事故物件ガール4
爽やかな風が肩甲骨あたりまでの髪をなびかせ、ベランダに干された洗濯物の間を縫い、太陽にきらめく川の向こうへ抜けていく。
ここはベランダだ。
私の部屋のベランダ。大好きな場所。
『……さーん』
柵に頬杖付いて川を挟んだ対岸の景色を眺めていたら、足元から間延びした声が響く。
釣られて視線をおとせば、学校の夏服だろう開襟シャツを着た少年が、懐っこい笑顔でこっちに手を振っている。
コンビニに来た男の子。
青空には入道雲が聳え、一軒家の庭先の若葉は青々と茂っている。季節は夏。
『サッカー部の帰り』
『もうすぐ大会だから』
『レギュラーに選抜されたんだっけ。頑張ってね、応援してる』
男の子が照れ臭そうに歯を見せる。私は柵に凭れ、微笑ましく満ち足りた気持ちで緩やかに手を振り返す。
元気に去っていく男の背中を見送り、部屋に引き返した私はその場で立ち尽くす。
部屋の中に誰かがいる。
黒い影だ。
『え……?』
動転する。黒い影が手を伸ばす。捕まったらまずいと直感、逃げようとして蹴っ躓く。フローリングに倒れた私に黒い影がのしかかり、くぐもった声で訴える。
『コロサレタノ』
誰あなた。
『事故ジャナイノ。コロサレタノ。犯人ハ……』
ずり、と肩に手がかかる。誰かが這い上ってくる。重たい。苦しい。誰か助けて……
目が覚めると寝汗をびっしょりかいていた。
「はあ、はあ、はあ……」
悪夢だ。
枕元にはスマホが落ちていた。どうやら寝オチしたらしい。変な夢を見たのは昨日の出来事のせいに決まってる。
「~~~~なんだよもー」
あんな事言われたら気になるに決まってる。
夢の中で感じた違和感。あの夢の私は別人になりかわっていた。おそらく前の住人だ。川べりの道を下校中の男の子は例のイケメンで、「私」と顔見知りだった。
二人はベランダ越しに気さくに手をふりあって、「私」は「彼」を応援して……
「髪、長かったんだ」
それだけ呟き、寝癖だらけのショートヘアを無造作にひっかき回す。
あの子も髪長い方が好きなのかな。いや、そんな事はどうでもいい。
思い出せ、他に気になる点は。
目をキツく閉じて記憶を反芻、青空に入道雲、若葉のセットから季節は夏だと断定する。少年の見た目は現在とほぼ変わってない。
あの年頃の子は成長期で、一年ですごく背が伸び体格も変わるのを考慮すると、おそらく今年の夏。私が引っ越すほんの一か月か二か月前だ。
付き合ってたのかな。
だから彼女の部屋の、彼女から見えるベランダに花束を手向けた?
脳裏で立てた推測に説得力を感じるが、決め手に欠ける。
布団にのろくさ上体を起こし、歯磨きも洗顔も省いてスマホにかける。
「もしもし、巻波です。お世話になってます」
『こちらこそ、お世話になっております。あの……何かございましたが』
「ああいえ、ちょっと聞きたいことがあって。できる範囲で教えてくれませんか」
かけた先は不動産屋、この部屋の洗浄を依頼した担当者だ。
生唾を嚥下、声の調子を整えて聞く。
「前の人って確か事故死ですよね。ベランダで転んで頭を打ったとか」
『そうですが』
なにをいまさら、と困惑めいた感情が伝わってくる。
「ひょっとして……セミロングの若い女性でした?」
『何故その事を』
予感が的中だ。
夢の中で私は前の住人になり代わり、彼女と視点を共有したのだ。
「事故の状況詳しく教えてもらえませんか」
彼女は『コロサレタ』と言った。自分は事故死じゃない、犯人がいると衝撃の告発したのだ。いくらもう死んでるったって見過ごせない。
『当社には守秘義務がありますので、前の人のプライバシーに関わる事はちょっと……』
語気を強めて食い下がる私に対し、担当者は消極的に渋る。
過去の瑕疵を蒸し返され、明らかに気乗りしない様子だ。
「今住んでる私には知る義務があると思うんですけど」
『やっぱり何かあったんですか?』
「あー……ええまあ、はい。昨日ですか、白っぽい影が部屋にいるのを目撃して、ちょっと変な夢見ちゃったもんで。改めて事実確認だけしときたくて。責めてるんとかじゃないんです全然、こっちも納得済みで越してきたんだし部屋自体は問題ないし。だからこそひっかかるっていうか……」
認めちゃった方が話が早い。相手には事故物件を勧めた弱みがある。これも駆け引き、今私に出て行かれたら困るはず。
押し切られた担当者が訥々と話しだす。
『巻波さんの前に住んでらした方は大学生の女性です。今年の8月4日午後3時頃、部屋のベランダで倒れているのが洗濯物を取り込みにきた上階の住人に発見されました。死因は脳挫傷です。ベランダで転倒して、頭を打ってそのまま……でしょうね。ほぼ即死に近かったかと』
「そうなんですか」
前の住人は事故死だと聞いてはいたけど、詳しい情報を知るのは初めてだ。否、あえて聞かないようにしていた。変に思い入れしちゃうと辛くなる。
「あの……変なこと聞きますけど、他殺の疑いはなかったんでしょうか」
『はあ?』
「あ、いえ!若くて健康な女の子が、ベランダで頭ゴツンしただけでぽっくり逝っちゃうなんて珍しいな~って思っただけで」
『推理小説の読みすぎですよ。鑑識の報告も聞きましたが、死因は転倒時の脳挫傷で間違いありません。ベランダの室外機の横、わかりますか?あそこに倒れてたんです。なんでも足を滑らせたみたいで……そんな危ないへこみないんですけど』
「そうですか……ありがとうございます」
お礼を言って通話を切り、サンダルを突っかけてベランダに出る。血の痕跡すらない室外機の横の地面をまじまじ見、小さく呟く。
「あなたは何を伝えたいの?」