第五話 桜と約束
姫奈家を抜け出したボクらは山を登っていた。
暗闇に飲まれた獣道をスマホのライトで照らして進む。
木々が風に揺れる音。時々、何かの遠吠え。
ここは本当に都市部なのか。それすら怪しくなる。
故郷の山と言われても違和感が無かった。
「おじいちゃん家の裏山に似ているでしょ」
「確かにそうだけど。どこに向かっているんだ?」
「それはもちろん、頂上よ」
「こんな時間に何をしにいくんだ? そろそろ教えてくれ」
素直に聞いてみる。
デートという甘美な言葉に誘われて、家を出てみれば山の中。
てっきりコンビニに飲み物を買いに行くと思っていたのだけど。
いや、確かに飲料水は確保したのだ。それもコンビニで。
だが、あや姉はそれで帰宅せず、山へと突き進んだのだった。
「それは内緒。もうすぐ到着するんだから、ネタバラシしちゃつまらないでしょ?」
先行していたあや姉は振り返って微笑んだ。
いたずらっ子の笑みだった。
しばらく、草木をかき分けて進んでいくと、開けた場所に出た。
どうやらここが山頂のようだ。
夜のとばりが降りても眠らない、輝く都市が一望できる。
「と~ちゃく。ハル君、お疲れさま」
「着いたのか。あや姉こそ大丈夫?」
「ええ、このぐらいなら平気よ」
叔父さんから図らずもあや姉の持病のことを聞いていたので。
それが一番の気がかりだったのだけど。
あや姉は下手すればボクより元気そうに胸を張っていた。
「それで見せたかったものはココにあるのか?」
「ええ、そうよ。じゃじゃ~ん」
彼女はドラムロールを口ずさみながら、指をさす。
そこには――桜の大樹がひっそりとたたずんでいた。
数百年、いや、数千年と言われても違和感がないほど立派なもの。
花びらがシャワーのように降り注いでいる。
その根元に腰掛けて、二人で荷物をおろす。
「これは凄いな……有名な場所なのか?」
「いいえ、みんな知らない秘密の場所よ。凄いでしょ」
「まさか都会にこんな場所があったなんて……」
「えっへんっ! さあ、宴をしましょ。ポテチパーティだぁ!」
コンビニで買っておいたポテトチップスの袋を開いた。
ふたりぼっちの大宴会。
最高という他ない。
☆
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
たくさん買ってきたおやつもすぐに尽きてしまった。
「なくなっちゃったな」
「ええ、チョット物足りないぐらい」
眉を下げながら、あや姉は手についた海苔塩をぺろり。
ちょっと艶めかしい。
しかしそれより、ボクは彼女に伝えたいことがあった。
「……あや姉、今日はゴメン」
「まだ気にしていたの? あの件はお互い謝って済んだじゃない」
「でも……あや姉のことを小学生と勘違いしたのは事実だ。色々と知らなかったとはいえ、コレはボクの落ち度だ」
姫奈あやめの抱える事情は簡単なものではない。
彼女の身体に関する感情は【コンプレックス】で片づけられるものじゃない。
それを傷つけてしまった分はしっかりと謝っておきたかった。
この謝罪に意味はないと知りながら。
「……はぁ~、ビール瓶が置いてあったから、ヤな予感はしたのよね」
彼女はどこか呆れるような表情を浮かべてため息をついた。
しかし、それはボクに対してではなく。
「パパが話したんでしょ、私の過去。病気の事とかママの事とかも」
「ゴメン。聞こうとは思ってなかったんだけど」
「いいわ。ハル君にもいつかは話しておかないといけない事だったし」
全く気にしていないような。
そう見えていつまでも心の奥にしまっておきたかったような。
言葉に出来ない絶妙な表情を浮かべながら、あや姉は語りだした。
「わたしが五年前に病気を患った事は聞いたのよね?
いわゆる難病だったの。
臓器移植が必要なほどに、ね。
その時のドナー提供者がママなの。
あちこち病気してた人だったけど、その臓器は健康だったのよね。
おかげでわたしはこうして元気になったけど……
ママは……」
そこであや姉は言葉を止めた。
うっすらと涙を浮かべていた。
「あや姉……」
「……大丈夫。ずいぶん前の話だから。
それに一番つらかったのはココじゃないんだ。
病気が治ったら当然学校に戻るわけだけど。
みんながね。やさしいんだ。
――腫物を触るみたいに。
あの子は病気になった上に母親を亡くしたから。
あの子は可哀想だから。
憐れむようなやさしさよ。
それが悔しかったの。
わたしはママのおかげで生きられて嬉しいのに。
ママはわたしの中で生きているのに。
周りは決してそれを認めてはくれなかった」
彼女は奥歯をグッと噛みしめる。
見たことがない顔だった。
「だから、みんなとは仲良くなれなかったし、出来なかったわ。
代わりにね、ハル君のことばかり考えてたの。
ハル君だったら、病気のことで憐んだりしない。
ハル君だったら、ありのままのわたしを受け入れてくれる。
勝手だけど本当にそう思っていたのよ。
そう思わないと周囲に押しつぶされてしまいそうだったから」
ボクの瞳の奥を見つめて話す少女。
目を逸らしたら彼女は消えてしまいそうだった。
「だからね。
チョットだけヤだったの。
ハル君に小学生と勘違いされることが。
無理もないのにね。
ハル君は何も悪くないのにね。
まさか親戚の子がこんな風になっているなんて知らないわけだし。
わたしもハル君のことを気づけなかったわけだし。
でもね、だけどね。
お姉さんなのに大人げなく怒っちゃったの。
……ごめんね。
本当はこの話なんてしないつもりだったの。
だって、卑怯だよ。こんなの。
病気の事やママの事を盾にしているみたいで。
重いよね。なんで話しちゃったんだろう。
ハル君もこんなわたし、嫌だよね……」
「……じゃない。嫌なんかじゃないっ!」
気づけばボクは発していた。
想いはそのまま啖呵を切ったように流れ出す。
「嫌になんてなるものか。
あや姉の行動は何も間違っちゃいない。
立派だ。それでも逃げずに立ち向かったのだから。
それにさ。嬉しかったんだ。
あや姉がボクを覚えていてくれたこと。
正直、あや姉はボクの事なんて忘れて幸せに暮らしていると。
先に進んでいると思っていたからさ。
ボクはあや姉の【弟】で良かった。
そして、これからも【弟】でいたいんだ。
だからさ、嫌いになんてなるわけないだろ?」
気づけば抱いていた気持ちを全て吐き出していた。
ボクの偽りのない本心。
それを聞いたあや姉はしばらく呆然と立ち尽した後。
かすれた声でこう聞いてきた。
「……ホントに、本当なの?」
「当たり前だ。あや姉」
「ホントにわたしの弟でいてくれるの?」
「むしろボクの方からそうさせてくれ」
ボクは彼女の手を握って、頷く。
あや姉は頬を赤く染め上げて、ギュッと握り返してくれた。
こうしてボクらは【姉弟】となった。
桜の下で交わした約束によって。
……まあ、この【約束】が後に波乱の要因になるのだけど。
それはまた別のお話であり。
今日のところはひとまず、二人きりの余韻に浸っていたかった。