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七話:落花流水・中 二度目の食事


 水の音がする。昇っていく、空気の音も。


 瞼を開くと、上の方に白い水面が見えた。光の網目が好き勝手に模様を作り、形を変えては揺らめいている。


 ただどういう訳か、辺りの水は段々と濁りを濃くしていって、遂には水面を隠してしまう。ゴボりと、大きく息を吐き出した。浮かんでいくその泡と一緒に、織実の意識は浮上する。


「樒!」


 璃君だ。そんな必死な表情で…………あぁ、此方が現実か。あのまま沈んで行くのだと。ちゃんと生きてる。まだ生きていた。


 視界がぼやけて目を擦る。するとその手を捕まえられた。


「泣くな」


 誰が泣いて? 不思議に思って辺りを見回す。澄んだ池と、白くけぶる滝壺が見える。落ちた浮遊感も一緒に思い出し、ぶるりと震えが走った。


 肩を抱く手に力が入る。その手を横目に見てから、織実はやっと、自分が璃君の膝の上で横抱きにされている事に気が付いた。しかもお互いびしょ濡れだ。


 池に入ってまで、助けてくれたのだろう。そこまでさせた事が、申し訳ないやら、面目ないやらで、頭が下がる。


「…………ご迷惑を」

「謝罪は要らぬ。むしろ二度も月帝つきがみの干渉を許した私を、責めるがいい」


 言葉が出ない。璃君が怒りを、噛み殺していたからだ。激怒で震える人を初めて見た。血の気が引くほど怖いので、どうにか雰囲気を変えようと、明るい声を絞り出す。


「ひとまず、帰りませんか~? 風邪引きま」


 急に璃君が立ち上がる。そのまま空に浮かび上がって、滝の上を悠々と越す。両手で抱え持たれているものの、落下の恐怖は染み付いていた。彼の衣を思わず掴む。抱く腕に力が籠り、大きな胸に抱き込まれた瞬間、いよいよ涙を我慢できなくなった。


 ――――怖かった。


 その一言が口から出ない。言えたら楽なのに、弱い自分を知られたくない。




 璃君は正房の屋根に降り、二階の窓から慣れた様子で室内に入っていく。そのまま一階に降りて行き、左奥にある扉の前で、やっと織実を降ろした。


「温泉を再現している部屋だ。温まっていなさい」

「璃君が先です!」


 思わず叫ぶ。家主に風邪など引かせたら、大変だ。


「この程度で、どうにかなるような身ではない」


 言いながら扉を開けて、中に押し込まれる。荒い石床に湯気が満ち、微かに漂う硫黄の香り。しかし湯船に浮くのは、睡蓮の葉だ。まるで池ではないか。目を奪われている間に、扉をぴしゃりと閉められた。


「ちょっ! 璃君!」

「着替えは朱鬼に言づける」

「先に温まって!」


 扉を叩いて叫んだが、返事は勿論しなかった。しかも扉は、びくともしない。外鍵か。


「…………っく」


 どうしてここまで、してくれるのだろう。自業自得と叱られたって、反論出来ないのは織実の方だ。大門の先は禁域で、行ってはいけない場所なのだから。


「優しくしないで。そんなの、返せない」


 奪われた日常に固執していた。仙人なった事を、受け入れられていなかった。だらだらと日々を過ごした、罰かもしれない。それでも、どう向き合えば良いか、ちっとも分からないままなのだ。


 希望を持って、前を向いたフリをする。


 それだけで、立ち直った心算つもりになった。そんな自分を、自分自身、気に入っていた。


 濡れた袖を、強く目元に押し当てる。大丈夫。色々あって、驚いただけ。一度目よりは数倍マシだ。ぐっと唇を引き結び、渋々着物に手を掛ける。適当に脱ぎ散らかして、葉っぱの生えた湯船に入ると、温かさが身に染みた。


「んん〜」


 つい声が出て、気が抜けていく。思った以上に、冷えていたようだ。


 仙境では、冷水による行水が当たり前。だから湯船は、随分と久しぶりだった。シャワー族なので、本当にご不沙汰だ。


 ただ、この明らかに睡蓮池な見た目は、どうなのだろう。湯船の底は玉砂利で、生えている葉っぱも、本物のようだ。下はどうなっているのだろうか?


 好奇心に負けて、潜って石を数個どかしてみたが、案外底は深そうだ。


「ぷはっ!もう、何やってんの…………」


 自分にツッコミを入れる。璃君に知られて「湯船で泳がぬように」なんて叱られるのは、流石にイヤだ。


「ちゃんと着替えたのかな」


 御歳数百の大人なんだし、大丈夫だと信じよう。






 煮え湯が湧くようだ。


 斑晶が璃君となってから、此程の怒りを覚えたのは初めてだった。両手を打ち鳴らすと、纏わり付いた水の全てが床に飛散する。それを指先に集めて、窓から外に投げ捨てた。


「何故」


 月帝とは元から、少々因縁があったのだ。だからと言って、立て続けに干渉を受けるのは、流石におかしい。


 上位の神は、そこまで何かに拘らない。


 織実を仙境に落としただけでは飽き足らず、滝底にまで落としたことわりは無いだろう。過去数千年の記録を探しても、このような話は出ない珍事だ。


 天仙でありながら、天人名簿に名のない織実。書き漏れる事はまず無い。何者かが今も、それを止めているのだ。


「私ではなく、彼女の方に?」


 問題の行方を変えてみるが、その可能性はあまり無いと思われた。人間は、天籍に入れば天仙となる。仙とは通常、肉の身体を持てぬ存在だ。


 まず空腹にはならない。ただ、身を維持する活力として、食を選ぶ事もある。


 そして彼女の作る料理には、慈悲深く清廉な気が籠められていた。


 秘めるものだけで言えば、織実は仙境を作り維持できる程の逸材だ。可哀想だが、天仙の妻にと、神隠しに遭うのは頷ける。


「私が望んだと?」


 もう一度考えるが、現代俗世の女人と接触したのは、店員だけだ。それを口説いたりはしていない。分かるのは、二度もあれば偶然とは言えない事だ。


「神が相手か」


 かなり分の悪い攻防になるだろう。






 風呂から出た織実は、不味い薬を飲まされた上に、寝るようにと部屋に押し込められた。案外眠れたから良いものの、目が覚めると夜だ。しかも璃君が、部屋の中に居るではないか。


 盆の上には、見慣れた茶碗。夜の薬である。


「うぇぇ」


 開口一番、残念な声が出た。二回も飲んだし、眠ったし、もう本当に勘弁して欲しい。


「目覚めたか」

「…………おはようございます」

「すぐ眠る事になる。手を」


 すぐってどういう事だろう。一服盛られているのかも。茶碗と璃君を交互に見るが、手を出せと、彼が椅子から立ち上がる。それでも十分近かったのに、寝台の端に座られた。


「またですか? 脈なんか数えても」

脈診みゃくしんという。本来は両手で診るものだが、利き手を掴まれるのは、嫌なのだろう?」


 ぎくりと肩が跳ねる。目敏い。どうせなら、止めるという選択をして欲しい。


「其方が落ちて来た時、怪我をしていたのは左だったが…………」


 璃君は珍しく、言葉に迷ったようだった。今と同じ右手に、月帝の痕跡があった事。それを言うべきか悩んだからだ。


「利き手に触れられる事を、嫌がる者は珍しくない」

「…………別に、もう、平気ですから」


 璃君は織実を一瞥いちべつした。瘦せ我慢なのは、分かっている。


「平気に、したいんです」


 それは本当だ。トラウマは、何時か弱点になる。その時後悔したくない。


「では手を」


 やけくそで両手を突き出すと、そのまま両方掴まれた。変な声が出そうになって、慌てて唇を引き結ぶ。相手は璃君と、心の中で念仏の如く繰り返し、どうにか震えないで済んでいる。


「夢は怖いか?」

「えっ、えぇまぁ?」


 突然聞かれて、腕を見る。まだ離しては貰えない。


「内容を聞いても?」

「ええっと、川を作る夢ですよ?」

「重労働をしていると?」

「…………毒の川を、手で掘ってるんですよ。臭いし痛いし、そんな川なんて、諦めればいいのに。みんな必死で泥を掻き出してて」

「それは川なのか?」

「川じゃ無いかも、しれませんけど」


 最近知ったが、川上には毒の沼地みたいな池がある。そこには何か、良からぬものがうごめいていた。絶対に掘ってはいけない川だと思う。


「川の水は冷たいか?」

「ん?」


 少し困って、笑いたくなる。こんな話を、真面目に聞いてくれるのだ。悪夢と言っても所詮は夢で、話したところでどうにもならない。


「生ぬるいですよ。ねっとりしてるし」

「それは、本当に川なのか? 水の色は?」


 改めて考えると、川と言うほど広くも深くもない。第一、水は流れていないのだ。夢の中では、絶対的に川なのに。


「夢は白黒で」

「そうか」


 璃君は夢を、カラーで見るのだろうか。そういう人も居るらしいけど、白黒よりも疲れそうだと思う。


「明日は朝に」

「まだ続けるんですか?」

「数日続けなければ、薬効は出ぬ」

「出ないんですか?」

「…………寝付くまで、此処に居よう」

「それはいいです」


 即言い返したせいか、指先でおでこをつつかれた。そこから先の記憶がない。




 目を開けると、朝焼け空になっていた。


 本当に一服盛られたのかもしれない。複雑な心境で、鳴りそうなお腹を押さえる。速攻で朝ごはんの食材探しだ。そそくさと部屋を抜け出すと、会いたくない相手に出くわした。


「おはようございます」


 咄嗟に出てきたのは挨拶だった。中院なかにわに佇むミミが、疲れ目からくる幻に見えたのだ。むしろ幻が良かった。


 もうすぐ日の出、かなり早朝だ。


 この時間に彼を見たのは初めてで、もしや朝帰りかと邪推する。


「おはよう、樒ちゃん」


 低く甘やかな声に、爽やかな朝の空気が腐り果てそうだ。蓋がいる。臭いものには、蓋をするべきだ。


「あなたの部屋、そっちです」


 此方に来そうなミミ言うと、ニッコリと微笑まれた。


「うん、知ってるよ」


 彼の顔色は、何時になく青ざめて見える。この飄々とした男が、珍しい。フラれたのだろうか。そこでつい、余計な事を言ってしまった。


「…………早く休んだ方が良いですよ」

「ならば一緒に、寝てくれる?」

「ミミさんに興味無いので、遠慮します」

「冷たい」


 クスクス笑いながら、長い袖で口許を隠すミミ。垂れぎみの瞳が細まると、視線は妖艶な色香に歪む。歩く十八禁とは、こういうヤツを言うのだろう。


 あからさまに嫌な顔をして、織実は大きく身を引いた。


「馬鹿言ってないで、寝なさいよ!」

「そうだねぇ…………ああでも樒ちゃん、君もよく眠れていないのかい? やけに早起きだ」

「いつも通りです!」

「そう?」

「…………ミミさんこそ、徹夜でもしたんですか」

「心配、してくれるの?」


 楽しそうに緑の瞳を細めるミミは、くすくす笑いながら背を向た。


「一緒に寝てくれない君には、教えてあげないよ」


 やはり面倒くさい。話などしなければ良かった。少し後悔したが、無視というのも流石に悪い。とぼとぼ歩いて庭の草を物色し、畑の大根を引っこ抜いたら、そのまま厨房へと向かう。


 大根サラダに、酢漬け大根。朱鬼が起きたら、大根ステーキを焼けばいい。葉のから煎りも美味しいし、皮も干して活用出来る。捨てるところのない野菜、大根は偉大だ。


 せっせと支度をしていると、内院を歩いて来る璃君が見えた。ひっ、薬が来た!


「おはようございます!」


 先制攻撃の挨拶だ。どう頑張っても追い払えはしないが、先送りには出来る。


「おはよう。よく眠れたか?」

「えぇまぁ」


 一服盛った事には、文句を言いたい。しかし、朝まで夢さえ見なかった。本当に久しぶり、よく眠れたのも確かだ。


「そうだ璃君!」


 思い出したように、言ってみる。先送り対策は練ってあるのだ。まずは、ミミの壊れた櫛を見せた。経緯と希望をペラペラ話しながら、大根を千切りにしていく。


「壊れていては、使えぬ」

「直しても?」

「そうだ」


 簡単に会話が終了した。すぐに次の手を打つ。ミカンの瞳だ。


「色が変わったと?」

「赤いんですよ。どう思います?」

「世話をしているのは、其方であろう」


 即終了だ。もっと言う事は無いのだろうか。イライラしてきたが、これくらいでは、へこたれない。


「そうそう。朱鬼が、過去を思い出した、みたいなんですよ」

「きっかけは?」

「分からなくて。璃君の書庫とか?」

「関係ない。早く薬を飲みなさい」

「くっ…………!」


 とうとう言われてしまった。あの不味さを思い出したので、切った大根をつまみ食いする。瑞々しい生大根だ。ほんのり甘い。これは竹ザルに入れて、水にさらしておく。


「樒」

「は、はーい!」


 諦めて茶椀を受け取った。甘苦くて、何かが渋く口に残るという、不味い液体だ。何時まで飲まされるんだろう、と遠い目になる。諦めてくれないだろうか。


「昼も私が持って来る」


 璃君に、来い、とすら言われなくなった。何処かに隠れてしまおうか。


「隠れていても、すぐに見つける。無駄な事はせぬように」


 それでもするのが、諦めの悪い人間だ。やってみなければ分からない。胡乱な視線を向けられたが、ニッコリ笑って誤魔化しておく。


 さて、手に残った薬の茶碗を、どうするか。一応水場なので、洗って手拭いで拭いてみる。


 空で返すのも、どうなのだろう?


 薬を欲しがっているように見えては、たまらない。ふと目に付いた千切り大根と、生の黄カタバミの花と葉を投入してよく混ぜる。味付けは、胡麻油と塩に砂糖を少しづつ。胡椒こしょうが無いので味は締まり切らないが、大根の甘酸っぱいサラダの完成だ。


「はいどうぞ。あなたの薬より、数倍美味しいですよ?」

「…………随分簡単に扱うのだな」

「ん? 中華包丁にも慣れましたけど」


 璃君はやや眉を寄せてから、不意に表情を和らげた。


「ありがとう」

「えっ、あ、はい」


 お礼を言われた。あんな雑なものなのに。


 去っていく璃君の背中を見ながら、織実は見てはいけないものを見たような、微妙な気分になっていた。




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