもの何気ない会話。だが、その言葉の端々から伝わる感情は極微弱。アレスは変わってしまった。その事を無理やり理解させられる。
アレスの心は大きな傷を負った。まだ、かろうじて感情は残っているが、このまままた戦場に戻ってしまったらいずれ本当に心を壊してしまうのではと、カレンの心に止めどない不安が溢れてきた。
「アレス君」
「何ですか?」
「……ううん、何でもないよ。それよりご飯だけどもうできてるよ。ほら、今だってここに運んできたんだし」
「あれ?本当だ」
少し抜けている所はいつもと変わらない。カレンはくすっと笑う。
この時のことを後にカレンは深く後悔することになった。もし、この時アレスにもう戦場に行かないでくれと伝えていれば、あんなことにはならなかった……
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