前日譚1
ほとんど言葉は変わらないんだなぁ、と橙香は机の上に並べた二つの教材を眺めてひとり呟いた。
並べた教材はどちらも国語のそれだ。しかし、片や橙香が生まれてから十年過ごした霊界のもの、もう片方は明日から移り住む事になる現世の日本で使われているものだ。
あちらの学び舎に転入する事は出来ないそうだが、現世は進んだ通信技術があるとかでそれを利用した教育もされているらしい。
今まで触れてきた漢字とは少々異なる形状の漢字を橙香は見つけ、額中央にある角の根元に触れる。
「珈琲、江戸時代に持ち込まれた外来品。ふぅん」
江戸時代という字面なら現世の歴史教科書を読んだ時に見かけた覚えがある。
橙香は畳の上に右手をついて、少し離れたところにある背の低い書棚の下の段から歴史教科書を引っ張り出した。
その時、襖の向こうから少女の声が掛けられた。
「橙香、入っていい?」
「いいよ」
返事をすると、襖が音もなく開く。父や母が開ける時にはこうはいかない。
部屋に入って来たのは五歳上の姉、紅香。紅玉を思わせる透き通った瞳が印象的な、妹の橙香から見ても美しい女性である。額左右にある親指大の二本の角が夜闇から紡ぎだした絹糸のような黒髪の間から覗いている。
紅香は腰まで届く艶やかな髪をわずかながら風に靡かせて首をかしげる。
そういえば、窓を開けっぱなしだった、と橙香は部屋の丸窓を振り返った。季節柄、少し冷たい風が部屋に吹き込み始めている。
「勉強していたの?」
机に広げた教材を見つけた紅香が訊ねてくる。
「現世の人がまだ怖がるから、霊界の出身者は向こうの学び舎に通えないそうよ。通信教育に使う教材は違う物らしいから、その教材だと予習にしかならないと思う」
「予習も大事だよ」
ボクには特に、と橙香は心の中で続ける。
出来のいい姉ならば、教科書を一通り読むだけで現世の言葉も把握できてしまうのだろう。予習の大切さについては認識が違っていて当然だと、橙香は思う。
案の定、紅香は小首を傾げながらも橙香の言葉に納得して、開いたままの窓の外を指差す。
「明日には迷宮に入って、明後日のお昼頃に迷宮の先の現世に到着するって。それで、なんだけどね」
紅香は机の上の教材を遠慮がちに見つつ話を続ける。
「みんなが送別会をしてくれるの。一緒に行きましょう?」
「……ボクは勉強したいから」
単なる言い訳だと自覚しつつも橙香はそれらしく聞こえるように言って視線を逸らす。人から見れば、視線を逸らした時点で言い訳であると判ってしまうだろう。事実、紅香も気付いているように苦笑した。そんな表情でさえ美しく見える。
「でも、橙香、しばらく皆と会えなくなるんだよ?」
それが送別会への出席理由になるのはお姉ちゃんの方だよ、とは橙香も口に出さない。
反応が芳しくないからか、紅香が寂しそうな顔をする。橙香は仕方なく教材を閉じて立ち上がった。
「分かった。ボクも行くよ」
「――良かった!」
にっこりと笑う姿は千重咲きの紅色椿のように華やかだ。伸ばされた柔らかく白い右手に橙香が左手を差し出せば紅香の笑顔はさらに鮮やかに輝いた。
この笑顔を向けられては拒むものも拒めない。
「じゃあ、行きましょう」
橙香の気が変わらないうちにと思ったのか、紅香は橙香の手を引いて早足で歩きだす。
手を引かれるままに部屋を出た橙香はふと思い出す。
窓を閉めていない。
しかし、どうせすぐに帰って来る。橙香は次の瞬間には開け放した窓の事など忘れて、玄関に置きっぱなしの下駄をつっかけ、紅香の細い手に引かれるまま日も傾きかけた外に出た。
送別会には橙香や紅香のような鬼一族の他にも雪女、経立などの一族からも参加者がいた。紅香の交友関係の広さを物語る光景だが、橙香からすれば見慣れたものだ。橙香はここにいる全員と顔見知りでこそあれ、友人と呼べるほど親しい間柄の者はいない。
「紅香さん、ようこそ!」
参加者が口をそろえて紅香を歓迎し、紅香が手を繋いでいる橙香に初めて気が付いたように笑顔を向ける。
「橙香ちゃんもいらっしゃい」
「お招きありがとうございます」
礼を言って、橙香はさりげなく紅香の手を離した。紅香が気付いた時には橙香は一歩、二歩と距離を取っており、紅香の手は空を切る。
橙香が開けた紅香との空間はすぐに送別会の参加者で埋まった。
かけられる声への対応に大わらわの紅香を他所に、橙香はその場を離れる。
遮る者もいない中、会場の端に並べられた料理を皿に取り分けて、橙香は壁際に立った。
橙香と同じ十歳前後の子から紅香と同じ十五、六歳の青年少女、ちらほらと二十歳くらいの大人が混ざっているのは保護者代わりに出席している紅香の先輩だろうか。
視線を一身に集めている紅香も当初は輪に入らずにいる橙香を心配そうに見ていたが、黙々と夕食代わりの料理を食べている橙香の慣れた様子に複雑そうな顔をする。
そんな紅香も別れを惜しむ参加者の声に対応せざるを得なくなり、会えなくなる寂しさに泣き出す子まで現れては橙香に気を配る余裕もなくなってしまったようだ。
一瞥さえされない橙香は窓の外を見る。いつの間にか日も落ちて、山の稜線がかろうじて判別できる程度の月明かりが庭を照らしている。
再び会場に目を向ければ、泣き出した子をうまく慰めた紅香の回りが一段と明るくなっていた。
名残惜しむような顔をする者もいるが声の調子は軽く、紅香という陽光に照らし出されて喜ぶ花のようにほとんどの参加者は笑顔を浮かべている。
輪の外に立ったままの橙香は皿を片付けて、紅香の視線に入るよう移動する。
気付いた紅香に手振りで先に帰る事を告げると、また困ったような顔をされた。
気にしちゃだめだよ、と橙香は口パクで伝えて、会場を後にする。誰にも止められずにあっさりと玄関を後にした橙香は下駄の音をカランコロンと気持ち高めに響かせてゆっくりと歩き出す。
そんな下駄の音も会場から響いた明るい笑い声に抵抗むなしく飲み込まれ、橙香はため息をついて足を早めた。
まっすぐ家に帰ろうとして、思い出したように爪先を山へ向ける。
月明かりに照らされた山道を半ばまで上り、周囲に人の気配がない事を確認して獣道に入る。冷えた空気に息を白くしながら枯れ草を掻き分けて進めば、開けた場所に出た。
「ここにもしばらく来られないんだよね……」
呟いて、橙香は月明りに照らし出された桜を見上げた。
季節外れの早咲き桜だ。桜色というには白すぎる花は満開に咲いているにもかかわらず、咲き誇ると表現できない素っ気なさがある。まだ若木なのか背も低く、橙香の背丈より頭一つ分高い程度。大人であれば見下ろすような大きさだ。
四年前に見つけた時には今の橙香と同じ程度の背丈しかなかったのだから、これでも成長した方ではあるのだろう。成長と引き換えなのか毎年付ける花の数は控えめでなおさら素っ気なさが際立っている。桜とて、橙香を楽しませるために花をつけているわけではないのだから、素っ気ないのも仕方がないのかもしれなかった。
この桜はおそらく、橙香以外には存在さえ知られていない。
この時期であれば桜よりも梅の話題が勝つ。橙香の住む家の近隣に生えている目の覚めるような紅色の梅花は香りも目が覚めるような艶やかさで、とてもではないが素っ気ない早咲きの桜が勝てるはずもないのだ。
月の薄い光に照らし出された桜は寒風の中で誰に誇るでもなく咲いている。日中でもこの様子は変わらず、橙香は毎年昼夜を問わず暇を見つけては一人で眺めに来るのだ。そこにあるのは一方的な共感でしかないのだと言葉に出来ずとも理解している橙香だからこそ、一人で。
もっとも、来年からは現世に住む関係で眺める機会もなくなってしまう。それが残念でならず、わずかに刺さるような傷みに胸を押さえた。
特定の誰かではなく桜を見られない事の方が寂しく思うのはいかがなものかと橙香自身も思う。
もっと幼い頃には友達を作ろうと積極的に話しかけたりもした。近所の住人への挨拶など今も欠かしてはいない。
それでも、周囲の目はいつも橙香の頭越しに姉の紅香に向けられる。当然だ。妹の橙香から見ても紅香の方がすべての面で優れているのだから。
これで姉妹仲が悪ければ、姑息ながらも内心で姉に対する反抗心から引け目を感じる心を塗り潰すこともできるのだろうが、困ったことに橙香にとっても紅香は魅力的で優しい姉なのだ。反抗心など欠片も芽生えない。紅香も紅香で橙香が孤立しないように気を配っているのだから、喧嘩など起ころうはずもない。引け目を感じる事さえ後ろめたくなってくる始末。
橙香はため息をついて夜空を見上げる。現世の夜は明るすぎて星が見えないと聞くから、早咲きの桜と同様に星空も見納めだ。もともと、瞬く星の配置からして違うそうだけれど。
「現世か……」
はるか昔から、いわゆる神隠しという現象で現世から来た人間が霊界で暮らした話がいくつか残っている。中には橙香と同じ鬼の一族や雪女の一族と子を成した話もある。逆もまたしかりで、霊界で神隠しにあったと思われるモノが現世で引き起こした騒動もいくつか伝わっているらしい。鬼の一族はその並外れた力で盗賊の類になった話が多く、これから現世に移り住む鬼一族の橙香としては余計な事をしてくれたものだとも思う。
ただ、現世の国、日本は霊界の住人に対して好意的でもあるらしい。身体構造の違いなどからまだまだ不都合があるそうだが、神隠しにあった先祖がやった悪行から来る色眼鏡で見られないのは救いだ。
まったく新しい環境、世界さえ違う日本でならば友達ができるのかもしれないと橙香は少し期待もしていた。
橙香は細い幹に手を添えて、花を見つめる。
「次は、誰かと一緒に――」
来るからね。そう誓おうとして口ごもる。
意思もない桜を相手にしてさえ、誓える気がしない。何年経とうと、この場所に誰かと訪れる未来を描けない。
叶えられない誓いなど罪悪感を抱えるだけだと分かっているから、橙香は続きを口にすることなく桜に背を向けた。
誓わなければ、一人でまた訪れてもいいはずだから。