第二十六話 マスター権限
南藤が魔力酔いで倒れたと無線機で報告を受けた橙香は消えていくバフォメットの死骸も無視して全速力で駆け戻った。
機馬の上に横たわっている南藤を前におろおろした後、橙香は水筒を機馬の収納スペースから取り出して南藤に飲ませ、水にぬらして絞った布を額にあてがう。
甲斐甲斐しく世話をし始める橙香を眺めながら、室浦は帰ってきた大塚と合流した。
「先輩、死に損ないましたね。ざまぁみろです」
「……うっせぇ」
バフォメットの討伐が成功して命の危険もなくなったことから、冒険者たちは怪我人の対処や遺品の回収に追われている。
バフォメットとの戦闘中に室浦から聞いた告白染みた台詞が頭をよぎった大塚は室浦に背を向けると遺品回収を手伝うべく歩き出す。
少しでも室浦から距離を取っておきたかったからなのだが、大塚の気持ちに気付いているのかいないのか、室浦は何食わぬ顔でついてくる。
どうやら逃げる事は出来ないらしい、と大塚は高枝切りばさみの柄を短くしながら室浦を見ずに声を掛ける。
「高校ん時からか?」
「……最初からばれてたんじゃないですか」
「あんまり接点なかったから、当時は気のせいだと思ってたがな」
ダンジョンに潜る復讐鬼と化した大塚を追いかけてきはじめた時点で気のせいが核心に変わりはしたが、構う余裕はなかった。
「オレはあいつ一筋だ。他を当たれ」
「改めて言われなくても知ってますよ。その上で追っかけてるんです」
「……勝手にしやがれ」
どうせ言っても無駄だ、と大塚は匙を投げる。
遺品の回収に加わる大塚と室浦にすれ違ったクラン『早田市冒険者グループ』の面々は小野を先頭に橙香と南藤の元へ向かった。
「橙香ちゃん、マスター権限を持っているならダンジョン内限定のテレポートを使えるはずだ。怪我人をダンジョンの入り口に転送してほしい」
「テレポート?」
現実感を伴わない単語に橙香は首を傾げる。
小野は怪我人たちを指差してつづけた。
「説明は後だ。ダンジョンの出入り口を思い浮かべてから転送、と念じてくれればいい。外にいる自衛隊員への説明もあるから、俺たちを先に転送してくれれば話を通しておこう」
「なんかよくわからないけど、分かった」
橙香が頷くと同時に、南藤がのろのろとスマホを持ち上げる。画面には乙山ダンジョンの入り口付近の画像が表示されていた。
「ありがとう、芳紀。じゃあちょっとやってみるね」
橙香がそう言って画面を見つめて「転送」と呟く。すると、空間が切り取られたように高さ二メートル、幅二メートルほどの裂け目が出来た。
「おぉ、本当にできた」
「見るのは初めてだけど、こんな事もできるんだね」
小野の妹が珍しそうに空間の裂け目を見つめる。
裂け目を覗くとダンジョンの出入り口が見えていた。監視役の自衛隊員が驚いたように無線連絡をしているが、出入口にいる橙香たちを見て安堵の息をついた。
小野が怪我人たちに呼びかける。
「怪我人から優先して運んでくれ。魔力が減ると使えなくなるらしいから可能な限り急ぐんだ」
「――ッしゃあ、外だ!」
我先にと小野たちや怪我人を押しのけて裂け目を潜る一団がいる。クラン『†慈悲深き電光†』の四人だ。
しかし、四人は裂け目を出た瞬間に待機していた自衛隊員に取り押さえられる。続々と駆け付けてくる自衛隊の応援に目を白黒させている『†慈悲深き電光†』の四人に、小野が呆れたように声を掛けた。
「マスター権限の問題があるんだから全員一時拘束に決まってるだろうが間抜け。戦闘中は息を潜めてたくせにマジで自己中だな。あ、自衛官さん、そいつらは身柄拘束しておいてください。階層スロープ発見報酬の横取りを狙った証拠もあるので、後で被害届出します」
「はい、了解しました。それより、怪我人の方がいるならすぐに運んでください。救急車も呼びましょうか?」
「お願いします。重軽傷合わせて十人以上いるので」
小野の報告を受けた自衛隊員が連絡している間に怪我人が続々と運び出される。
怪我人を全員出す頃には遺品の回収を終えた冒険者たちが外に出て、最後に橙香と南藤がダンジョンを後にした。
すぐに自衛隊員に両脇を固められる。
「異世界貿易機構への同行をお願いします」
※
ダンジョンを出てすぐに入り口を固めている自衛隊員に同行を命じられた橙香と南藤は異世界貿易機構に連れて行かれ、職員である杷木儀赤也に事のあらましを説明した。
「まさかたったの三か月で乙山ダンジョンのボスを倒すとは思いませんでしたよ」
そう言って、杷木儀は笑った。
杷木儀はマスター権限に関する資料と共に報告書や契約書を橙香の前に並べる。
「さて、冒険者である以上はすでにご存じの事と思いますが一から説明させていただきます。規則なので」
杷木儀は前置きして、話し出す。
「乙山ダンジョンに限らず、ダンジョンは別の世界に通じているいわばトンネルのようなものです。そして、マスター権限はダンジョンへの出入りを制限する機能があります。まずは橙香さん、ダンジョンを出てすぐに自衛隊の方からダンジョンを閉鎖するように指示されましたね?」
「はい。ちゃんとダンジョンの出入りを禁止しましたよ」
「結構です。それと、今後は虚偽申告があった場合、罪に問われます。また、マスター権限の行使に関しては特別法により黙秘権が適用されません。聞かれた事には正確に嘘偽りなく答えてください」
脅すような言葉だが、杷木儀は淡々と事実のみを告げるように話す。
やましい所はなくとも不安になった橙香が隣に座る南藤の服を掴んだ。ダンジョンの外に出たことで、南藤の魔力酔いも完治している。
杷木儀が苦笑して、説明を続ける。
「ダンジョンがトンネルならば、マスター権限はいわば関や検問にあたります。ダンジョンの先にある異世界が我々に対して友好的とは限らないため、ダンジョンの攻略後は即座に魔物の生成機能の停止と出入り禁止を行う事が義務となっているんです。ダンジョンを通って異世界の軍隊が送り込まれてきた、なんて話もありますからね」
自国防衛のためです、と杷木儀は締めくくり、契約書を橙香の前に置いた。
契約書には乙山ダンジョンマスター権限譲渡契約書と書かれている。
「先ほど申し上げた通り、マスター権限は我が国の国防上、非常に重大な意味を持つモノです。このマスター権限が存在するからこそ、冒険者になるには国籍保持者であること、などの規定が存在しています。橙香さんの場合、霊界政府との条約により日本でも冒険者としての活動が制限付きで認められていますけどね」
そんな冒険者でも、マスター権限を一時的に預かれるというだけで取得時には速やかに国に譲渡しなければならないらしい。
橙香の前に置かれた契約書は国の代理人へマスター権限を譲渡する事を確認するためのものだ。
杷木儀が契約書について説明し、最後に答えが決まりきった質問を橙香へ投げかける。
「譲渡しますか?」
「します」
「ありがとうございます。とはいえ、譲渡する相手は私ではありません。後で代理人の方がいらっしゃるのでその方の前で顔を見つめて、この人に譲渡すると念じてください」
「分かりました」
「さて、マスター権限の価格の方ですが、契約書にある通りの内容でよろしいですか?」
契約書に書かれているマスター権限の譲渡価格は五百万円。加えて、ダンジョンの先に存在する異世界との貿易が行われる場合には貿易額の五千分の一の金額が橙香の口座に振り込まれるという。
冒険者は基本的に儲からない。だが、マスター権限を取得できれば話は変わってくる。そう言っていたクラン『踏破たん』の荏田井を南藤は思い出した。
貿易額に応じてその都度に振り込まれるマスター権限の報酬は一攫千金の可能性を秘めている。たしかに、これを取得できるのであれば財政事情も変わってくるだろう。もっとも、貿易が成り立つかどうかも不明である以上、あてにするのは危険だ。
特に資金繰りで困っているわけでもない南藤と橙香は譲渡契約書に同意する。値段を吊り上げられるとも思えなかった。
後でボス戦に参加した冒険者と協議して配分を決めないといけないな、と南藤は予定を組み立てる。
「一つ、良いですか?」
契約書にサインしながら、橙香が杷木儀に訊ねる。
「乙山ダンジョンの先の異世界に行ってみたいんですけど、すぐに行けますか?」
「すぐには無理ですね。向こうの環境が知性体に害を及ぼす可能性もあるので、まずは調査を行ってからとなります。その上でなら、ボスを討伐した冒険者として調査に随行する権利がありますよ。その際に向こうの世界の写真を撮り、日本で売買するなども可能です。手続き書類をお持ちしますか?」
「お願いします!」
身を乗り出してくる橙香に驚いた杷木儀は身を引き、頷きを返した。
「分かりました。霊界へ通じるダンジョンを探しているんでしたね。気になるのは当然でしょう。しかし、マスター権限を譲渡される代理人が到着したようなので、それを済ませてからになります」
部屋から一度も出ていない杷木儀がどうやって代理人の到着を知ったのか、と橙香が首を傾げる。
だが、杷木儀はバイブレーション機能で振動するスマホを取り出して通話相手と二言三言会話をすると、部屋の扉の方へ歩いていった。
「どうぞ、こちらです」
扉を開けた杷木儀が廊下に呼びかけると見事な総白髪の男性が護衛らしき黒服を二人連れて入ってくる。どこかで見た事のある顔だと思えば、県知事だった。
「お待たせして申し訳ない。道路が混雑していたものでしてね」
右手チョップで謝罪の意を表しながら県知事が用意された椅子に腰かける。
「乙山ダンジョンが攻略された事がもう噂になっていて、住人の帰宅ラッシュが早くも始まっていましてね。道路が混んでいるんですね。次のダンジョンへ向かう冒険者の方々も一斉に帰っているので道路はあちこちで渋滞ですよ。お二人は車ですかね?」
世間話を始める県知事の肩を杷木儀が二度叩いて中断させる。
「申し訳ありませんが、お二方はダンジョン攻略後にすぐこちらに来ていただいていますので、ずいぶんとお疲れのはずです。手短に用件だけ済ませて頂けませんか?」
「あぁ、これは気が付かずに申し訳ない。では、さっそくマスター権限の譲渡をお願いしますね。今はどちらがお持ちですかね?」
きょろきょろとせわしなく南藤と橙香を見比べる県知事に、橙香が軽く手を挙げて視線を誘導する。
県知事はまなじりを下げて、頷いた。
「孫がこのくらいの歳だ」
「もうすぐ二十歳になるお孫さんが?」
「……半分くらいの年齢だ」
訂正する県知事に橙香が一瞬むっとする。今度は南藤が橙香の肩を叩いて話を中断させた。
杷木儀が苦笑を浮かべて南藤と視線を交わす。どちらともなく肩を竦めた。
「それでは、マスター権限の譲渡をお願いします」
杷木儀が音頭を取ると、橙香はじっと県知事の顔を見つめる。皺を数えていると県知事が知ればどんな顔をするだろうか。
「マスター権限を譲渡します」
「口に出さなくても結構ですよ?」
「いえ、こっちの方が集中できる気が――あ、できた」
橙香が感覚的に何かが失われたのを自覚して呟くと、県知事の身体がピクリと震えた。
自らの手の平を見た県知事は不思議な感覚に戸惑うように瞬きを繰り返す。
「ふむ、ダンジョンの事が頭の中に浮かんできますね。譲渡に成功したようです」
きちんと譲渡できたかどうかをダンジョンの閉鎖を解けるかどうかで判断してくるという県知事たちを見送って、南藤と橙香は彼らの帰りを待つ。
「芳紀、ヤギ料理食べられる場所を探そうよ」
「そうだな。検索してみるか」
ジビエ料理になるのだろうか、とあたりを付けながら、南藤はスマホで検索を開始した。