第三話 すれ違い
食卓に座って、牛タン弁当を口にしながら、ボクは呆然としていた。
脳内は眼前に座る少女のことで埋め尽くされている。
せっかくのごちそうも味が良く分からない。
ただ咀嚼し、喉を通るだけだった。
そのような状態に陥った原因があるとすれば、ひとつ。
――姫奈あやのに関することだ。
「あの、質問してもいいか。あや姉」
「なんなのよ。変態社畜のお兄さん」
「いや、変態でも社畜でもないけど」
「違わないわっ! ふ~んだ」
牛タンで頬いっぱいに膨らませ、あや姉はそっぽを向いた。
さっきからずっとこうしている。
どうやら虫の居所が悪いらしい。へそを曲げてしまっている。
だが、ここで対話を諦めたら、今後の生活に支障が生じかねない。
ボクはもう一度、あや姉に話しかける。
「その、なんで怒ってるんだ?」
「分からないの? 本当に鈍いね。この変態社畜っ!」
「ごめんなさい……」
ボクはあまりカンと気が利く人間ではない。
それは十五年間の人生でなんとなく理解していた。
もう少しマシなら母ともうまくやれたいけたのかな。
どうしようもない過去に思い更けていると。
少女はボクを覗き込んでこう言った。
「……本当に変わらないのね。鈍いところも無駄に気を遣い過ぎる性格も」
「そうか?」
「ええ、あの日一緒に遊んだことを思い出すわ」
「そんなことあったか?」
「お互い小さかった頃だし、覚えてなくとも無理はないけど……」
あや姉はどこか寂しそうに呟く。
しかし、彼女が言う【あの日】をボクは思い出せないでいた。
果たしていつのことを言っているのか分からない。
もう十年も前。脳のメモリーに記憶は無かった。
「それでなんで怒ってるんだ? 教えてくれ」
「前言撤回っ! 本当に気遣いが出来ない男ね」
「そうだよ。だから教えてくれよ」
ボクは誠意を見せるべく、両手をついて謝罪する。
すると誠意が通じたのか。
はたまた呆れられたのか。
あや姉はため息をひとつこぼして、ぼそりと呟いた。
「……小学生扱いしたでしょ。高校生のわたしを」
「そのことで怒っていたのか」
「そうよ。このわたしがこの体にどれほどコンプレックスを抱いているか、ハル君には分からないでしょうけどっ!」
頬をぷっくりと膨らませ遺憾の意を示すあや姉。
その姿はキレている小学生そのものだった。
しかし、ソコにコンプレックスを抱いている以上、笑う事も出来なかった。
ボクだってこの無駄に高い背丈を好ましくいない。
「あれは……悪かった。あまりに小学生っぽい反応だったから、つい」
「しょ、小学生らしい反応ぅ~!?」
「あ、ヤベ」
釈明するも、これが逆効果だったようだ。
あや姉は目尻をつり上げて、般若のような表情を浮かべた。
逆鱗に触れてしまったと思った時には時遅し。
彼女は最大限の怒りをボクにぶつけてきた。
「は、ハル君が大人っぽい反応をしたのが悪いのよ。
わたしは相手に合わせて敬語を使っただけなのよ。
それこそ高校生らしい社会性じゃない。
なのに何よ。ハル君ったらなんて言ったの?
――小学生っぽい反応って!
あんまりじゃない。
しかもよく考えてみると、わたしの方が年上なのよ。
ハル君こそ敬語を使うべきなのに。
それなのに。それなのに。それなのに……
もう知らない。わたし寝る。
ハル君なんて大嫌いっ!」
コレを一息に言い終えるとあや姉はふっと立ち上がる。
そして机をバンっと叩いて二階へ行ってしまった。
ボクはそれを呆然と眺める事しか出来なかった。
ああ、やってしまった。
口の中に苦い後悔が広がっていく。
そうだよな。身体が小さいからって子供だと決めつけて。
その逆の思いを常に味わっていながら気が回らなかった。
ほんと、あや姉にあわせる顔がないな。
ボクはどんよりと頭を抱えた。
「……悪いね。初日から」
沈黙を続けていた叔父さんは、ビール瓶を開けたと同時に話し出す。
どうやらあや姉の前では話がしづらいようだ。
「いえ、ボクが悪かったですから」
「……あやめは母に似てあまり身体が強くないんだ」
「そうなんですか?」
初耳である。それに叔母さんの事も、だ。
「……ああ、十歳のときに大きな病気をしたんだ」
「大丈夫だったんですか?」
「……命に大事は無かったよ。ただ、身体の方が、な」
叔父さんはそこでお酒を流し込んだ。
あまり美味しそうなお酒では無かった。
恐らくは苦くて苦いビールなのだろう。
「そう……だったんですか」
病名は知らなかった。別に知らなくて良かった。
しかし、ボクが知っているあや姉とはかけ離れていた。
「……あやめはね。君が来るのを本当に楽しみにしていたんだ。
お陰で久々に会話が出来たよ」
乾いた笑いが二人きりの部屋に響いた。
物悲しかった。
「……あやめは君の前では『姉』でいたいそうなんだ」
「姉ですか」
「……それをできる限り叶えてやってくれないか。
それがハル君を受け入れるたった一つの条件だ。
そして、親ばかな僕の唯一無二の願いでもあるんだ」
叔父さんはボクに頭を下げた。
大人のみっともない土下座だった。
断れない。
それ以上に断る理由なんてなかった。
ボクはただ首を縦に振った。
「ありがとう」
叔父さんはそう言ってそのままソファーで眠りについた。
随分と安らかな寝顔だった。
まずボクがすべきことはたった一つ。
明日の朝、一番であや姉に謝る事だ。