最悪の海軍記念日3
艦隊の出港を告げるラッパの音が、喨々と鳴り渡った。
広島県の呉軍港に待機していた第二艦隊の艦艇群が、次々と抜錨した。
第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「神通」が、麾下の駆逐艦12隻を引き連れ、外洋へと向かう。
第八戦隊の重巡洋艦「雲仙」「吉野」「妙高」「羽黒」、第十戦隊の軽巡洋艦「利根」「筑摩」が、二水線に続いて横須賀より出港する。
八戦隊の重巡のうち、「妙高」と「羽黒」の2隻は、もともと第七戦隊の所属艦であった。本来ならば僚艦「那智」「足柄」と共にトラック環礁の海底に身を沈めていただろうが、定期整備で本土に舞い戻っていたため災厄を免れた。
水雷戦隊と巡洋艦戦隊に続くのは、艦隊の目を担う偵察部隊――水上機母艦「千歳」「千代田」と、護衛の駆逐艦4隻だ。
偵察部隊の各艦が港外に出た時には、第二艦隊の中核となる二個戦隊――第三、第四戦隊の巡洋戦艦8隻が動き始めている。
最初に動き出したのは、第二艦隊旗艦「穂高」だ。
浅間型巡洋戦艦の三番艦であり、帝国海軍のみが保有する46センチ砲搭載艦の1隻だ。
全長278・3メートル、全幅33・4メートル、基準排水量5万6000トン。
兵装は45口径46センチ連装砲4基、14センチ単装砲12基、12・7センチ連装高角砲6基、25ミリ連装機銃28基。
同級の二番艦「戸隠」は、長門型戦艦以降、連綿と受け継がれてきた七脚檣を有しているが、「穂高」と四番艦「乗鞍」、一番艦「浅間」は艦橋の形状が異なる。
これは、「穂高」が進水したときには、すでに八八艦隊計画の初期に建造された艦に近代化改装工事が始まっていたためだ。
「穂高」「乗鞍」の2艦は、艤装工事の前に他艦の近代化改装工事の成果を生かした設計変更が行われたため、竣工時から複雑な形状の艦橋を装備することとなった。
また、補助兵装にも設計変更の結果は現れており、他の八八艦隊計画艦と同様に、時代遅れになりつつある砲郭式副砲塔の一部を撤去して、発展著しい航空機に対する備えとして高角砲と機銃が多数装備された。
ネームシップの「浅間」も対米開戦前に近代化改装工事を完了しており、「穂高」「乗鞍」と同様の姿を海上に浮かべている。
ただ1隻「戸隠」だけは、近代化改装を受ける前に戦争が勃発したため、現在では八八艦隊計画艦唯一の七脚檣装備艦となっている。
兵装にしても、主砲塔は「穂高」以下の同型艦と同じだが、14センチ副砲が竣工時と同じ16基を装備する他、12・7センチ高角砲は2基、25ミリ機銃座は14基しか装備しておらず、対空兵装が最も貧弱な主力艦となっている。
しかし、近代化改装工事の有無にかかわらず、4隻の浅間型巡戦が八八艦隊計画艦……いや、ストックホルム条約型戦艦と呼称される各国の戦艦群の中で、最大の艦載砲を備えているということには変わりはない。
4隻の浅間型に続いて、第四戦隊の赤城型巡洋戦艦4隻が順次錨を上げている。
八八艦隊計画艦の第三号艦型式であり、全長252・4メートル、全幅30・8メートル基準排水量4万1200トンの艦体に、45口径40センチ連装砲塔5基を搭載、加賀型戦艦と同等の火力を持つ巡洋戦艦として完成を見たが、装甲防御は長門型戦艦を凌ぐほど堅牢なものであり、その実態は『高速戦艦』と評するにふさわしいものであった。
全艦が近代化改装工事を終了しており、春島錨地の海底に骸を横たえた「長門」や「尾張」と同様の複雑な形状の艦橋構造物を装備し、基準排水量は4万3000トン、全長は254・6メートルに拡張されている。
主砲はそのままだが、補助兵装は他の八八艦隊計画艦と同様の14センチ単装砲12基、12・7センチ連装高角砲6基、25ミリ連装機銃28基となっていた。
第四戦隊の最後尾に着く「高雄」に続いて、第一戦隊第二小隊に籍を置く、日本海軍が保有するどの主力艦にも似ていない巨大な戦艦が続いていた。
全長は浅間型巡洋戦艦よりもやや短いが、横幅は異様なほどに広い。
八八艦隊計画艦とは異なる、すっきりした形状の艦橋や、後方に傾斜した煙突等の艦上構造物から舷側まではかなりの幅があり、主砲弾火薬庫、缶室、機械室等の艦の枢要部を守る防御装甲の厚さをうかがわせている。
前部に2基、後部に1基を、背負い式に配置している主砲塔は、世界最大の艦載砲である46センチ砲を、50口径の長砲身砲で採用し、日本戦艦では初となる三連装砲に収めている。
副砲には最上型軽巡洋艦の備砲である15・5センチ三連装砲4基を搭載している他、12・7センチ連装高角砲6基と多数が装備された25ミリ三連装機銃座が天を睨んでいる。
戦艦「大和」――全長275メートル、全幅40・2メートル、基準排水量7万8000トンという、桁外れの巨体に50口径46センチ砲9門を搭載した超重戦艦。
いくつかあった設計案のうち、最も防御力に重点を置いた設計が採用されており、艦の主要部には過剰とも言える重装甲を施された反面、重量軽減のために艦体防御には現在の主流である集中防御方式を採用されている。
そのために艦首と艦尾の大部分は非装甲区画となっているが、艦内区画には消火設備と難燃対策が徹底されており、被弾による被害を最小限に止める設計がなされている。
喫水線以下の防御力も、従来型戦艦とは一線を画すものがある。
対魚雷防御として、日本戦艦では初となる液層防御方式を採用した他、艦底部を四層構造とすることによって、水中防御も八八艦隊計画艦に比べて大幅に強化された。
八八艦隊計画艦の後を継ぐ、新たな帝国海軍の主力として計画、建造された史上最大最強の戦艦は、昭和16年12月22日に竣工を迎え、帝国海軍に引き渡されている。
初代艦長に任ぜられた松田千秋大佐が出港の指示を出す中で、第一戦隊第二小隊の司令長官である小池隆也中将は、身じろぎもせずに前方海面を見据えていた。
松田はその姿を一瞥し、海兵37期、帝国海軍きっての猛将の胸中を察した。
第一戦隊は、本来連合艦隊司令長官の直卒部隊であり、竣工した「大和」もそこに配備され、新たな連合艦隊の旗艦となる筈であった。しかしながら、「大和」が海軍に引き渡された段階で日米関係は急速な悪化を見せており、いつ戦争が始まってもおかしくないような状況であった。
連合艦隊の主力である第一、第二艦隊は交代でトラックに進出することとなったが、慣熟訓練途上の「大和」を編成に加えるわけにはいかなかった。
そのため、慣熟訓練完了まで連合艦隊旗艦は従来通り紀伊型戦艦に置かれることとなり、訓練状態の把握と、戦闘即時待機を目的に第一戦隊第二小隊が設立されたのだ。
小池中将の赴任は松田と同時期であり、「大和」の習熟度は先刻承知のはずだ。
竣工からおよそ半年、猛訓練によって乗員の習熟度はかなり高まっていると見るべきだが、それでも不安は残る。
戦艦のような大艦は、慣熟訓練に時間を要する。それが「大和」のような超大型艦ともなれば、乗員が艦内構造を把握するだけでも一苦労だ。加えて、大和型戦艦には様々な新機軸が盛り込まれており、八八艦隊計画艦やそれ以前の艦で戦艦勤務をしてきた乗員でもすぐには慣れない。
どれほど優れた性能を持つ戦艦であっても、操るのは人間だ。
乗員が未熟であれば、世界最強の主砲は威力を発揮することはできないし、被弾時に適切な対処が行えなければ、卓越した防御力を誇る「大和」といえども、累積した被害に耐えきれず沈没に至るかもしれない。
艦長としては、もちろん厳しく鍛え上げてきた乗員達の技量を信じている。それは小池中将も同じだろうが、万全を期すならば、せめてあと半月ほどは各種の訓練を積みたかった。
だが、これから始まるのは国家の存亡をかけた決戦である。トラック環礁に八八艦隊計画艦の半数を失った現在、最強の戦艦を遊ばせておくような余裕は帝国海軍にはない。
不安材料を抱えながらも、帝国海軍最強の戦艦は八八艦隊に残された巡洋戦艦8隻の航跡をなぞるように、四国の北岸に沿って進撃を続けていた。
ほぼ同時刻、東京湾と太平洋を繋ぐ浦賀水道を、巨大な艦が白波を立てながら通過していた。
最大幅はやや小さいものの、全長は赤城型巡洋戦艦を凌いでいる。大きさだけならば、帝国海軍が誇る主力艦群と比較しても見劣りしない。
ただし、八八艦隊計画艦や「大和」の持つ〝威容〟は、この艦にはない。
艦上にあるのは、広々とした甲板と、右舷に設けられた小ぶりな艦橋、左右両舷側に据え付けられた高角砲、機銃座のみで、戦艦や巡洋艦が搭載している巨砲は存在しない。
第一航空艦隊旗艦「翔鶴」が、麾下にある艦艇群と共に横須賀軍港を後にしつつあった。
後方には、第一航空戦隊の僚艦「白龍」「黒龍」が続いている。
帝国海軍が建造した正規空母としては第三号艦型式で、それまでに蓄積された航空母艦建造のノウハウを盛り込まれた設計によって、中型空母としては世界最高クラスであり、翔鶴型空母は、白龍型を拡大発展する形で建造されている。
この3隻に、第一防空戦隊の巡洋艦「古鷹」「加古」と水上機母艦「八雲」、第十一戦隊の軽巡「長良」に駆逐艦12隻を加えた19隻が第一航空部隊の全戦力となる。
第一防空戦隊の古鷹型は、世界で初めて20センチ砲を搭載し、各国の海軍関係者を瞠目させた重巡洋艦だが、現在の2隻に竣工時の面影はない。
艦の全長と全幅こそ竣工時から変化ないが、二度に渡る大改装を受けて艦橋を初めとした構造物は大きく様変わりをし、3基装備された20センチ連装砲塔はいずれも撤去された。
現在の古鷹型は、20センチ砲に代わって背負い式に積み重ねられた砲塔式の12・7センチ連装高角砲6基を装備している。また、舷側に装備されていた単装高角砲も連装砲に置き換えられた他、魚雷発射管も撤去されて、25ミリ連装機銃が増設された。
準同型艦の「青葉」「衣笠」も同様の改装を受けているが、こちらは新型の防空駆逐艦に採用が予定された新型高角砲を装備して出渠する予定だ。
海軍では、これまでの分類である甲巡(重巡洋艦)乙巡(軽巡洋艦)に加えて新たに丙巡(防空巡洋艦)の符号を定めており、古鷹型、青葉型の4隻はすでに丙巡に分類され、青葉型の2隻も出渠と同時に第二防空戦隊を組むことになる。
帝国海軍が、防空艦艇の整備に力を入れているのは、直近に行われた軍事演習において、空母艦載機の威力をまざまざと見せつけられたからに他ならなかった。
昭和12年の暮れに行われた大規模演習において、それまで〝艦隊決戦における補助兵力〟という扱いを受けていた空母部隊は、最新鋭の九七式艦上攻撃機を駆使して連合艦隊司令長官麾下の戦艦部隊を痛打し、これを壊滅状態に陥れた。
吉田善吾中将麾下の主力艦隊は、戦艦6隻のうち5隻までが撃沈判定を受け、残る1隻も航行不能に陥るほどの被害を受けており、撃沈判定を受けた戦艦の中には八八艦隊計画艦の「陸奥」「近江」が含まれるなど、完全敗北と言っていい有様であった。
演習結果に衝撃を受けた海軍上層は、戦闘経過を子細に検討し、航空兵力の戦力価値を見直すこととなり、同時に空母及びその艦載機の集中運用に目を向けることとなる。これが、後の第一航空艦隊設立を容易ならしめることになった。
一方で、この結果を招いた一因は海軍主力艦艇の防空火器の不足にあるとされ、八八艦隊計画艦は時代遅れになりつつあった砲郭式副砲の一部を撤去して対空火器を増設するなどの措置が取られ、並行して旧式艦艇の防空艦改装計画が持ち上がることになった。
この演習結果は大和型戦艦の設計にも影響を与えており、最有力視されていた46センチ砲12門搭載の、攻撃力重視の設計ではなく、搭載砲を9門に抑える代わりに防御力に優れた設計としたのは、航空機の発展を見据えたためでもある。
しかもこの演習結果は、帝国海軍の兵器整備にも多大な影響を与えていた。
現在の帝国海軍では、重巡洋艦以上の大型艦艇には対空、対水上見張用電探が装備されている。
それまでは「闇夜に提灯を灯すようなものだ」と言って忌避されていた電探が装備されたのは、同盟国であるイギリスに学んだということもあるが、遅かれ早かれ世界各国が航空機の威力に着目するだろうとの考えがあったからだ。
海軍の主力戦艦群には、やはり英国製の射撃管制用電探の導入も決定していたが、それらの機械部品やライセンス生産を見据えて発注した高性能工作機械は、目下のところシンガポール港に待機した輸送船団の船蔵に満載されている。
それらが、帝国海軍の兵器として日の目を見るかは、これから始まる艦隊決戦の結果いかんとなるだろう。
ともあれ、大規模演習後、戦艦と並ぶ海軍の主力として期待され始めた航空母艦は、中国戦線での航空機集中運用に触発された小沢治三郎少将(当時)の提唱した航空艦隊構想によって集中運用されることとなり、昭和15年7月に第一航空艦隊が設立されることとなった。
編成された当初の第一航空艦隊は、麾下の空母群を一括配備していたものの、およそ2年間の試行錯誤の中で、空母を集中配備した場合、航空機部隊の発揮する打撃力が極めて大きくなるが、攻撃を受けた場合には多数の空母を同時に失う危険があると指摘された。
そのため、現在の第一航空艦隊は、司令長官直卒の第一航空部隊と、次席司令官が率いる第二航空部隊の、二群に分かれた機動部隊によって編成されている。
空母「白龍」の後方には、新たに第十二戦隊旗艦「由良」が続く。
第二防空戦隊こそ欠いているものの、第一航空部隊とほぼ同様の陣容を持つ第二航空部隊も、一本棒を形成して浦賀水道を通過していった。
両部隊を併せれば、連合艦隊隷下の各艦隊の中で、最大の規模を誇る航空打撃部隊は、伊予灘の海面を断ち割りながら決戦場に向けて南下していった。