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宝石  作者:
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前編

俺は、ひとりだ。俺を必要としてくれる人など、きっとどこにも居はしない。


***


「また、このスープ……」


虫が沈むポタージュ。引き裂かれた服。ここに来てから、そればっかりだ。


「奥様がお呼びですので、昼食がお済みになったらいらっしゃってください」


無機質な侍女の声の後、ドアの向こうでせせら笑う女達の声が聞こえた。


この屋敷の使用人は、ライアンのことが嫌いなのだろう。当たり前なのかもしれない、と思う。屋敷の女主人である侯爵夫人は穏やかな女性で、みんなから慕われている。彼女を苦しめる庶子を、夫の不実の結晶を憎むのは。


……ライアンも、彼女のことが好きだ。無条件の愛を与えてくれた人は夫人が初めてだった。物心ついた時には母以外に親族はいなかったし、母は滅多に家に帰らなかった。


娼婦の母は偶に家に帰ると、ライアンを殴って彼が貯めたなけなしの金をむしり取った。そしてお決まりの台詞を吐くのだ。


(あんたさえいなけりゃ、あたしは今頃……)


産んだのはあんたで、そんなに産みたくなかったんなら避妊でもしとけよ、と心の中で思う程度にはライアンはひねくれていた。……でも心のどこかで、母の愛を欲しがっていた。だから母が父の要求にすぐさま頷いて、自分を引き渡したということにひどく悲しくなったのだ。けれどその悲しみを表面に出すのは意固地な性格が許さなくて、醒めた目で侯爵夫妻を眺めた。父であるはずの侯爵は関心が薄そうな瞳でこちらを見ていたが、血が繋がらない侯爵夫人はにっこりと笑いかけてきた。


(よろしくね、ライアン)


最初は偽善かと思った。けれど侯爵夫人は心底優しい女性なのだ。


(ライアン、お散歩に行かない? 薔薇が綺麗に咲いてるわ)


(あら、もうこの本を読めるようになったの? ライアンは賢いのね)


あんなふうに笑いかけてくれたのも、あんなふうに頭を撫でてくれたのも、あんなふうに抱きしめてくれたのも、夫人だけだ。


だから、使用人に嫌がらせをされているなんて言えなかった。優しい夫人を、本当は母と呼びたいのに呼べないあの人を、悲しませたくなかったから……


「そろそろ行くか」


ライアンは部屋を出て、夫人の部屋に向かった。


「ライアン、ここ最近痩せてしまったようね。何かあったの?」


夫人の心配そうな問いに、ライアンは苦笑して首を横に振る。……彼女に心配をかけているのも心苦しかったが、悲しませるわけにもいかない。


夫人が母だったなら、どんなにか幸せだっただろう。良妻賢母を絵に描いたような女性のもとに生まれられたなら。夫人を母として素直に慕えることができたなら。


けれどライアンの母は父の愛人の娼婦、ライアンを一も二もなく父に引き渡した女。


夫人は本当にできた女性だと思う。……けれど夫が外で女を作ったことに、苦しんでいないはずはない。


慈愛に満ちた夫人を苦しめている自分がそんな彼女を母と呼ぶ資格などないのだ。


「ライアン、マナーの先生から聞いたわ。一通りはこなせるようになったと」


夫人によると、今度王城でお茶会が開かれるらしい。ライアンのお披露目の意味もあるのだろう。鬱屈とした気持ちになりながらも、夫人の厚意を無下にするわけにはいかないと、笑顔を浮かべた。


***


「あら、なんてこと。呪われた黒の髪。魔性の色ではありませんか」


「それにご覧なさいな、あの瞳。両目で色が違うなんて気持ち悪いこと-あのような者を引き取らなければならないなんて、侯爵夫人もお可哀想に」


夫人が少しそばを離れた隙に、他家のご婦人方がライアンを嘲笑した。


「歴史ある侯爵家の後継にあのような者を迎えるなど嘆かわしいことね」


「ふふふ、大丈夫ですわよ夫人。あのような者がいる家から王后が出るはずはありませんわ」


「あらまあ、あの者が娘をなして成長するのはずっと後のことでしょう。……第四王子殿下はまだご結婚なさっていないわ。もう二十三になられるというのに」


「婚約者もいらっしゃいませんわ」


「恋人なら沢山いらっしゃいますわよ?」


「結婚する気は皆無じゃありませんか。身分が低い侍女に人妻が殆どなのですから」


「それは私たちにも機会があるかもしれませんわね」


「オホホ、まあ殿下とならば火遊びも良いわね」


「ねえ、本題に戻らないこと?」


一人の婦人がライアンを睨めつけると、他の婦人方もそれに倣った。


「あの者の娘が適齢期になるのが遠い未来の話でも、あの者が結婚するのはそう遠い話ではないはずですわ。婚約となれば、もっと早くてよ。オルテンシア様の例がありますもの」


「確か先王陛下の命で、生まれた時からシュヴァリエ公子と婚約なさっておいででしたわね」


「第二王女のメラニー殿下は御歳七歳。第三王女のミレイユ殿下は御歳四歳ですわね。お二人共 あの者と同じ年頃でいらっしゃいますわ。メラニー殿下は公爵家の、ミレイユ殿下は侯爵家の血筋を引く御方。それに取り入ろうとするなど、なんて浅ましいこと。卑しさがわかるというものですわ」


「オホホ、それには同調致しますけれど、ミレイユ殿下に関しては心配いらないのではなくて? 宰相の嫡男にご執心だと聞きましてよ」


「あの、成り上がりですわね。それも不愉快ですこと。宰相は元々伯爵でしたのに、先王陛下の側近であったというだけでどうして公爵に取り立てられたのかしら」


「ほらあ、先王陛下と宰相はただならぬ仲だったと聞きますし……」


それ以上は聞くに及ばず、ライアンはそっと会場を抜け出した。


そんなことをすれば優しい夫人が悲しむだろうことを知っていても。


***


「あなた、そこで何してるの?」


王城の隅の小屋のそばで(うずくま)っていると、金色の瞳の少女に声をかけられた。


「……」


黙り込んだライアンに構わず、少女は話し続けた。


「もしかしてお茶会に来てる子?」


「……はい」


「ふうん。それでどうして帽子を被ってるの?」


「……髪を見せたくないからです」


お茶会ではさすがに脱がざるを得なかったが、できるだけこの忌まわしい髪色を人目に晒したくなかった。


(呪われた黒の髪)


(魔性の色)


そんなこと、誰に言われずともわかっている。母が愛情をくれなかったのは、何も子どもが邪魔だったからだけではない。突然変異で黒髪に生まれた赤子が厭わしかったからだ。


「いいじゃない、減るもんじゃないし」


「えっ、ちょっ!」


少女は帽子を無理やり取ると、髪をしげしげと眺めた。


馬鹿みたいに明るいこの少女も、ライアンの髪を見れば、きっと。


「なんで隠すのよ? サラサラな髪じゃない」


酷い天パかそれか若ハゲなのかと思っちゃったわ、と笑った後、少女は今度はライアンの(オッドアイ)をしげしげと見つめてきた。


「あら、帽子を目深に被ってたから分からなかったけど、あなた綺麗な瞳してるのね」


「……はあ?」


このオッドアイを指して綺麗、だと。


「……思ってもないことを言わないでください。オッドアイが綺麗なわけないでしょう」


「……知らないの? オッドアイってすごくラッキーなのよ」


ラッキー? この瞳は不運は沢山運んできたけれど、幸せなど一つも運んではくれなかったのに。


「オッドアイになれるのはね、一億人に一人なの。つまりあなたは、一億人もいる赤ちゃんの中から神様が選んでくれてオッドアイをもらったってことでしょう?」


「そんなこと、貴女が普通の人だからでしょう。俺みたいに、特殊なやつを持ってしまえば……え、ちょっ! 何するんですか!」


冷たい言葉で突き放そうとすると、少女はライアンの腕をむんずと掴んでスタスタと小屋の中に入っていった。


「ねえ、これでも私が普通(・・)に見える?」


暗い小屋の中。少女が()けたランプに照らされたのは、エメラルドの瞳。


「……さっきは、金色だったのに……」


「私、光の当たり方によって瞳の色が変わるの。お母様はこの瞳がお嫌いだけど、私は気に入ってるわ。だってお得じゃない? 一人で二つも色を持ってるなんて」


「……お得?」


「そうよ、ケーキが一個しかないより、二個ある方が嬉しいでしょ?」


少女の論理でいくと、室内に入ったり外に出たりしても目の色が二つのライアンはさらにお得らしい。なんだその論理は。可笑しくってくしゃりと笑うと、少女は口をすぼめた。


「なんで笑うのよ」


少女の抗議には応えずに、可笑しそうにライアンは笑い続けた。こんなに笑ったのは、いつぶりだろうか。いや、初めてなのかもしれない。少女は不服そうな顔をしていたけれど、むかつくけど、しかめっ面より笑顔の方が似合うから許してあげるわ、と呟いた。


「……随分時間が経っちゃったわね。あなた、お母様が心配してるんじゃない?」


「それを言うなら君の方だろう。女の子なんだし……」


「あはっ、それはないわ」


少女の笑顔は今までと変わらず明るいものだったけど、瞳にはほんの少しの翳りが混じっていた。


「お母様は私を疎んじていらっしゃるもの」


「……」


そんな親いるもんか、なんて言えない。実際、ライアンの母はそういう女だった。息子のライアンを最後まで疎んじていた……


「お茶会に来てたんでしょ? 早く戻りなさいな」


「……君は?」


「私はお母様にお茶会には来るなって言われてるの」


じゃあなんで君のお母様は君をお茶会に連れてきたんだ。そう尋ねて少女が悲しい顔をするのを見たくなくて、ライアンは何も言えずに少女と別れた。


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