七話:落花流水・後 二度目があれば
「たまには散歩でもする?」
朝食の後と言えば、読書や勉強が既に日課となっている。真面目な二人は、サボりというものを知らないようだ。
「修行に行くのか!」
ミカンが嬉しそう飛び跳ねる。朱鬼は予想通り、嫌そうな顔をした。
「漢字の勉強にならないわ」
「仙人になるには、そればっかりじゃ駄目なんだよね~」
知ったかぶれば、朱鬼の腰もすんなり上がる。昼までに隠れなければならない。織実の動機は真っ黒だ。
「二人って、大門の外に出られるの?」
「大門からは出られないわよ? 禁域だもの」
朱鬼が言う。その言い方に首を傾げた。大門以外に、出口があるような言い方だ。
「裏口があるのよ。知らないの?」
「そんなのあった?」
「俺も知ってるぞ!」
ミカンまで自信満々に言ってくる。屋敷の中は、大体歩き回ったと思ったけれど、まだ知らない場所があったらしい。隠れるには良さそうだ。
「行ってみたい!」
「行こうぜ! 修行にいいぞ!」
ふわりとミカンが浮かび上がって、我先にと宙を駆けだす。朱鬼が慌てて立ち上がるので、その袖を織実は急いで引っ張った。
「近い? 遠い?」
「調合部屋の先だもの」
そんな所に、裏口なんてあっただろうか。首を傾げながらも、手を繋ぐ。
「朱鬼は出た事ある?」
「うふふ。樒の着物をね、捨てた滝があるわよ?」
「滝…………?」
まさか昨日落ちた、あの滝では。そう思ったら、急に足が重くなる。
「他には?」
「裏山かしら?」
それってまさか、璃君に朝練場所として指定された、裏山か。だからミカンが乗り気なのかも。行く場所をどうやら、間違えたみたいだ。
「他は?」
「んー」
朱鬼は美少女らしく、顎に人差し指を一本乗せて、小首を傾げる。絵にはなるが、悩む辺り無いのだろう。
「まぁいいや、ひとまず行こう?」
二人でのんびり回廊を歩き、泉のある庭を横目に、無人の部屋をいくつも過ぎる。細長い池のある庭が見えたら、突き当りが調合部屋だ。ミカンはすぐ手前の、柱の前で待っていた。
「遅いぞ!」
「ミカンとは、修行の仕方が違うのだよ」
適当な事を言っておく。それで納得してしまう、なんとも純朴な生き物だ。回廊から飛び降りると、植込みの間を縫って壁の方へ向かう。控えめな扉が姿を現した。
「ここ?」
織実が聞くと、二人は揃って頷いた。鍵も閂もないが、厚めの木で作られている。押してみると、音もなく簡単に開いた。
「行くぞ~!」
ミカンが元気いっぱいに、飛び出して行く。道が細いので、朱鬼を前にして一列に進んだ。桃花の甘い香りが、一段と濃い。見渡す限り桃色の森で、迷子になりそうだ。
花びらの積もった平坦な道は、次第に斜面になって石段に変わり、気温も下がって風も出てくる。
「寒っ!」
笛のような鋭い音で、冷たい風が吹き抜けた。肩を抱えて立ち止まると、桃木の合間から屋敷の青い瓦屋根が下に見えている。前では朱鬼が、首を傾げて待っていた。
「朱鬼は寒くない?」
「寒くないわ」
まぁそうだろう。彼女は水の冷たさにも強い子だ。流石は井戸の怨霊。感覚がちょっと違うらしい。
「遅いぞ!」
石段をミカンが駆け下りて来た。セルフで毛皮を有する彼も、寒くは無いだろう。人間って実は不利なのでは。真面目に考えてしまったが、手を出すと飛び乗ってくるミカンは、ほんのりと温かい。懐炉にしようかな。
「俺は自分で登れるぞ!」
「あっ!」
捕まえていたミカンが、手の中から逃げていく。前より元気になったのだろ。それは単純に嬉しいのだが、力負けしていると、何時か食われるという危険も高まる。素直に喜んではいられない。
だからと言って、武術訓練はお断りだ。それで仙人になれるなら、世の中仙人で溢れかえっているだろう。眉唾眉唾。何かいい方法は無いのだろうか。せっかく仙境に居るのだし。
悩みも吹き飛ばす勢いで、風が前から吹いて来る。服がバタバタと煽られて、落ちた浮遊感を思い出させた。背筋に冷えが駆け上る。
「寒っ!」
「もう、降りる?」
朱鬼が止まって振り返る。何時もの白い顔色のまま、胸を抑えて肩で大きく息をしていた。運動不足だろうか。初めて見る姿に、目を見張ってしまう。
幽霊も疲れるらしい。
ただそれを指摘しても、素直に休むとは思えない。確か一定間隔で、灯籠が立っていた筈だ。立ち止まる理由としては、良いだろう。
彼女の細い背中を押して石段を進むと、灯籠と一緒に、何故か白慈も立っていた。
朱鬼を追い抜くように背中へ庇い、気安く手を振ってみる。
「やっほー、白慈。君も登山かね?」
「貴女の用事を、片付けに行った帰りです」
「ここ、山だけど?」
用事の内容は覚えているが、山とは結び付かない。もしかして、分かりにくい仙境ジョークか?
「隣り合う仙境と、行き来する道があります」
「何処に?」
「貴女方には通れませんよ。通行にはまず、正しい天籍を持つ必要があります」
なんて残念なのだろう。他の仙境にも興味があったのに。そう言えば以前、地位を上げなければ出られない、と璃君にも言われたのだ。権力は持つべきだろうが、世知辛い話だ。
「野菜の事、分かったの?」
落ち込みたくないので、さっさと結果を聞く事にする。白慈も多分、忙しいだろう。引き止めては悪い。
「水晶の仙境は、壺中仙の司る中で、最も俗世に近い特性があるそうてす」
「俗世? それって、畑の野菜に近いって事?」
「まさか。それよりも遥かに、俗世の物に近いんですよ。璃君は、わざわざそこを選ばれた。その意味は、僕の口から言えません」
「ううん、いいよ。ありがと」
「ではこれで」
白慈は袖を重ねて頭を下げると、挨拶を返す前にさっさと石段を下って行く。揖礼より丁寧に見える所作だったが、一体どうしたのだろう。
そこでふと、嫌な事に気が付いた。
そういえば彼も、随分と態度が柔らかい。普段なら冷たい視線を向けて来る。そもそも、頼み事を聞いてくれるとは思えない。
氷室野菜は俗世に近く、言ってしまえば普通の野菜。何か、見落としているのだろうか?
去っていく白慈の背中を見ていると、急に止まって振り向いた。
「其処より先は、仙境の特性が強まります。朱鬼は伴わぬ方が良いでしょう」
「そうなの? あ、別に疑ったんじゃないから!」
「失礼致します」
「色々ありがとね!」
良く分からないので、ひらひらと手を振ってみる。一体、何があったのだろう。確かに仲良くしたかった。でも、急に歩み寄られると、ちょっと怖い気もする。そんな事を思うのは、贅沢だろうか。
「樒?」
背中にくっついている朱鬼が、やっと声と顔を出す。男嫌いの根は深そうだ。
「あんな事言われたけど、朱鬼はどう?」
「行けるような気がするの」
「無理は駄目だよ?」
「樒こそ、寒いと言ってたじゃない」
「健康だから大丈夫」
「そうなの?」
「そうなの!」
言い切ると、呆れた顔をされてしまった。健康なのは本当だ。病気じゃないって、璃君も言っていたのだし。薬は飲まされているが。
「行こう?」
手を差し出すと、深紅の長衣に包まれた腕が上がった。一応、朱鬼の体調は気にしておこう。
認められなかった。
あんな小娘が、敬愛する主の妻などと。
白慈は裏山を振り返る。どう見ても小娘には変わりない。彼女が、璃君に最も近い隣の座を、許された存在なのだ。その場所は、自分の居場所だったのに。
いや、そうだと勝手に、思っていただけだった。
樒と名を与えられた娘は、真面目なことろもあれど、飽きっぽく、しかも少々口が悪い。なんとも人間みのある少女だった。
頼りたい時には懇願し、喉元過ぎれば忘れてしまう。そんな人間らしさを思わせる性格が、心底気に入らない。だと言うのに、主には一応任されてもいた。あからさまに無下には出来ないのだ。
「僕は確かに、人の願いによって力を得たが」
人にはもう、感謝などしていない。神籍の末端に席を置くものの、望まれなければ、それだけ力を失っていく。
仙としての力が何もない彼女を見ていると、自分と姿を重ねてしまい、それも哀愁と苛立ちを混雑させた。
おそらく平和だった、彼女が来るまでは。
あの穏やかな日々を、今でも懐かしく思ってしまう。
ただ璃君が、伴侶を得られたあの方が、時より表情を和らげる様は、自分には決して出来ない事だった。
夫を夫とも思っていない傍若無人な娘だが、意外と照れやすい事も知ってしまった。その性格は案外、照れ隠しなのかもしれない。
たったひと言、それも遠回しに褒めただけ。
あの時の狼狽っぷりは、思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。口の回る小娘の弱点が、まさか称賛とは。
胸に手を当てると、今も澄んだ力が揺蕩っている。料理に込められた、願いの力。それがまさか、自分の活力になるなどとは、思ってもいなかった。
そこらの草だとしても、誘われた時に行けば良かったと、愚かにも思った事に、嫌悪で嗤いが込み上げる。
結局、人と同じなのだと。
必要な時に頼って、不要ならば捨て置いて。だからこの身すら、自力で維持出来ない。他の仙境へも、本来は向かう事すら無理だった。
「認めた訳ではありません。今は…………」
あの意地っ張りな娘の為に、主へ報告するべきだろう。成り立ての仙は、身を崩しやすい。熱でも出されたら、璃君は気に病むだろうから。
裏山の山頂は、風が強くてもちろん寒かった。やせ我慢をしていても、ずっと震えが止まらない。ただ見えない水でもあるかのように、波紋が足元に広がっていく。
「凄いね」
綺麗だし不思議だし、恐ろしく寒い。何度か飛び跳ねて暖を取ると、光の波紋が幾重にも広がった。朱鬼が真似して飛び跳ねている。そちらは美少女なので、何をしても可愛いいだけだ。しかも、無事に登れてご満悦である。
「クソ仙人に、妖力を削られなければ、俺だって」
ミカンはミカンで、一人闘志に燃えていた。こっちもそろそろ丸くなって欲しいものだ。というか、璃君を「クソ仙人」なんて呼ぶのは、どうなのだろう。せっかく元気になっても、また妖力を削られそうだ。
「ねぇミカン? 仙人を目指すなら、璃君って呼んだ方がいいと思うよ?」
「何でだ?」
不思議そうに聞かないで欲しい。この仙境の主だ。機嫌は取るに限るだろうが、そんな事を言っても、伝わらない気がする。
「先輩だからね」
「センバイ?」
「先の者を敬う気持ちは、大切!」
「アイツは、俺の力を削ったんだぞ!」
「それをまた、削られたく無いでしょ?」
「無い!」
四文字でも聞き間違えられたが、話の腰は折るまい。織実はミカンを手招くと、小さな声で囁いた。
「だったら、搦手に頼らなきゃ」
「カラメル?」
「大事にされたいでしょ?」
「だいじ…………カラメルならセンバイの大事になるのか?」
訂正しないと、こうなるようだ。気が抜けて来るもの、分かって貰えそうだから聞き流す。
「ともかく、先輩を敬うとこからやってみよ?」
「敬う…………俺も敬って貰えるか?」
「それは、後輩が出来てから」
「コウバイは何処に居るんだ?」
「どっかの坂かな~」
どうしてこんなに、耳が悪いのだろう。削られたのは、聴力なのでは…………げんなりして足元を見る。桃の花びらが、水紋を作って浮いていた。何処まで水に近いのだろう?
気になって、目についた小石を拾った。そのまま姿勢を落とし、地面と並行になるように振りかぶる。水の石切りだ。小石は面白いように、空中に波紋を描いてを跳ねていく。
「なんだそれ!」
ミカンが、キラキラした目でそれを見ていた。狐に石切りは出来るだろうか? 小石を探すミカンを見ていると、朱鬼が袖を引っ張った。
「私も出来る?」
「うん、教えたげる」
寒い時は動くに限る。朱鬼と小石を探していると、ミカンがよろよろ飛んで来た。
「どうしたの?」
「…………」
ミカンは無言で、視線を山の麓に向けている。青い瓦屋根が美しい屋敷から、一か所、土煙が上がっていた。
「えっと?」
「真似して投げたんだ」
「まさか、やった?」
犯人は首を縦に振る。
「に、逃げよう!」
織実はミカンを懐に、朱鬼の手を取って一目散に山を下った。これは流石に、怒られるでは済まないだろう。言い訳を考えなければ。
裏口から戻り、回廊で荒く息をする。土煙は見えないが、何か壊したのは間違いない。
「樒」
「ひっ!」
低い璃君の声がした。子分は流石に引き渡せない。懐からミカンを出して、素早く朱鬼に押し付ける。逃げて、と口だけで伝えて顔に笑顔を張り付けた。
「ひっ、ひるの、薬ですね? さぁ行きましょう!」
こうなったらヤケクソだ。璃君に平謝りする役目は、引き受けよう。
しっかりと薬を飲まされた織実は、璃君を正房に押しとどめる作戦に出ていた。エロ本込みの書庫、その片付けだ。流石の彼も、近くで木簡を集めている。
「ぐぬぬ…………」
飛び跳ねたら届くだろうか。踏み台の上で考える。身長の縮んだ弊害が、こんな所で出ようとは。あと少しが、どう頑張っても届かない。
取れさえすれば、コチラの勝ちなので、着地に失敗しても、きっと痛いくらいで終わるだろう。何しろ学校の階段を、十数段転がり落ちてもコブしか出来ない、丈夫さだ。
「ていっ!」
織実は踏み台の上で、飛び跳ねた。目当ての書物に手が届く。それと一緒に白く埃が降ってきた。思わず目をつむる。着地が大きく傾いた。
踏み台が音を立てて、床に倒れる。織実はの足は、ぶらりと宙に浮いていた。僅かに息を乱した璃君が、抱き留めてくれたのだ。
「気を付けなさい…………!」
「すっ、すみません」
よく間に合ったものである。硬質な美貌を彩る青い瞳が、やや座って此方に向いた。
「仙は所詮、老いぬだけだと言ったであろう」
「届くと思ったんですよ!」
視線を逸らして、減らず口を言ってしまう。早く降ろして欲しい。軽そうに持たれると、微妙な気分だ。
「成長は出来ぬ。慣れてしまいなさい」
慣れたくない。せめてもう少し上の年齢が良かった。仙境にサバを読まれなければ、十六歳のはずなのに。
「ずっとこのままなんて」
「言っても仕方の無い事だ」
璃君は溜息をついてから、やっと織実を床に降ろしてくれた。すかさず数歩、距離を取る。
「見た目だけなら、仙術で如何様にも出来る。しょげるのはやめなさい」
「本当に?」
「…………最低でも、自分の気を制御出来ねば、難しい」
せっかくの良い話も、「気」とかいう眉唾物になれば話は別だ。見えないモノは信用しない。新興宗教に引っ掛からない鉄則だ。
「拳法以外でお願いします」
「其方は、やや脈が弱い。運動しても良い筈だ」
「どうして運動…………」
やはり運動なのか。体育は高校で終わった筈なのに。だから若返りとか嫌だったんだ。
「見えずとも、血の巡りは分かるだろう? 呼吸もこれと同じだ」
「それ、胎児の呼吸ってヤツでは…………」
「読んで試さなかったのか?」
「試せませんよ。そんなの覚えていませんし」
「…………」
「え、璃君は覚えてるんですか?」
「まさか」
言った璃君が、そっぽを向いて動きを止めた。何事かと顔を見上げる。眉間に皺だ。そして肩が揺れている。
「っく、ふふふっ、いや、すまない。織実、其方は真面目過ぎるぞ」
笑われた! 今のところ、笑うところか…………?
「例え話だとは、思わなかったか?」
「たとえ、例え話…………えっ、たとえ!?」
顔に熱が集まっていく。織実は頭を抱えて小さくなった。笑われる筈だ。気付けば良かった、それくらい。
「水に浮く葉の如き虚脱は、呼吸すら意識の外に忘れさせ、深い瞑想へ導くとされる」
「もっと分かりやすい本、無いんですか!」
「探せば有るやもしれぬが、私にはもう興味の無い事だ」
そりゃあ、仙人に仙人修行の書物なんて不要だろう。誰だよあんなに集めたの!
「何言ってるんです! あなたの書庫でしょ」
「勝手に増えていくのだ」
「どういう意味です?」
「そのままの意味だ。持ち寄られる」
「誰に?」
「他の仙だ」
「要らないって、言ったら駄目なんですか?」
「今は言えぬ…………其方、本の由来に興味があったのか?」
「えっ、ええと、ほら、璃君が断れないって、どういう事なのかなぁ〜って」
「私の弱みが知りたかったと」
「そんな事、言ってませんよー!」
「では知りたくないと?」
「そこは是非!」
しまった、つい本音が!
落花流水
過ぎていく春のこと。
人や物おちぶれることや、男女の気持ちが通じ合うことのたとえ。




