第二十五話 膨れトカゲ
安定した戦いが繰り広げられたのは最初の十分ほどの間だけだった。
「やっぱ盾が薄いっすね!」
御淡田が悔しそうに叫ぶ。クラン『剣と盾』は元の人数の半分に減っており、どうしてもカバー出来る範囲が狭い。
膨れトカゲを押さえる役割である御淡田たちが苦しくなれば、彼らが作った隙を突くために控えているクラン『衣紋』の四人の動きも制限されてしまう。
「仕方ない。俺もタンクに加わる。お前らは隠れて隙を窺ってくれ」
矢伊勢が抜き身の日本刀と鞘を手に持って膨れトカゲの左斜め前から攻撃を仕掛け、自身の存在をアピールする。
膨れトカゲの頑丈な鱗を削ぐように刃を斜めに滑らせるが、完全に削ぐ前に膨れトカゲが身をよじって矢伊勢を振りほどく。それでも、矢伊勢の存在を認識した事で注意が御淡田、猿橋の二人からも分散した。
膨れトカゲの注意が左側へと傾いたのを好機と見て、残りのメンバーが一斉に攻勢に移る。
「鱗を削ぐことに専念するぞ」
「分かってますとも」
日本刀を引っさげて水の抵抗をものともせずに突っ切る『衣紋』のメンバー。
「重量と遠心力で叩き切るよ!」
「あいさー」
間巻を筆頭に薙刀を頭上から振り降ろしながら刃を延長して尻尾を切り落としにかかる『空転閣』の四人。
迫りくる刃に気付いた膨れトカゲの反応は劇的だった。
「――は?」
誰が漏らした疑問の声なのか、判別は付かない。
建物の陰に控えて南藤の護衛をしながら成り行きを窺っていた橙香が見たのは、膨れトカゲの身体が十倍にも膨れ上がって刃を軒並み弾き飛ばす瞬間。
一瞬で膨張した膨れトカゲの身体に押しのけられた大量の水があたかも大波のように押し寄せ、御淡田、猿橋、矢伊勢の三人を呑みこみ押し流す瞬間。
そして、丸々と巨大化したその体で最も近くにいた『衣紋』の帆無目を押し潰そうと動き始める瞬間。
「――芳紀!」
橙香の呼びかけに答えて、ドローン毬蜂が目の前に高速で降りてくる。無造作に毬蜂を掴んだ橙香は膨れトカゲの頭めがけて全力で毬蜂を投げ飛ばした。
鬼の膂力で投げ飛ばされた毬蜂が帆無目を押し潰さんとしていた膨れトカゲの目玉めがけてパイルバンカーを打ち込む。
カンッと目玉に打ち込んだとは思えない甲高い音が響き渡り、膨れトカゲが怯んだ。
「帆無目さん、逃げて!」
「助かりました!」
橙香のファインプレーにより作られた膨れトカゲの隙を突き、帆無目はその場を離脱する。
帆無目が建物の陰に隠れるのを見届けて、橙香は膨れトカゲの目を見た。
パイルバンカーを打ち込まれたはずの膨れトカゲの目は健在だった。音から推測はしていたが、鱗だけでなく眼球までもが物理法則を無視した頑丈さらしい。魔力で構築された肉体故の強度だ。
膨れトカゲが忌々しそうに毬蜂を見上げる。パイルバンカーを打ち込んだ反動を利用して再び空へと上昇した毬蜂は膨れトカゲを挑発するように空中をふらふらと飛び回っているが、その実、膨れトカゲが発生させた大波に押し流された御淡田、猿橋、矢伊勢の三名を探してカメラレンズをあちこちに向けていた。
「見つからない?」
橙香の問いに、南藤はスマホ画面を見つめながら頷く。
膨れトカゲの注意を引いていた三人がいないため、大波の難を逃れた攻撃組も迂闊に仕掛けられずにいるようだ。
南藤が膨れトカゲを指差し、橙香を見る。
「……いけって事?」
「そう」
言葉を発するのも苦しいだろうに、南藤は橙香の目を見つめて促す。
確かに、橙香の鉄塊はこの場で唯一の鈍器であり、超が付くほどの重量級武器であり、鬼の橙香の膂力であれば膨れトカゲがいかに強固な鱗を有していようと有効打を与えられる可能性がある。そうでなくとも、橙香であれば膨れトカゲの注意を継続して引き続ける事が出来るだろう。
しかし、南藤は無防備となる。大波という広範囲を攻撃する方法を持つ膨れトカゲや殺人鬼がいるこの戦場で、自衛能力のない南藤がどうなるかは火を見るより明らかだ。
だが、このままでは全滅するのもまた事実。
橙香は声を張り上げる。膨れトカゲではなく、連合パーティー全員に届くように、警告するために。
「芳紀には絶対に近付かないでください。近付いたら、ボクが殺します」
聞いた者が全身を包む悪寒に身震いするほどの威圧を込めて橙香は宣言する。
同時に、鉄塊を腰だめに構えて膨れトカゲへ吶喊した。
迫りくる小さな影と不釣り合いに無骨な鉄塊を視界に収めた膨れトカゲが顔を向け、足元の水を吸い込み、橙香に向けて吹き付けた。
橙香は腰だめに構えていた鉄塊を全力で振り抜き、膨れトカゲの吹き出した水に足元の水を叩きつけて対抗する。橙香が打ち上げた水に押されて膨れトカゲの吹き付けた水が弱まる。
橙香が打ち上げた水が晴れた時、その場に橙香はいなかった。
膨れトカゲが視線を左右に走らせた直後、その額に黒い影が一瞬だけ走る。影に気付いて視線を上げた膨れトカゲの瞳に、鉄塊を振り上げて頭めがけて降りてくる橙香の姿が映った。
鉄塊が振り降ろされる。
膨れトカゲが纏う鉄壁の鱗に亀裂が走り、頭が地面に叩きつけられて水しぶきが四方に打ち上がる。
地面に降り立った橙香はすかさず膨れトカゲの横っ面に回し蹴りを叩き込んだ。
巨体が傾ぐほどの凄まじい衝撃に膨れトカゲの生存本能が悲鳴を上げる。
「ガァァァアッ!」
雄たけびを上げた膨れトカゲが体を即座に膨張させて橙香を弾き飛ばしにかかる。橙香は鉄塊を正面に構えて盾にし、膨張に逆らわず後方へ跳んで無傷のままやり過ごすと地面を蹴りつけるようにして再び膨れトカゲへ距離を詰めた。
膨張した膨れトカゲの腹部へ鉄塊が叩き込まれる。膨れトカゲの膨張した体が波打ち、膨れトカゲが口から水を零した。
橙香が押しているように見えたのはそこまでだった。
橙香の直感が身に迫る危機を告げ、反射的にその場を飛び退く。
直後、膨れトカゲの全身が水に包まれた。透明なホースの中を行くように空へと打ち上がった巨大な水の帯が建物の天井を跳び越えてどこかへと伸びる。
膨れトカゲの巨体が水の帯の中へと吸い込まれるように移動し、そのまま帯を泳ぐように宙へと浮き上がる。
周囲の水を魔法でかき集めて作った水のトンネルを利用して戦場から離脱するつもりなのだと気付き、橙香は鉄塊を肩に担ぐように構えて水のトンネルに駆け寄る。
「逃げるな!」
すでに水のトンネルを滝登りでもするように昇り始めている膨れトカゲの尻尾に向かって鉄塊を叩きつける。鉄塊の圧力に耐え切れなかった水がトンネルから外へと漏出するが全体からすれば微々たるものだ。膨れトカゲは尻尾の先に叩きつけられた衝撃に苦悶の声を上げるが反撃はせずにそのままトンネルの中を泳いで建物の裏へと消えて行った。
追いかける事は出来ない。建物の陰まで追いかけてしまえば、南藤を視界に収めていられなくなり、本格的にその身が危ぶまれるからだ。
どう動くべきか、悩んだその時間が致命的な損失だったと気付いたのは、水のトンネルが網目状に張り巡らされた時だった。
膨れトカゲが水のトンネルを泳ぎ始める。四階建ての建物のさらに上を悠然と泳ぎながら、膨れトカゲは憎々しそうに橙香を見下ろしていた。
水のトンネルを泳ぎながら建物のそばに到着した膨れトカゲが突然膨張する。巨体に押しのけられた建物が崩れ、瓦礫が降り注いだ。
頭上から落ちてくる瓦礫を見て、橙香は冷静に数歩下がって避ける。落ちてくる瓦礫の一つを空中で無造作に掴みとると、鉄塊の先に乗せて膨れトカゲに向けて投げ飛ばした。
投げ飛ばされた瓦礫は風切り音を奏でて膨れトカゲに迫り、その膨張した体に衝突する。
衝撃を受けた膨れトカゲが体を元のサイズに収縮させ、水のトンネルに体を隠した。
瓦礫での攻撃も効果が薄いと判断したのか、膨れトカゲが泳ぐ水のトンネルが戦場から遠く離れた地点へとその終端を届かせた。
このまま逃走するとは思えない。橙香は膨れトカゲの次の行動を見守っていたが、その目的に気が付くと同時に南藤の元へと走り出した。
「みんな、隠れて。大波が来るよ!」
橙香が叫ぶと、矢伊勢たちが建物へと駆けだす。
膨れトカゲが向かう先は他に比べて圧倒的に水深が深く、水量が豊富な場所だ。
南藤のそばに到着した橙香はスマホを覗き込み、ドローン毬蜂から送信されてくる映像を確認する。
膨れトカゲは水量が豊富な目的地の上空に到着するや否や、その体を膨張させて体積を十倍以上に増やすと自由落下を開始する。
着水と同時に押しのけられた大量の水が大波となって周辺の建物を押しのけ、押し潰し、押し流して濁流を形成し、多大な質量をもって橙香たちのいる浅瀬へと押し寄せた。
建物が堤防となって大部分を食い止めたが、建物と建物の隙間へと殺到した水は鉄砲水となって橙香たちの元へ押し寄せる。
橙香は南藤の身体を押さえ、機馬にしがみついて水をやり過ごして周囲を見た。
「……みんな、どこ?」
瓦礫が転がる廃墟の中、魔法陣の光がうっすらと残っていた。
鉄砲水をやり過ごすため、共通の建物に入った連合パーティーの面々を殺人鬼がテレポートさせたのだと気付く。
鉄砲水が押し寄せた建物が倒壊していく。殺人鬼は倒壊の予兆を察知して、背に腹は代えられないとテレポートを発動したのだろう。他の連合パーティーを巻き込んだのは、自分だけがテレポートした場合に怪しまれるからか。
いずれにせよ、再合流まで橙香は南藤を守りつつ膨れトカゲに対峙しなくてはならない。
そもそも再合流が可能なのか。連合パーティーのメンバーからすれば、橙香と南藤を囮として階層スロープへ駆け戻り、態勢を立て直すのも一つの選択肢となるはずだ。
もしもそうなら、橙香も南藤を連れて階層スロープへ急ぐべきかもしれない。
空中を網目状に張り巡らせた水のトンネルを通って膨れトカゲがやってくる。
考える時間はもうない。
橙香が徹底抗戦を覚悟したその時、機馬に押し付けていた南藤が身じろぎした。
橙香は慌てて押し付けていた手をどかす。
すると、南藤は無線機を片手に自然な動作で起き上がった。
「――状況把握」