08:火遊びは程々に(2)
薔薇のアーチをくぐり、シャロンが去っていく。
彼女の背中とふわりと揺れる赤い髪が見えなくなると、残されたエドワードは小さく溜息を吐いた。
肩を竦めつつテーブルセットへと近付く。飲み終わったティーセットと、薔薇が一輪。そしてハミルトンからの手紙が、まるで置いていかれた自分のように残されている。
「……花が咲いているなら、虫が寄るのも仕方ない。ですか」
溜息を吐き、先程シャロンに渡した薔薇を手に取った。
彼女が使っていたティーセットに合わせた薔薇だ。そして同時に、シャロンの髪色のように真っ赤な薔薇でもある。
惹かれるようにそっと口づけをすれば、唇が触れた瞬間ふわりと花弁が揺れ、薔薇の香りが鼻をくすぐった。
それを愛おしいと見つめ、上着の胸ポケットにしまう。
次いでハミルトンからの手紙を手にし、冷ややかな眼差しで一瞥すると迷いなく破き始めた。
静かな庭の、更に生垣で音を遮った一角。そこに容赦なく紙を破く音が響く。
「ご自身がどれだけ魅力的な花なのか、まったく分かっていらっしゃらない」
困ったものだと言いたげに溜息を吐き、破いた手紙は無造作にズボンのポケットに押し込む。
最後に一度深く息を吐くと、愁いを帯びていた表情を一瞬にして愛想の良い笑顔に変え「さぁ、仕事に戻りましょう」と誰にともなく呟いてティーセットを片し始めた。
◆◆◆
ハミルトンにエスコートされた夕食は、シャロンの思い描く通り優雅でまさに『素敵な一時』だった。
夜景を眺められる高台のレストラン。それもテラス席を押さえており、ハミルトンの顔を見るやオーナーが店の奥から現れて案内してくれた。
食事も豪華なもので、先日の夜会でシャロンが美味しいと言った酒も特別に用意してある。なんとも気の利いたディナーではないか。
店内では生演奏が披露されており、その軽やかな音楽はテラス席に居ても聞こえてきた。
「素敵……」
夜風を受け、聞こえてくる生演奏に聞き入り、シャロンはほぅと吐息交じりに呟いた。
「お気に召して頂けたようで良かった。シャロン様をエスコートするなら落ち着いて話の出来る店をと思ったんです」
「ありがとう、落ち着いた良いお店だわ」
シャロンが微笑んで感謝を返せば、ハミルトンが満足そうに笑みを浮かべた。
店選びをはじめ、彼のエスコートは完璧の一言。話も巧みで、シャロンを楽しませようとしてくれる。
最初は窺うように浅い話題から始め、シャロンの興味が薄いと分かるや自然な流れで話題を変えていく。逆にシャロンが興味を示せば掘り下げて話すのだ。
その間にもさり気なく口説いてくるのだから、女性の扱いに随分と慣れている。遊び好きは相当のようだ。
素敵なシチュエーションに、甘い口説き文句。なるほど、世の女性はこんな一時を頬を染めながら楽しむのか。
シャロンもそれに倣い、時折は感嘆の吐息を漏らし、生演奏に聞き入り、夜景を見ては目を輝かせる。
ハミルトンの話には品よくそれでもクスクスと笑い、仕草一つ一つで楽しいと現していた。
子育てに明け暮れていた夫人が初めて足を踏み入れた、輝かしくロマンティックな空間。
まるで世界が一転したかのようではないか。
さながら、王子様に見初められた町娘のように……。
……というのが、今夜のシャロンのテーマである。
我ながら素晴らしい演技力だと、うっとりと夜景に見惚れるふりをしながら心の中で自画自賛をする。
この演技を見破れるのは、15年を共に過ごした我が子達か、もしくは同じレベルの演技力を持つ逆玉庭師ぐらいだ。
「こんなに素敵な場所があるなんて知らなかったわ」
「それは勿体ない。他にも華やかな場所を知っているので、ぜひご案内させてください」
「嬉しい。……でも、貴方を独り占めして良いのかしら」
顔は夜景に向けつつ、チラと横目でハミルトンに視線を向ける。
暗に『婚約者がいるだろう』と告げているのだ。もちろん具体的な名前は出さないが。
そんなシャロンの遠まわしな言葉と視線で意図を察したのか、ハミルトンが苦笑を浮かべて「ご存じでしたか」と頭を掻いた。その仕草と表情は、まるで悪巧みが見つかった子供のよう。
とうてい婚約者への裏切りを指摘された男の態度とは思えないが、ハミルトンにしてみればその程度なのだろう。
「彼女の事は気になさらないでください、所詮は親が決めた事です。それに、彼女はどうにも俺には子供すぎて……。俺はもっと、余裕と落ち着きのある大人の女性が良いんです」
「あら、大人の女をお望みなのね」
小さく笑ってグラスを手に取り、口をつけると共に横目でハミルトンを見る。
今夜はいつもより化粧を濃くしておいた。ハミルトンからしてみればまさに『大人の女』と映るだろう。
現に彼はゴクリと生唾を呑み、じっと熱意的な視線を送ってくる。まるで餌を前に『待て』を指示された犬のようではないか。
鼻で笑いたくなってしまう。アルドリッジ家に帰ったらいの一番にフィルに話して、「貴方はこんな無様な姿を晒しちゃだめよ」と忠告せねば。
だがそんなシャロンを見つめていたハミルトンが、ふと何かに気付いたようにそっと手を伸ばしてきた。
緩やかな動きに危害を加える様子は一切無く、シャロンも一瞬僅かに警戒したものの、そう無理はしてこないだろうと受け入れることにした。
彼の手がシャロンの頬へと伸び……肌には触れず、頬に掛かった髪をそっと指で掬う。そうして優しく掻き上げるように髪を揺らし、「これは」と小さく呟いた。
「先日のイヤリングと同じものですね。ですが、片方だけ着けているのですか?」
不思議そうにハミルトンが尋ねてくる。
どうやらシャロンの右耳にだけ薔薇のイヤリングが飾られていることに気付いたようだ。
今日も薔薇のイヤリングは美しく、中央に飾られた宝石が輝いている。夕暮れを過ぎ夜の暗さが一帯を覆い切ったこの時間ならば、薔薇も宝石も一際色濃く見えるだろう。
シャロンの真っ赤な髪の中で揺れる、同色の薔薇。
だがそれは右耳にだけしか咲かず、ハミルトンがチラとシャロンの左右の耳を確認した。
もしやどこかで落としたのかと尋ねてくる彼に、首を横に振って返す。
「このイヤリングは元から右耳にしか着けていないの。左耳のイヤリングは……無いから」
「無い? 失くしてしまったのなら新しく作り直せば良いのでは?」
「そうね、きっと直ぐに作り直せるわ。だけどそれじゃ意味がない。……思い出があるのよ」
「思い出?」
名残り惜しそうに髪から手を放しつつ、ハミルトンが尋ねてくる。
それに対して、シャロンはやんわりと笑み、赤い口紅を塗った唇に人差指を添えた。
「秘密」
と悪戯に笑って告げてやれば、ハミルトンが言葉を詰まらせるのが見てわかった。
彼の瞳が僅かにぎらつくのは、シャロンのこの行動に妖艶な魅力を感じ取ったからだろう。もしくは、秘密を暴く欲を誘われたか。
そんなハミルトンの熱意的な視線を受けつつ、シャロンは再び夜景へと視線を戻し、ゆっくりと深く息を吐いた。
ふわりと風が吹き、赤い髪を揺らす。
右耳に触れれば、カチャリと小さな音が聞こえた。