T カメラ少年
「いつか消えちゃうものも、ここにあったって証明できるから写真はいいんです」
最後のフィルムが切れた。ファインダー越しに見てたときよりも、いくらか薄く世界が見えた。吐いた息の白さがなければ、寒さすら忘れそうなくらい僕はぼんやりしていた。
今見える海も、空も、沿岸沿いを走る車も。立っている砂浜だって。きっと時間が経てば姿が変わり、思い出せなくなるかもしれない。もちろん、僕やアカネさんだって。
「ならデジカメでいいのに。それ、けっこうかかるんじゃない? お金」
僕の首から下げたよくあるタイプのフィルムカメラをアカネさんが指差す。
「色あせた写真を見ると、それだけ時間が経ったんだって感じるんです。同時に、ちゃんと過去を忘れないでいられたって嬉しくもなるんです」
ふーん、と彼女は興味なさげに缶コーヒーを口元に運んだ。
***
「そういえば訊いたことあったっけ。チロウが写真好きな理由」
高速を降りて下道に入ってすぐだった。きっと窓の外は寒いんだるなぁとぼんやりしてた時。
「どうしたんです? 急に」
狭い道と信号が続き、のろのろ進む車。
「まだ時間かかりそうだから。退屈しのぎに」
「なら」
僕はハンドルを握るアカネさんの横顔を見つめる。
「僕が話したあと僕からも質問してもいいですか?」
「改まってどうしたの? お姉ちゃん緊張するんだけど」
茶化されたけど、僕は気にせず話した。
二年前、まだ僕が中学生の時に病気で入院したこと。病気自体は大したことなく、一週間もしないで退院した。そこで出会った、ミヤと名乗る女の人のこと。
「不謹慎なくらい明るい人でした。年齢は訊いてないですけど、たぶん高校生かなって思いました」
話し始めると、随分遠いことみたいに感じる。病院の共有スペースで色んな話をしたけど、一番印象に残っているのはパソコンに向かっている姿だ。
「なにしてるんですか?」
見慣れない眼鏡と真剣な彼女の視線に、当時の僕は遠慮がちに訊いた。
「やあ少年か。集中してて気づかなかったよ。これかい? これは物語だよ」
見せてもらった画面には、細かい字がつらつら並んでいる。
「ミヤさんは小説家なんですか?」
驚いた僕が身を乗り出すと、ミヤさんは笑って否定する。
「小説家かぁ。考えたことなかったよ。それにね、私なんかの文章を小説なんて言ったら怒られるよ」
彼らに、と背後の本棚を彼女が指差す。そこには、教科書でみたことある昔の本が詰まっている。
「大丈夫ですよ。もういなくなった人ばっかですから」
僕はいたって真面目に答えたのに、ミヤさんはキョトンとしたまま止まってしまう。
「なるほど。キミは頭いいね、少年」
そんなふうに褒められるだけで満足してしまうから、そのときの僕は随分単純だ。
それからは、パソコンに向かう彼女を見かけても、あんまり話しかけないようにした。退院する前に彼女の書いたものを読んでみたいと思ったから。その代わり、眼鏡をはずして休憩するときはよく僕に話しかけてくれた。
僕の願いが叶ったのは、けっきょく退院の前日だった。
「読みたい? だったらもっと早く言ってくれれば良かったのに」
彼女が見せてくれたのはすごく短い物語。小学生二人が夕日の中を歩いて帰る話。
「なんかキミを見てたら浮かんだだよ」
「小学生じゃないですよ、僕」
腕を組んで文句をぶつけるのに、ミヤさんはまあまあとしか言わない。
「これどうするんですか? 賞とかに応募するんですか?」
「どうしようかね。規定に沿ってないから読んですらもらえないかもね」
「なら、なんで……?」
僕はずっと、ミヤさんをただの年上の人としか感じていなかった。どこかに包帯を巻いてる様子も、体調が悪くて動けないでいるのも見たことなかった。ただの明るい、元気な人と、感じてしまっていた。病院服を着てるから、そんなはずないのに。
「いいかい少年」
まるで火事になった自宅の前で笑ったようなぐしゃぐしゃの笑顔。
「私はいつ死ぬか分かんないんだ。まだすぐじゃないけど、たぶんそんなに長くない。このままだと私は生きていた証もなくいなくなるかもしれない。だから、なにかここにいたって遺したかった。そんなとこ」
退院してから、もう彼女とは会ってない。その後どうなったのかは知らない。
***
「僕は、なんとかそこにあったものを残せないかって考えて、小説は書けないけど写真ならって」
長く、独白した。
「その人は、自分がいたことを遺したいと。チロウはそこにあったものを残したい、と。ちゃんと明確な目的があったのね」
どこか寂しそうな横顔で呟く。
「どうかしたんですか?」
いや、と返してアカネさんは車を停める。今日の目的地の入り口だった。葉のついてない枝が入り組んでいてこれ以上は車で進めない。
「連絡先でも交換すればよかったのに」
僕たちは車を降りて林を進む。
「交換してもきっと連絡取らなかったと思いますよ。わざわざ機会を作って会うような関係じゃなかったですから」
生意気、とアカネさんが僕の頭を指で小突いた。