僕の右側
あの後、彼女はすぐに僕に背を向けて去っていった。
言葉も何も交わさぬまま、ただ一つの目配せもなく。
僕は彼女になぜか懐かしさを――いや、デジャヴを感じていた。
僕が彼女に出会ったのはほんの三日前のことなのに。
彼女のいなくなった後のベンチは寂しいもので、僕も数分と経たない内に家に向かって歩みを進めた。
家に着いてから、彼女の言葉の意味をずっと考えていた。
そこまで気にすることでもないのかもしれないけど、彼女の雰囲気を思い出すと考えずにはいられなかった。
「まひろ、ただいま」
母が帰宅した。
「お帰り。どこ行ってたの」
僕の言葉に気をよくしたのか、母は唇を緩ませ、鼻歌交じりに僕の隣に座る。
「もう、今朝言ったじゃない」
今朝の会話なんておならの話しかしていないじゃないか。
「黒沢さんとこの娘さんのお葬式よ」
「黒沢さんて、誰だっけ?」
そんな僕の言葉に母は呆れたような顔をして、
「はあ……もう忘れたの? まひろが入院したとき――同じ病室だった子よ」
母の言葉に、僕は鞭で打たれたかのような衝撃を受けた。
僕が体を壊したとき、近くの病院に入院をした。
病室は常に消毒されたようなにおいがして、よく口で呼吸をしていたことを思い出す。
診察はいつも憂鬱で、ちょっと苦しい検査なんかもした。
そのたびに母が僕を励ましていてくれたっけ。
それでも夜はいつも寂しくて、辛くて、向かいのベッドにいるおじいさんのいびきを聞いて気を紛らわせていた。
明日のことを考えると死にたくなるのだ。
そんな日常に一つの華が咲いたことを今思い出した。
僕がいつものように検査から帰ると、今までずっと空いていた隣の病床がいくつかの荷物に飾られていた。
後ろから、声が聞こえる。
「あのぉ、ここ通ってもいいですか?」
彼女が――藤田夕陽さん、いや、夕陽ちゃんが彼女らしい笑顔でそこにいた。
僕が道を開けると、彼女は軽く会釈して隣のベッドに腰かける。
僕はこの時も彼女に見惚れていた。
なんで今まで忘れていたのだろう。
「あっ、お隣さんだったんだ」
僕が自分のベッドに上がると、彼女は弾むような口調で言った。
「お隣さん、お名前は?」
そうだ。
あの時の彼女の言葉は――
「人に名前を聞くときはまず自分から名乗るものじゃないの?」
「ふふっ、それもそうだねっ」
辛い日々のせいでとげのある態度をとってしまったにもかかわらず、彼女はそんなこと意にも返さない。
むしろそんな反応を楽しんでいるように見えて。
彼女の楽しそうな顔が大好きだったんだ。
「私の名前は――藤田夕陽」
「僕の名前は――佐伯まひろ」
彼女はいつも、僕の右隣にいた。