10:薔薇の救世主
貴方が支えてくれるのかと視線に込めて問えば、ハミルトンが穏やかに目を細めて頷いた。
ゆっくりと顔を寄せてくる。
あら、とシャロンが心の中で小さく呟いた。
彼はキスをするつもりなのだろう。初恋もまだなシャロンでもその空気は察することが出来る。――処女といえども初心ではないのだ――
だからこそ、応えるように待ち……。
そしてハミルトンの顔が間近に迫ると、人差指でそっと彼の唇を押した。
目を瞑っていたハミルトンがぱちと目を見開いた。僅かに顔を離し目を丸くする様はどことなく幼さを感じさせる。
どれだけ真摯に振る舞い年上の女を口説こうと、二十歳という若さにはまだ幼さが隠し切れていない。虚を突かれたと言いたげな表情に、シャロンは思わず笑みを零した。
「え、……シャロン様?」
「年上の女を落としたいのなら、お行儀よくしなくちゃ駄目よ」
「行儀よく……。そうですね、少し焦ってしまいました。申し訳ありません」
断られたというよりも焦らされていると感じたのか、謝罪するハミルトンの表情は満更でもなさそうだ。
それどころか、以降もシャロンを口説くことはやめず、むしろ先程よりも熱っぽい視線を向けるようになっていた。
食事を楽しみ、酒を片手に語り、帰路につく。
ハミルトンの予定では、大方このままバスワーズ家の屋敷に連れ込むか、どこか質の良い宿をとって……と考えていたのだろう。
だがシャロンはそれを良しとはせず、馬車をアルドリッジ家の屋敷へと向かわせた。幸い、ハミルトンも無理強いすることなく異論すら口にしなかった。
「では、シャロン様。今夜は誘いに応じて頂きありがとうございました」
ハミルトンが感謝の言葉を告げたのは、アルドリッジ家の屋敷の前。
本来であれば馬車がくれば使いや迎えのメイドが来るはずだが、事前に断っていたので今夜はそれもない。――断ったのは逢瀬を少しでも長く楽しむため……ではない。「遅くなるから迎えは結構よ」という夜遊び慣れを感じさせる言葉を、シャロンが言ってみたかっただけだ――
「私の方こそ、素敵な夜をありがとう」
「よろしければ、また……。……いえ、こうやって次を急いでしまうのは子供じみていますね。今夜は大人しく帰ります」
ハミルトンが深く頭を下げる。
誘いかけて言葉を止めることで、シャロンの言いつけを守る姿勢を見せつけようとしているのだ。
分かりやすいアピールにシャロンも微笑んで「おやすみなさい」と返した。それだけだ、誘いの言葉をこちらから掛けることはしない。
だが次の瞬間シャロンが目を丸くさせたのは、「大人しく帰る」と言ったハミルトンがグイと腰を抱き寄せてきたからだ。
秀でて鍛えられているというわけではないが、ハミルトンもそこそこ身長が高く男らしい体つきをしている。対してシャロンは細身、そのうえ油断していた。
簡単に彼の腕の中に納まってしまい、トンと軽く彼の胸板にぶつかった。
「なにを……っ!」
咄嗟に何をするのかと顔を上げてしまい、ハミルトンの顔が眼前まで迫っていることに気付いて咄嗟に息をのんだ。
しまった、と目を見開く。
だが身を捩ることも顔を背ける隙すらなく、シャロンの唇にハミルトンの唇が触れようとし……
次の瞬間……、
「残念ですが、そこまでです」
そう淡々とした声と共に、赤い薔薇が二人の唇の合間に割って入ってきた。
シャロンの唇が触れる。……赤い薔薇の花びらに。
「……エドワード」
「おかえりなさいませ、シャロン様。レイラ様とフィル様がお待ちですよ」
「あ、あら、そうなのね。教えてくれてありがとう。それじゃハミルトン様、今夜は素敵なひと時をありがとう」
先程のことにはあえて触れず、シャロンが軽く頭を下げて屋敷へと戻っていく。エドワードもまた深く一礼し、「失礼します」とハミルトンに告げてシャロンの後を追ってきた。
もちろんだがハミルトンは追いかけてこない。
それを横目で確認し、屋敷の扉が閉まるとシャロンはほっと深く息を吐いた。
胸元に手を当てれば、鼓動が早まっているのがわかる。もちろんこれは色恋めいた高鳴りではない。あの瞬間、不意打ちでキスをされそうになった危機感だ。
危なかった、と小さく呟き、隣に立つエドワードを見上げる。彼が居なかったらどうなっていたか……。
「ありがとう、エドワード。油断していたわ」
「いえ、お気になさらず。虫を払うのも庭師の仕事ですから。それより、ハミルトン様とのお食事はいかがでしたか?」
「素敵な一夜だったわ。……こういうのを繰り返して、みんな恋をするのね」
夜景の見えるレストラン、美味しい食事に酒。
軽やかな演奏を楽しみながら、異性と二人で語り合い、想いを交わしていく。
デリック・アルドリッジに嫁がされなければ、自分にもきっとこんな素敵なひと時があったのだろう……。
それを考えれば、今更取り戻そうとしている己の必死さが虚しく思え、シャロンは小さく溜息を吐いた。
だが次の瞬間、「シャロン様」と声を掛けられた。エドワードだ。
「レイラ様とフィル様が、お夜食を用意してお待ちです」
「夜食を?」
「えぇ。その手合いのレストランは料理は洒落ているが量が少ないから、きっとお腹を空かせて帰ってくると話していらっしゃいました」
「いやだわ、人を食いしん坊みたいに。でも夜食なんて懐かしいわね」
過去を思い出し、ふふっとシャロンが笑みを零した。
虚しさが掻き消され、代わりに懐かしさが胸に沸く。
あれはレイラとフィルが七つか八つの頃だ。シャロンも十七歳かそこいらで、相応の分別こそ着いていたが子育てをするにはまだ若すぎる。
それでも何とか生活していたが、ある日、どういった理由だったかレイラが夕食を食べなかった事があった。シャロンが食事を促すも、それが更にレイラの機嫌を悪くさせる。――幼いレイラはそれはそれは頑固で、一度へそを曲げると何をしても意地をはる一方で手を焼いた――
あまりに頑ななレイラにシャロンもムキになり、結果、「食べたくないなら食べなくていいわ!」と彼女の夕食を取り上げてしまったのだ。
そのまま喧嘩別れのように互いの寝室へと向かい、夜中……。
「レイラが泣きながら『お母様、ごめんなさい』ってサンドイッチを持って部屋にきてくれたのよ。メイドに頼んで用意してくれたんですって。私ったら、その時になってはじめて自分も夕食を食べ損ねていたことに気付いたのよ」
そうして二人で互いに謝罪し合い、サンドイッチを分け合って食べたのだ。
あの時のサンドイッチの美味しさは今でも思い出せる。
……それと、
「次の日の朝、それを知ったフィルが『レイラだけずるい』って拗ねて、今度はフィルが朝ご飯をボイコットしたの」
あの時は参ったが、今思い返せば笑い話でしかない。
シャロンが弾んだ声で話せば、エドワードもまるで自分の事のように楽しそうに聞いてくれる。
そんな彼の胸元に一輪の赤い薔薇を見つけ、シャロンは「まだ持ってたの」と指さした。先程ハミルトンから唇を守ってくれた薔薇だ。
「まだ美しく咲いていますからね。庭師として、そして手折った身として、最後まで飾ってやらねばなりません」
「ハミルトンの唇が触れた花なんてよく持っていられるわね」
「さすがにその花弁は取りました」
いかに庭師と言えども、ハミルトンの唇が触れた花弁を飾る気にはならないらしい。
ならば自分の唇が触れた花弁は……とまで考え、シャロンは出かけた言葉を飲み込んだ。
なんとなく、それを聞くのは気が引ける。
だからこそ彼の功績を改めて褒めるだけに止め、シャロンは「夜食が楽しみだわ」と話題を変えて歩き出した。