35:薔薇の籠で二人
「あの時のことを覚えていますか? 私は約束通りこの薔薇の籠を作りました」
真剣な声色で話すエドワードに、シャロンは彼の瞳をじっと見据えて「そうね」と返した。
周囲を見れば美しい生垣に囲われている。今夜も薔薇は美しく咲き誇り、風が吹きぬけると儚く花弁を揺らした。夜の暗がりの中、真っ赤な薔薇は色合いを濃くして妖艶な雰囲気さえ纏っている。
エドワードは約束を交わした日から庭師としての仕事に励み、一年も経たぬうちに一人前として認められた。生憎とシャロンは庭師業には詳しくなく彼の成長度合いは分からないが、長年仕えていた者達が言うには異例の速さだという。
そして周囲に認められると同時に、一角を自分で管理したいと願い出て、理想通りに作り上げたのだ。
薔薇の生垣で囲われたその場所は誰もが見惚れるもので、彼の手腕を皆が褒めた。そして他者が足を踏み込むのを良しとしない徹底した管理も、庭師としての拘りなのだろうと受け入れられていた。
「懐かしいわ……。貴方が自分のことを『僕』と言わず『私』と言うようになったのも、ちょうどここが出来た頃ね。燕尾服を着て給仕の仕事もこなして、みんな驚いていたわ」
「すべてはこの薔薇の籠を守るためです。……貴女のために」
エドワードがシャロンを見つめる。
薔薇の庭園に似合った麗しい庭師。整った顔付の中でもとりわけ美しい紫色の瞳。
誰も、彼が管理するこの薔薇の囲いが籠だとは知りもしないだろう。
哀れな少女が一人泣くためだけに作り上げたなど、想像もしないはずだ。
「ここには何度助けられたかしら。何かあったら駆け込んで、泣いて……。一人でいられる場所があるだけで心が楽になったわ」
「シャロン様のお役に立ちたい一心でしたから。……ですが私は」
言いかけ、エドワードが掴んでいた腕を引いてきた。
不意を突かれてバランスを崩したシャロンは簡単に彼に引き寄せられてしまう。トンと体がぶつかると同時に、シャロンの背にエドワードの腕が回された。
苦しいと思うほど、彼の腕が強くシャロンの体を抱きしめる。
静かな夜の庭園に、シャロンの「エドワード……?」という小さな声が小さく響いた。
「本当は、アルドリッジ家という籠から貴女を連れて逃げ出したかった」
強く抱きしめたまま、エドワードが胸の内を吐露した。
彼らしくない痛々しい声色だ。
どんな顔をしているのかしら……と、シャロンの胸に疑問が浮かんだ。そんな事を考えている場合ではないと分かっているのに。
「だけどあの時の私にはその術も分からず、その力もなかった。あの日から毎日、己の無力さを呪っています」
「エドワード、貴方……」
「私がシャロン様を連れだせるようになった時には、もう貴女はレイラ様とフィル様の母親になっていた。愛おしそうに我が子の名前を呼び母の愛を語る貴女を前に、私は怖気づいて、連れ出す覚悟が出来なかった。……どうか、臆病者と笑ってください」
次第にエドワードからの抱擁が強まっていく。
悲痛な声は、いまや懺悔をしているかのようだ。
葉擦れの音が続く中、「苦しい」と訴える彼の声が聞こえた気がする。
だがシャロンはそれに応えることもできず、さりとて彼を突き放すこともできずにいた。
どうしていいのか分からない。
彼の苦しさが、触れる箇所から伝わってくる。
「……エドワード、誰か来てしまうわ」
そっと彼の胸元に手を添える。手が震えているのは誤魔化せているだろうか。
必死に取り繕った声は、自分の声なのかと疑いたくなるほどに掠れて弱々しい。手も声も弱く、これで拒否の意思を感じ取れというのが無理な話だ。
背に回されたエドワードの手が微かに揺れ……そして放すどころかより強くシャロンの体を抱きしめてきた。
「そんな声で呼ばないでください。貴女を放せなくなる」
耳元で囁くように告げてくるエドワードの声に、シャロンの背がふるりと震えた。
夜の静けさからか、それとも抱きしめられている近さからか、彼の声が耳にこもりゆるやかに全身に流れていく。
人の声を熱いと感じたのは初めてだ。溶けそうなほどに熱い。
だが名残惜しそうに告げてきたものの、エドワードはゆっくりと抱擁する力を緩め始めた。時間をかけ、惜しむように、彼の腕がシャロンから放れていく。
そうして解放されると、シャロンは僅かに後ずさって距離をとった。
彼から逃げようと思ったわけではない。抱きしめられたものの、シャロンの胸には危機感も嫌悪も無いのだ。
ただ、このまま彼の近くに居たら熱で溶けてしまいそうだから。
彼の熱に溶かされて、真っ赤に咲き誇る薔薇の養分になる。
それも良いかもしれないが、フィルがアルドリッジ家の当主になり、レイラがカミーユと結婚するのを見届けてからだ。
今ではない、とシャロンが断言する。それを聞いたエドワードは紫色の目を僅かに丸くさせ……次いで穏やかに、そしてどこか切なそうに笑った。
普段の愛想の良い笑みとも時折見せる冷え切った笑みとも違う。不甲斐なさを胸に藻掻いていた少年の面影を感じさせる笑みだ。
「逃げ出さずに、薔薇の養分になるんですか」
「えぇそうよ。逃げたりなんかしない。私はシャロン・アルドリッジだもの」
ここで逃げだしたら15年はいったい何だったのか。
愛も情もない夫に背を向けられ続け、華やかな場から身を引いて双子の育児に明け暮れた。その果てに、夫はこの世を去り、双子は立派に育った。
ようやくシャロンが自由に過ごす番がきたのだ。
アルドリッジ家という後ろ盾は『夫人』と『母』の勤めをやりきったから得られたもの。それをみすみす手放したりなどしない。
そうシャロンがエドワードの目を見据えて告げれば、彼はゆっくりと目を細めて笑った。普段どおりの彼らしい笑みだ。だがほんの少しだけ取り繕いきれない愛情が滲んでいる。
「それでこそシャロン様ですね」
「エドワード、私……」
「シャロン様がアルドリッジ家を出ないというのなら、私も連れ出すことはいたしません」
まるで子供に対するような穏やかな声色でエドワードが諭してくる。
それに対してシャロンは小さく息を吐いた。
彼の誘いには応じられない。彼に連れ出されるわけにはいかない。
……だけど、彼を失うのもまた怖い。
そんな自分の曖昧な我儘を、エドワードは理解して受け入れてくれたのだろう。申し訳なさと同時に身勝手な安堵を抱く。ほぅと吐息を漏らし、自然と視線を落とす。
だが次の瞬間にシャロンが顔を上げたのは、穏やかに諭していたエドワードの言葉が「ですが」と続いたからだ。
「連れ出すことは諦めても、貴女の事は諦めません」
そう告げて、エドワードが手元に咲いていた薔薇を一輪手折った。
咲いたばかりの真っ赤な薔薇。それをシャロンの唇に寄せる、
生花特有のしっとりとした花弁がシャロンの唇に触れた。ふわりと薔薇の香りが鼻を擽る。
次いで彼はそっとシャロンの唇から薔薇を離すと、今度はそれを、見せつけるように己の唇に触れさせた。まるで薔薇を介してキスをしているようで、その蠱惑的な光景にシャロンが思わず小さく息を呑んだ。
「シャロン様がアルドリッジ家の籠に残ることを望むなら、私も共に残ります。そして共に溶け、薔薇の養分になりましょう」
唇を寄せた薔薇を愛おしそうに見つめ、エドワードが笑う。ゾクリとするような笑みだ。
だが次の瞬間、彼は何かに気付いたのか後方へと振り返った。漆黒の髪が揺れる。
「誰か来たようですね。さすがに、夜中に二人でいるのは観られないほうが良いでしょう」
エドワードが周囲を窺う。シャロンもつられて周囲を見回すが、夜の暗さの中で人の姿を探すのは難しい。
彼が気付いてくれてよかった。
時刻は遅く、それも人目から離れた場所。二人でいるだけで密会と言われる可能性だってあるのに、見つめ合う姿を見られたらどんな噂をされるか分かったものではない。抱きしめられているところなどもっての外。
「私は一度ここを離れます。シャロン様も、どうか今夜はお屋敷にお戻りください」
「えぇ、分かってるわ」
「では失礼いたします」
恭しく頭を下げてエドワードがアーチを潜って去っていく。
さながら夜の闇に溶け込むかのようで、周囲がシンと静まった。
シャロンの視界に夜の庭園の景色だけが広がる。先程のやりとりがまるで嘘のように、そこにあるのは『アルドリッジ家の庭園』でしかない。
だがエドワードに抱きしめられた感触と、彼の熱っぽい声だけはまだ体に残っている。生ぬるかった風も今だけは少し冷たく感じられた。
「シャロン様、こちらにいらっしゃいましたか」
傘を片手にメイドが声を掛けてくる。雨が降りはじめたから探しに来たのだという。
「雨……?」とシャロンが傘を受け取りつつ天を仰げば、頬にポツリと小さな雨粒が落ちてきた。
いつの間にか雨が降っていたようだ。それすらも気付かなかった。
メイドが早く屋敷に戻るよう促してくる。
それに従い、シャロンはアーチを潜って籠から出ていった。




