栞
そうだ。
彼女は、彼女だったんだ。
出会ったことも忘れて今まで生きてきた。
あの出会いの日のうちに退院が決まって、それはただの一目惚れのまま終わったんだ。
彼女は道で目を惹かれる美人と何も変わらない。
あの頃の僕にとって、彼女はそんな無意識の片隅に消えていた。
それでもあの時彼女に心を奪われたのは事実で、真実で。
気づけば足が勝手に動いていた。
父の靴を履いて飛び出たことも、飛び出した先で車に轢かれかけたのも、僕の意識に干渉することはなかった。
斎場の場所は分かっていた。
公園のベンチから見える場所にあったからだ。
でも道端に立てかけられた看板に見知った名前はなかったはずだ。
下に名前が同じだからってそれはただの他人の葬式で、僕には関係のないものだとばかり。
思えば彼女が後ろの大樹を好きだといったのも、僕に葬儀の場を見させたくなかったからかもしれない。
とても冠婚葬祭にはふさわしくない格好の僕を、黒服に身を包んだ人々は凝視した。
それでも奥に進む。
奥へ、奥へと。
「君、まひろくん?」
不意に飛び込んできた高い声に僕は足を止めた。
「まぁ……大きくなったのね。私のこと覚えているかしら」
そこには、彼女が――いや、彼女の母親がいた。
一度病院で見たことのある顔。
隣で花瓶に花を移し替える姿を見たことがあった。
「あなたは藤田さんの、お母さんですよね」
だが僕の言葉になぜか驚いていて、
「あなたと初めて会ったときは”もう”黒沢の時じゃなかったかしら。なんでその名字を?」
「――彼女に、教えてもらいました」
彼女の母親は少し考えてから、
「いいえ、そんなはずはないわ。だってあの子は……あれから一度も病院を出られなかったのに」
「いいえ。確かに彼女に教えてもらいました」
わかっている。
僕の隣にいた彼女は、彼女であって、彼女ではない。
僕たちは今日公園で、あるはずのない邂逅を果たしたのだから。
葬式をやってるすぐ近くで、その仏様と話せるなんてね。
「じゃあ、お見舞いに来てくれたことがあったのかしら」
「いいえ。僕と彼女はあの日以来一度も会っていませんでした」
そう、三日前のあの日までは。
「だったら、あの子に教えてもらうなんてできないじゃない!」
彼女の母親は言葉を強め、「ふざけたこと言わないで」と僕のことを鋭い目つきで睨む。
「でも、三日前、彼女に会いました。図書館で。初めて会った時とは違ってメガネをしていました。僕が勉強している横でずっと文庫本を読んでいました――」
そう言って、思い出す。
「――そういえばあの本、栞……」
僕があの日の情景を思い出してそれを口にしたとき、彼女の母親の目からは大粒の涙が溢れ出していて。
あれは、僕が彼女にあげた栞だった。