09:思い出のイヤリング
あれはシャロンが十歳になったばかりの、まだシャロン・アスタルだった頃。
アルドリッジ家に嫁がされる前で、まだ自分がそんな人生を歩むなど露程も考えていなかった。恋や結婚というものに憧れは抱いていたが、『いつか自分も』と未来の事としてしか憧れていなかった頃だ。
シャロンの記憶の中で、ほんの僅かな期間の『少女時代』と言えるだろう。
この数か月後にはデリック・アルドリッジに嫁がされ『アルドリッジ家夫人』と『レイラとフィルの母』の肩書を背負わされるのだから、本当に短い少女時代だ。
そんな短い少女時代の終わり、シャロンは家族に連れられてとあるパーティーに出席した。
今ではもうどの家のパーティーだったかも思い出せないが、幼いシャロンにとって初めての他家のパーティー。すべてが眩く輝かしく見えたのは覚えている。
そのパーティーの最中、シャロンは親達の堅苦しい挨拶に飽き、誘われるまま屋敷の外へと出ていった。
見るもの全てが新しく、興奮を隠し切れず歩き回る。
だが足早に歩いたことが災いして、シャロンの左耳に飾られていた薔薇のイヤリングがスルリと耳朶から抜け落ちた。
「あっ……!!」
というシャロンの声と、
カチャン! という高い音が被さる。
咄嗟に手を伸ばしたが間に合わず、作ったばかりの薔薇のイヤリングは床に落ち、薔薇の花弁を一枚欠けさせてしまった。
初めてのパーティーが嬉しく、記念にと作ったイヤリング。
長く使えるようにと少し大人びたデザインにし、それに合わせて大人でも使える金具にしたのが仇となった。まだ幼いシャロンの小さく薄い耳朶には大きすぎたのだ。
「……どうしよう、割れちゃった。せっかく作ってもらったのに」
しゃがみこみ、割れたイヤリングを拾って手に乗せる。
薔薇の美しさも中央に飾られた宝石も、連なる金の細工もいまだ美しい。……だが花びらが一枚欠けてしまっており、美しいだけにそれが物悲しさを感じさせる。
かといって、直しようがないほどに粉々になったわけではない。
欠けたのは花弁だけだ。破片も拾えた。くっ付けるのは至難の業というわけではない。
イヤリングを作った職人に渡せばすぐに直してくれるだろうし、職人でなくとも、家に仕えている器用なメイドあたりに頼めば直せるはずだ。
だというのに、今のシャロンはどうしようもなく泣きそうな気持になっていた。
まるで綺麗な薔薇を手折ってしまったような罪悪感。そして両手の中で横たわる薔薇が、なぜか無性に哀れに思える。
「……ごめんね」
ポツリと呟き、じんわりと潤んでいく目元を拭う。
だが次の瞬間、背後から「誰かいるの?」と声が聞こえ、慌てて振り返った。
そこに居たのは一人の少年。
青天のなか輝く太陽のように眩い金の髪、翡翠色の瞳は宝石よりも美しく見える。整った顔付きと合わせて、芸術品のような少年だ。
年はシャロンと同じか、一つか二つ年上だろうか。彼はシャロンを見つけると不思議そうに首を傾げ、次いで涙ぐんでいることに気付くと翡翠色の目を丸くさせた。
「ど、どうしたの?」
「……これ、壊れちゃったの。イヤリング。せっかく今日のために作ったのに」
駆け寄ってくる少年に、シャロンは立ち上がると手にしていたイヤリングを見せた。
これぐらいの事でと笑われてしまうだろうか。と不安がよぎる。
そもそもシャロン自身、ここまで自分が打ちひしがれている理由が分からないのだ。
ただなぜか、初めてのパーティーを楽しみにしていた気持ちまで欠け落ちてしまったように思えて、胸を痛めてならない。
溜息交じりにシャロンが胸の内を話せば、少年は不思議そうに首を傾げつつ、「それなら」と薔薇のイヤリングを手に取った。後生大事に己の手の平に乗せ、胸ポケットから出したハンカチーフで包む。
「僕が直してあげるよ」
「貴方が?」
「それで、次に会った時に君に返してあげる」
晴れやかに笑って少年が告げる。なんて眩いのだろうか。
それを見て、シャロンは数度瞬きを繰り返し……そして彼につられるように笑い、頷いて返した。
その後すぐにシャロンは親に呼ばれ、少年に感謝を告げると彼のもとを去った。名乗り忘れたと気付くのが帰宅の馬車の中なのだから、よほど浮かれていたのだろう。
そしてそんな華やかな出来事から数ヵ月後、シャロンはデリック・アルドリッジに嫁がされ、以降パーティーという華やかな場所から遠ざかって今に至る。
再会はおろか、彼の名前を知ることもなく。
◆◆◆
もう十五年前の事だ。
少年とのやりとり以外は碌に思い出せない、遠い、遠すぎる記憶。
それを思い出し、シャロンは深く息を吐いた。
次いではたと我に返り、感傷にふけってしまった己を心の中で叱咤する。
しまった、今はハミルトンを相手にしていたのだ。
思わず己の頬を両手で叩きたい気分に駆られるが、さすがにそれは我慢した。
「ごめんなさいね、ちょっと……考え事をしていたわ」
誤魔化すように乾いた笑みを浮かべ、ハミルトンへと向き直る。
だが幸い、彼の表情には放っておかれた不満も無ければ、さりとて無理に聞き出そうとする色も無い。むしろ過去に想いを馳せるシャロンの横顔を堪能しているような気配さえある。
良かった、とシャロンは心の中で安堵した。
どうやらハミルトンは、自分が放っておかれた時間さえも焦らされていると感じてくれたようだ。視線はより熱く、満更でも無さそうな表情である。
何事も己の良い様に捉える傾向にあるのかもしれない。
そもそも、それだけ前向きでなければ女遊びなどしないか。
そう考えつつ、シャロンはゆっくりと深く溜息を吐いた。
どうせならこの展開を利用するのも悪くない。愁いを帯びた表情を見せ、「だめね」と自虐的にかつ切なげに笑って見せる。
「いつまで経っても昔の事を思い出してしまうの。年だけ取って、大人になれないわ。ずっと未熟なまま」
「未熟? そんなことはありません」
「いえ、私なんて中身はまだ子供同然よ。まだ自分も子供なのに子育てを始めて、それが終わるや夫の喪に服して、女として成長する機会を得られなかった。いやね、年だけとって何も知らないの」
切なげな表情のまま自分の未熟さを笑う。
恋も愛も知らない。女として成長できなかった……と。
なにせデリック・アルドリッジがシャロンに愛を抱いていなかったのは、社交界にいる誰しもが知っている。彼は気に入った女をいつも連れ歩いていたが、シャロンを連れたことは一度としてなかったのだ。
双子を押し付けた引け目か、もしくは女好きで有名な男とはいえさすがに30歳も年が離れれば食指も動かないのか。
最期までデリックはシャロンを見ることはなかった。
もちろん、触れたことも無い。
それどころか手を繋いだことすらなかった。
つまり、シャロンは処女だ。初恋すらまだである。
未亡人にして処女、子育てを終えてもまだ恋を知らぬ身。
それを言葉の裏に隠して伝えれば、ハミルトンが「そうですか」と答えた。声が僅かに上擦っており、瞳にギラギラと期待の炎が灯っている。
気まぐれに狙った獲物が特上だった……と、そんなところだろうか。分かりやすい男だ。
「シャロン様も苦労をされたのですね」
「苦労だなんてそんな。レイラとフィルがいつも私の支えになってくれたから」
「貴女は魅力的でとても強い方だ。女性としても母としても、尊敬に値する。……ですが」
ハミルトンが言葉を止め、テーブルの下でシャロンの手に触れてきた。指で手の甲を擦り、ゆっくりと、包むように握ってくる。
まだ年若い青年と考えていたが、彼の手は案外に大きい。
「貴女は強い方だ。ですが時には、弱い部分を見せ、誰かに寄りかかってもいいのではありませんか?」
「誰かに……」
誰か、とは誰なのか。
答えを求めるように、シャロンはハミルトンを見つめた。




