K 読奏-dokusou-
「先輩」
本を閉じると、一つ前の席から先輩が僕をじっと見ているのに気づいた。
教室に備え付けのクーラーはもうとっくに使わない季節で、まだ僕が彼女のことを「先輩」と呼んでいた頃だ。
「ん? どうした?」
僕から目を逸らすことなく、先輩は二回瞬きをする。
外は少し冷たい風が吹く夕方。僕は自分の楽器を隣に置いていて、先輩は僕のよりも一回り小さいそれを首のストラップに引っかけていた。
もう大きな大会も終わり、運動部への応援もしばらくない。そうでなければ、さすがの僕も部活の時間中に読書の希望を出したりしない。
「ずっとそうやって見てたんですか?」
集中しているときの僕は全く周囲が見えなくなる。音も、極力意識の外にはじこうとする。ただひたすらに、文字から見えてくる世界を目の前に広げることに夢中になる。
「暇だったから」
「だったら練習してればよかったじゃないですか」
楽器を手に持ってすらいない僕の意見は、先輩には微塵も響かなかった。
「わたしは合奏がしたいんであって独奏がしたいわけじゃないんだけど。ソロパートでわたしが一番輝くのは否定しないけど」
言って、以前のコンクールで任されたソロの部分を吹き始める先輩。準備もなかったのに、同じパートの僕もため息が出るくらいなめらかな演奏だった。
ソロパートを終えても先輩は楽器から手を離さず、目を閉じたまま指を動かし楽器に息を吹き込み続けた。自分の吹かない個所ではまるでメトロノームみたいに指でリズムをとり、僕の二回の呼びかけにも答えないで吹き続けた。
けっきょく、先輩が目を開いたのは途中から始めたその曲が終わってからだった。
「どうだった」
拍手喝采が見えているかのように先輩の目が輝いていたのを覚えている。
「相変わらずすごいと思いましたよ」
「それは知ってる。けど他人から言われるとさらにうれしいね」
すごいと思った。それは紛れもない本音だ。本音だけど、それとは別に、少し寂しいとも思ってしまった。自分よりも上手に演奏する先輩。話しかけても反応が返ってこなかったとき、先輩がずっと遠くに行ってしまう錯覚に陥った。
「もし」
いつ考えても、なぜそんなことを訊いたんだろうって自問したくなる。
「もし僕が本の世界から帰ってこなかったらどうしますか?」
当時どんな顔をしていたんだろう。ふざけた顔をしていたのか、もしくは真面目な顔をしていただろうか。そのときの僕の表情は分かんないけど、僕の質問に先輩は間髪入れずに笑顔で答えたのを覚えている。
「そんなのーー」
僕の記憶の中で、先輩は笑顔のまま口を動かしている。でも声は聞こえない。質問した直後、先輩からの答えがどんなものであれ、聞いてしまったら僕の中での先輩の存在がなにか大きく変わってしまう気がしたのだ。耳は塞がなかったけど、とっさに脳が先輩の言葉を受け入れなかった。
***
視線を上げると、そこは数年前の秋の教室じゃなくて、冷え冷えとした埃っぽい部屋だった。
彼女が普段使っていた椅子から、部屋の中にあるものがぐるっと見渡せる。といってもそんなに特筆するものもなくて、ガラス窓のついた本棚や、彼女が布団のように寝転がっていたせいでひじ掛け部がへたれてしまったソファ。調子が悪いとガタガタなる扇風機などなど。そして絶妙に床に配置された本たち。
この部屋は、彼女においていかれてしまったものばかりだ。
彼女がいなくなってしまってからも、僕は定期的にこの部屋を訪れた。ドアを開けると、ソファに寝転がって反転した彼女の顔か、机の前の椅子からつまらなそうに眼下に広がる街を眺める彼女の姿を見られる気がして。
椅子に座りなおすと、わずかに椅子の関節部から音がした。机の上は、部屋に比べると奇妙なくらい片付いていた。
机の上一番上の引き出しには一冊のノートが入っている。僕はそれを取り出すと、パラパラと数ページに目を通す。もうほとんど暗記に近いくらい読み返しているけど、それでも定期的に読み返したくなる。ノートには、彼女が見たかったであろう世界と、見せたかったであろう世界のかけらがいくつも書いてある。
あの教室で、彼女はなんと答えたのだろう。どんな会話をするのが正解だったのだろう。僕は、彼女のためになにができたんだろう。
彼女においていかれた空間の中で、今も僕は独りで想う。