一話
最近とても暑いですね。
ひどく色彩の薄い巨大な建築物が立ち並ぶ。強迫的な色をしているのは、空から街を俯瞰している太陽だけだ。
街行く人々は皆、穏やかな顔の上に個人情報を貼り付けている。どうぞご覧下さいと言わんばかりに。もし、二十世紀の人間がこの場にいたとしたら卒倒するだろう。
五感全てに働きかけ、現実を仮想世界まで拡張させるAR(Augmented Reality)デバイスが情報の洪水を引き起こす。
今すれ違った二十代女性の個人情報。今日の天気、気圧、風速、風向、気温、湿気。自身のバイタルサイン。向いに見えるレストランの評価、メニュー、空き情報。様々な情報が拡張された視界に映し出されては消えてゆく。
全ての情報を無視して足を進め、駅構内に入る。
公共交通機関のため他の施設よりも一層広く土地が使われ、様々な店舗が並ぶもののゆとりを持った空間は、多くの人間が入り乱れる中でもストレスを生まない。更に外と同様に駅構内は淡い色のみで構成されているため、穏やかな空間が広がっている。しかし、ただ穏やかな空間だけがそこにあるというわけではなく、無数の穴が一定間隔に開けられた壁や曲折した棒が敷き詰められた天井、等間隔に設置されいる奇妙なオブジェなどが一貫した世界観を破壊している。これは外の巨大な建築物も同じ有り様だ。
きっと、人間の作ったものが生み出す何かから人間の心を守るための処置なのだろう。
一昔前の人間は公共交通機関にストレスを感じ、巨大な建築物は権力を象徴するために造られたらしい。しかし今ではストレスだとか権力といった言葉は、ほとんどの人間が知らないだろう。
言葉によって思考を規定された現代人にとって社会に対するネガティブな言葉は酸素であり、思考は空気だ。
そもそも、社会が言葉を知りすぎることを許していないのだ。あまりこの類の事を考えすぎると自身の身が危うい。パノプティコンはこの社会に於いて最大限の効果を発揮している。
崩れかけの吊り橋を渡るようなことをしながら駅の改札を抜けた。
体内に埋め込まれたチップが反応して電子貨幣が支払われる。
都心から離れた場所へ向かう便のプラットホームに降りると上空を飛んでいたshipがちょうど着陸するところだった。
「XVIの20行き」
アナウンスと共にshipの白いボディ側面の扉が開く。
仕事帰りであると推測される青い服を身に着けた大人たちが次々とshipへ吸い込まれてゆく。
僕も流されるようにshipへと乗り込む。
扉が閉まり空高くへと舞い上がる機体。
まるで、貨物船だ。積み荷は不良品をはじき、良質な工作物をパッケージ化したもの。
この過程は街中の至る所で行われている。
これ以上となくすばらしい新世界。
座席のクッションが優しく僕の体を包み込む。
ARデバイスに搭載されている音楽プレイヤーを起動する。今では音楽を聴く人はほとんどいないだろう。ましてや歌詞のある音楽を聴く人は尚更だ。
そんな前世紀の遺物を再生する。
「照らされては過ぎる空も いつしか誤魔化していた」
「目が覚めては映す景色 歩いて明日の自分へ」
曲名は「灰色の朝」。
心地よいテンポと音は僕を眠りにいざなう。
僕はそのまま目を閉じた。
再び目を開けshipの窓から外を見ると、既に夜になっていた。
そして眼下に広がるのは都心とはまるで別世界の街。
様々な色、物、人が入り乱れ、完璧に消毒された巨大な病棟のような社会とは真逆に位置すると言える社会。
完璧を諦めることによって実現される完璧な社会。
「XVIの20、XVIの20」
アナウンスと共にshipは着陸態勢に入る。
その大きな機体の重量を感じさせない程ふわふわと降下する。
shipがプラットホームに降り立つと青い服の大人たちは次々と降機し始めた。僕も降機し、改札を抜け駅構内を出る。
足を進めるとここでもARデバイスは様々な情報を次々と提示する。
これから目指すのはある雑貨店だ。何回も訪れたことがあるのでARデバイスに搭載されているマップ機能を使う必要はない。
その雑貨店には他では手に入らない古い本や音楽、絵画など様々なものが置いてある。しかしそれらは表向きには売られていないことになっている。それもそう、本や雑誌、音楽や絵画といった芸術品などは全て政府が管理しているからだ。政府公認でない著作物の売買、所持はここでは犯罪に当たる。
ある日僕は電子書籍で、昔雑貨店の主人から貰った本と同じタイトルの本を見かけたことがあった。しかし同じなのはタイトルだけであり、内容はまるで別物だった。改ざんされた文章には表情がなかった。
僕はこの時貰った本が恐ろしくなった。政府公認ではない著作物の所持が犯罪であるということに対しての恐怖ではなく、表情を持っている本の内容を恐れたのだ。
政府公認の本屋に置いてあった本からは何も感じない、しかし貰った方の本、全く改ざんが為されていない大昔に出版された時のままの本からは、何か訴えてくるものを感じた。僕はそれが怖かった。なにか心に悪い影響を与えるのではないかと思ったからだ。
そして僕は貰った本を店主に返そうと思った。しかし結局は返すことはなかった。
僕にはその恐れの元が何故か大切なものにも感じられたからだ。
その後、僕は店主から様々な本を買った。本を読むたびになにか大切なものが見えてくるような気がした。
昔の音楽も聴いた。絵画も眺め、映画というものも見た。
僕が昔のものに興味を持つきっかけを与えた雑貨屋の主人の名は麻央と言う。彼は僕と同じ十八歳だ。
麻央は色々あって学校には通わず雑貨屋を経営している。社会システムの例外中の例外だ。
彼は密かに自身で小説を書いていたりもする。あまり読ませてはくれないが、確かある少年が空想世界へ行く物語だった気がする。
少しだけしか読んでいないが確かに感じたのは、彼は本当の意味での創作をしているのだということ。
この世界で、本当の意味での創作を行うことができる人間はいったい何人いるのだろう。
語彙を減らされ、思考を規定される。枯れた言葉で綴る物語ほどナンセンスなものはない。
僕自身どの程度正常なのかわからない。ここで言う正常の意味は社会的に正常というのとは異なるが。
量るために僕も小説を書いてみようか。
そんなことを考えながら雑貨屋のある裏路地に入る。
そしてこの街では珍しい木造の扉と看板が見えてくる。
看板には「クラーウィス」と書いてある。
古びた木造の扉を開けるとカランカランとドアベルが心地よい音を立てる。
「こんばんは。まだやってる?」
そう尋ねると奥からこの店の店主である麻央が気だるそうにしながら出てきた。
「おぉ、詩織。ちょうど店じまいしようとしていたところ。で、今日は何の用?」
「今日も本を買おうと思ってね」
そう言うと麻央は少し困った顔をした。
「今月はもう買わない方がいい。程々にしておかないといつお前がこちら側に来てもおかしくない。それに最近ここら辺じゃ物騒な噂も多く聞く」
自分でも危険性は分かっているつもりだ。しかし、本は僕の心を鷲掴みにしている。
それでもやっぱり今月はもう買わない方がいいのかもしれない。XVIの20に住んでいない僕にも噂が耳に入ってきている。
「あぁ……。麻央がそう言うなら今日はやめておくよ」
「本の代わりに何か他の物見ていってよ。そこにあるのが最近入荷したもの」
麻央は雑多なものが置かれている棚を指差した。
この店に置かれているのは基本古い物ばかりで、何に使うかもわからない物も多くある。
しかし僕はこの店の雰囲気や商品がとても好きだ。
傷がついていたり、色褪せていたり、へこんでいたりするものには長い年月の記憶を感じる。これらが持つ風合いは決して人口では生み出すことができないだろう。
麻央が最近入荷したものだと言った商品もどれもこれもが独特な味わいを持っていた。
「おすすめはその棚の二段目にあるマグカップ。ブルーのテキスタイル柄が白い陶器にとても映えていていい品だと思うよ。君たちは真っ白の味気ないものしか使わないんだろ?」
「まぁそうだけど……。これを使うのは勿体なく感じるな」
麻央はやれやれといった風な顔をしながらカウンターから出てきた。
「ならこれは? ガラス製の花瓶」
「飾る花がない。それに今日は手ぶらで荷物入れとか持ってないから小さいものがいいな」
そう注文すると麻央は少し考えてから棚の三段目に置いてものを手に取った。
「これなんかどう? 三角形のヘアピン。ヘアピンにしては少し大きいけど」
外枠は黄金色で内側を薄い青で彩っているフレームは光を反射していて、とても綺麗に見えた。
しかし、僕はあまり髪が長くないからヘアピンを使う必要がない。
「綺麗なんだけど使わないからいいや」
「飾っておくだけでもいいと思うよ」
確かにこのヘアピンは飾っておくだけでも空気が華やかになりそうな気がした。
見れば見るほど本当に吸い込まれるような青と光を発しているかのように感じられる黄金色は綺麗に見えた。
「じゃあ、これ貰うよ」
「まいどあり」
代金を払い、三角ピンを受け取り上着のポケットに入れた。
「それじゃ、僕はもう帰るとするよ」
「あぁ。またなにかあったらいつでも来いよ。これから忙しくなるだろうから」
「お互いな」
そう言って僕は店を出た。
閉まりかけた扉の隙間から見えた麻央の顔は少し心配そうな顔だった。
駅へ向かおうとした時、一匹の黒い猫がこちらをじっと見つめているのに気が付いた。
猫は一昔前、ペットとして人間に飼われていたらしい。今では、見かけることもほとんどなくなっているが。
僕はオーウェルの言葉を思い出した。
自由な動物は存在しない。動物の生活は悲惨と隷属だ。これがありのままの真実だ。
今のこの世界に於いてはどうであろう。全体主義や社会主義に対する批判としての寓話的な物語であったが、今ではこの物語はこれ以上とない皮肉になる。
自由な人間は存在しない。人間の生活は悲惨と隷属だ。これがありのままの真実だ。
黒猫は目を光らせながらこちらをずっと見つめている。
気味が悪くなったので駅へ向かおうと黒猫に背を向けた。
歩を進めようとした時、背後で「にゃぁ」という鳴き声が聞こえた。
気にせず駅へ向かおうとした時、また黒猫が「にゃぁ」と鳴いた。
まるで「そっちじゃなくてこっちに来い」と言われているかのようだった。
不気味であったが気になって黒猫の方へ近づくと、黒猫は満足気に裏路地の更に奥へとこちらをちらちらと確認しながら歩き出した。
駅とは逆方向ではあるが好奇心が強く働いてしまい、僕はこの黒猫について行くことにした。
どんどん光源の少ない薄暗い道へと入ってゆく。出口のない迷路へと吸い込まれているような気分だ。
黒猫は何度もこちらを確認し少し離れると歩みを止め、近づくとまたスタスタと歩いてゆくのを繰り返している。
遂には人の気配を全く感じない所まで入り込んでしまった。
不意にARデバイスによって拡張されていた視界にノイズが走る。
どうやら機能不全を起こしたようだ。
わけのわからない言語を使い、要領の掴めない情報ばかり提示する。
ARデバイスの機能を切断して、立ち止まった。
さすがにもう引き返した方がいいのだろうか。黒猫は僕の顔をじっと窺っている。
ある少女はしゃべる兎を追いかけ、兎穴に落ちた。
その先に広がっていたのは不思議の国。
彼女の好奇心によって始まる冒険はとても奇妙で愉快なものだ。
僕は彼の少女の物語を一瞬自分と重ねた。しかしすぐに馬鹿馬鹿しいことだと思った。
何もしゃべらない不気味な猫。
穴に落ちるのではなくて自分で進まないといけない真っ暗な道。
彼女と違って僕にはそれほど好奇心はないし勇気もない。
どちらかと言うと日本という国の古い本であった神隠しを想像する。
現実的に考えてみるとこちらの方が正しいのかもしれない。
実際ここら辺では何人もの人間が突然姿をくらましているらしい。
しかしそんな不穏な思考を巡らせながらも、僕はこの先が見たいと思った。
黒猫が案内する先には何かあるのか。
案外何もないかもしれないが。
もし、何かあるとしたらそれはどんなものなのか。
気になって仕様がなかった。
僕は僕が思っていた以上に好奇心の強い人間のようだ。
好奇心は自身の身を亡ぼすことに繋がる。そんなことは分かっているが僕は再び歩き出した。
黒猫は道案内を再開する。
さあ、喜劇が始まるぞ。月は嘲笑って星は踊る。既に会場、満席状態。
そこに居るのは時計の聖者。チクタク音を立てている。隣に居るのは夢の記録者。サラサラ筆の音が聞こえてくる。最前列には機械仕掛けの独裁者。ビービー音が鳴り響く。ここに居るのは数千万のお客様。どうか皆様お静かに。
やっと舞台に演者が揃う。最後の役者をご覧あれ。
黒猫を追った黒髪の青年。
暗闇を抜けた先、待つのは一つの大きな扉だ。
それを開ければ全てが始まる。
それを開ければ全てが終わる。
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