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ドストエフスキー論

ソーニャとラスコーリニコフ

 「罪と罰」におけるラスコーリニコフとソーニャというのは対蹠的な関係になっている。

 

 ラスコーリニコフは人殺しであり、彼は自分及び家族の為ならばと考えて、「虫けら」のような老婆を斧で殺害する。偶然も絡んで、老婆の義理の妹までも殺害してしまう。彼は自分(達)の為に他人を殺した男である。

 

 一方でソーニャはその反対のキャラクターとして設定されている。彼女は家族を救うために自分を殺した存在だ。飲んだくれの父親と気の狂った母親、それからまだ幼い子供達の為に売春婦になり、その金を渡している聖女だ。

 

 付け加えると、当時のロシアの売春婦、今で言う風俗嬢だが、そうした仕事は現代よりももっと劣悪な環境だったろう。現在だと、興味本位とか、金に困ったわけではないがなんとなく風俗の仕事に入った人もいるだろうが、当時はやむなく身を落とす場所だったろう。そうでなければ、ソーニャが他人の為に自らを殺すという場合の「殺す」という意義が強く出てこない。ソーニャは他人の為に自らを殺した存在で、ラスコーリニコフとは反対である。

 

 ソーニャはそういう自己犠牲を選んだ存在なわけだが、作中では、ソーニャになぜそういう自己犠牲が可能だったのか明瞭に示されている。

 

 その理由というのは、ソーニャが信仰を持っていからである。キリスト教徒だったからである。このあたりは深く考えていきたい。というのは、以前、どこかの大学教授が書いたキリスト教本が非常に胸くそ悪かったからで、そこではそこそこいい暮らしをしている癖に選民思想に染まり、上から目線が常態化した人間が見えてしまったからで、その手の思い上がった選民思想とは違うものとしてここのキリスト教の概念は考えていきたいと思っている。

 

 さてソーニャが信仰を告白するシーンでは、ソーニャはラスコーリニコフに聖書の一節を読み上げる。ラザロの復活の場面である。

 

 「復活」それから「自殺」というのはドストエフスキー文学を読み解く上で極めて重要な概念だと思う。この場合、ソーニャは復活を信じていた。それは自らを殺したとしてもその行為の果てに何らかの崇高さがあり、それが自ら(自分達)を救うという考え方である。つまり死後を信じるというような事である。

 

 ここでソーニャは自らを越えたものを信じた(論理的には証明しようがないので信じるしかない)からこそ、自らの身を殺す事ができたのである。ラスコーリニコフは逆だった。彼には信仰がなかった。だから、自らの自我を絶対化し、他人の自我をそれに従属するものとして考え、他人を自分の為に殺害した。ラスコーリニコフは信仰を持たなかったから、自分の身を殺さず他人を殺したのである。

 

 ドストエフスキーはこうした問題を徹底的な二律背反として、どこにも逃げ道がないように描いている。それは極限状態だ。現代の我々であれば、おそらく、ラスコーリニコフのような自我重視に物事を考えつつ、それぞれが便益を得て人殺しもせず、同時にそこそこにうまくやれるようにしようとするだろう。いわば中庸の中に結論を見出そうとするだろうが、ドストエフスキーはそのような逃げ道を許さず、人間とは何かを徹底的に明らかにする為に極限状態の中に人物を置いて、真理をとことん暴き出そうとする。

 

 ラスコーリニコフが人を殺したのは信仰を持たなかった為であり、彼の論理がその最後まで、どこまで行っても正論であり、同時に正論でしかないのは、彼が自我を最後の論拠としている人間だからである。哲学で言えば独我論というのは正しく、それを反駁するのは難い。だがそこには何かしら足りないものがあると我々の奥深くにあるものは囁くであろう。

 

 ラスコーリニコフは、自らの正しさを信じ人を殺して、遂に自我の中に答えを見いださない。彼は自首して、牢獄に入ってもなお自分を正当化する。実際に起こった殺人事件でもそういう事はある。殺人者が自分の殺人をどこまでも論理的に正当化し、そこには筋が通っていると言えば言える。ドストエフスキーが描こうとしたものは徹底的なものであって、それは極めて現代的であると共に、反現代的でもある。現代的のは自我を中心に論理を作って悪行を成すからであって、反現代的なのはその解答として信仰を持ち出すからだ。

 

 ラスコーリニコフはソーニャに導かれ結論を出す。出さざるを得ない。これはドストエフスキー本人を見舞った問題でもあるだろう。

 

 私の直感だと、ソーニャのモデルはデカブリストの妻だと思う。デカブリストの乱、というテロ事件があって、そこで捕まった夫に随行し、その妻らがシベリアの牢獄までついてきたという事があったらしい。具体的にどういう事があったかはよくわからないが、その妻らは、自分が犯したわけではない罪を自ら耐え忍んだという。そこにはソーニャの面影が見える。ドストエフスキーはこの妻らの一人から聖書を貰い、それを牢獄内での唯一の読み物としていたらしい。

 

 牢獄という完全な、閉ざされた絶望の中でドストエフスキーがいかにして聖書を読んでいたか。それは想像するしかないが、おそらく暗室で泣きながら聖書に齧りつくソーニャのように、そこに盛られた復活の物語を自分自身の姿と何度も何度も感じ入っただろう…。ドストエフスキーは世界救済の為の(当時の)左翼的活動をして、死刑判決を喰らい、死にかけた後に牢獄に入れられた。

 

 ドストエフスキーは牢獄内でも孤独だったと言う。ドストエフスキーは民衆を神聖化したが、実際には粗野な民衆とは馴染めなかったらしい。彼はあくまでも繊細な都会人であって、だから彼が牢獄内で寒さや孤独に耐えられたのは奇跡のように思える。左翼グループの仲間の中には死刑を擬したあくどいショーの最中、発狂した者もいた。

 

 ドストエフスキーを救ったのはおそらく聖書だったろう。そこで彼は、自らを磔になったキリストにも擬し、また、牢獄の絶望の中で繰り返し復活の物語を諳んじ、それによって現在の絶望に耐えようとした事だろう。もしここで論理とか自我とかしかないのであれば、人は絶望の淵に沈んでしまう。絶対的に隙間のない論理の中で唯一希望を持たせるものがあれば、それは根拠を越えた信仰でしかない。ドストエフスキーはそこで信仰の必要性を悟ったはずだ。

 

 「罪と罰」にはその体験が封入されている。もちろん想像でしかないが、ドストエフスキーが牢獄の中で読んだ聖書の逆説的価値…現実が暗ければ暗い程に輝く精神的諸価値というもの…それは、ソーニャが見ていたものと同じと言えるだろう。そこでドストエフスキーはソーニャに自分の願望を託した。一方で、ラスコーリニコフにはドストエフスキー自身の自我を託した。ドストエフスキーという人物はかくも広大な精神の領野を一人で歩いたと言えるだろう。

 

 聖書の話で言えば、イエス・キリストという人物がドストエフスキーにとって最後の結論だったのも、ソーニャが苦難に耐えられた事と関係がある。またラスコーリニコフとも関係がある。

 

 ラスコーリニコフは自我を絶対視したがゆえに他人を滅ぼした男だった。だからこそ、彼は他者からの反作用を受けて滅びなければならない。その機会すら奪われるのであれば、自分の中の他者ーー無意識によって復讐を受け、己のした事を償わなければならない。

 

 ソーニャは他者の為に自らを滅ぼした。キリストは人類の罪を背負って、最大限の苦痛を甘受した人物である。この最大限の罪を背負った人間が、あくまで痛みを感じる事のできる「人間」であったというのが何より重要な事だろう。

 

 キリストがドストエフスキーの中で最も高貴だったのは、キリストが人間でありながら人間を越えた苦痛を甘んじて受けたからであった。キリストはその最後に神への呪いの言葉すら吐いている。それほど辛い試練だった。

 

 キリストは自分以外の人間の為に、自我を滅ぼしたのである。磔になった。そこには人間的な血が流れた。天が裂ける事もなければ、地が割れる事もなかった。どこまでもキリストは人間として苦痛を受けたという事に、真に神的なものがある。私はそう考えたい。

 

 キリストは他者の為に最大限の苦痛を得て自我を滅ぼした。自分を鞭打つ者の為に苦痛を引き受けた。ここにドストエフスキーは極点を見た。そこから反対の領域を見た時、神を失い、信仰を失った現代の人間達が見えた。これらの人達は自我を中心に価値観を形成している人間である。ドストエフスキーはこれらの人間を測定する時、キリストという絶対値を使用したと言える。

 

 ちなみに、現代のあれこれがどれもつまらないのは、そのどれもが自我という小さなものに巻き付いて展開していく価値観だからだ。小さな自我の小競り合いに大きな意味を付与しても始まらない…絶対性、人間を測る事のできるような巨大な絶対値が消えて、それと共に、小さな人間を測る小さな計測器のみが氾濫するようになった。それだけの事だろう。

 

 ソーニャが苦難に耐え、自らを滅ぼす事を許したのは彼女の信仰だった。彼女は信じたからこそ、自分の滅亡を是認できた。一方で、ラスコーリニコフは自我の為に他人を滅ぼしたが、そこに安息はなかった。ただ自我の漠然たる不安がある。この不安に耐えきれず、ラスコーリニコフはソーニャの住居を尋ねる。

 

 ドストエフスキーは、おそらくそういうイメージを自分の中に持っていたのではないかと思う。もちろん、実際にはもっと色々なキャラクターが出てくるが。例えばスヴィドリガイロフは失敗したラスコーリニコフである。また、ポルフィーリィは大人になり成熟したラスコーリニコフ本人とも見える。

 

 ただ、作品を貫く極限の哲学はラスコーリニコフからソーニャへ至る道に示されているように見える。作品の最後に出てくる救いの場面は、聖書で言う復活の場面である。ここはリアリズムを欠いているとすら言えるかもしれない。実際に娼婦が救われ、殺人者が救われ、二人が手を取り合うのは考えにくい。ソーニャは偶然が絡んで娼婦の身から掬い上げられる。これはご都合主義とも言えるだろう。

 

 ただ、この箇所は、聖書においてキリストの復活がリアリズムを欠いているように、現実にはないが付け加えなければ収まらぬ最後の…理想主義だと言えるだろう。この箇所はフィクションであって、嘘であるという風にも言える。あるいは牢獄でドストエフスキーが見た祈りであると思う。

 

 だが、この祈り、復活、信仰という、いわばカント哲学で言う「物自体」に相当するポイントが想起されているからこそ、人間の罪と罰といった極限的問題をドストエフスキーは徹底的に掘り下げる事ができたのだ。あの箇所はそういう場所だと思う。ここで信仰は成就する。したがって、時は停止し、現実を流れる時間は終わりを告げる。キリスト教はこのような黙示録的時間を内部に抱懐していた。鐘が鳴らされる時、現実は止むのである。

 

 だがその時は我々の現実にはついにやってこない。新しい物語は…始まりっこない。我々は苦しむソーニャを、救われないラスコーリニコフを自分達の内外に見る。だがそこで我々は作家の不誠実さを見るのではなく、作家が何を越えていったかのを見るのである。そして信仰が、論理を越えたものがなければ論理そのものも存在しないと知るのである。

 

 ウィトゲンシュタインも同じような道をたどって最後の「確実性の問題」において信仰告白をしたと言えないか。この世はあるようにある…だがそれは現世そのままのぼんやりした肯定ではなく、現世を俯瞰する強烈な精神的自立性が確立されたからこそ可能な視点だったろう。ここで物語は止む。ここでドストエフスキーは筆を置いた。そしてそれはそのままドストエフスキーが体験した事例そのままだった。それは、自我を中心として論理を組み上げる我々が逆さに辿っていかねばならない物語に、私の目には見える。

 


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