第二十三話 乙山ダンジョンボス
第七階層は明るかった。
だが、ただ明るいだけではない。
「雪だ……」
橙香が見上げた空から白い雪が降り落ちてきている。
日中の明るさの中、灰色の雲から大粒の雪が不自然なほどゆっくりと落ちてくる。積もった雪で覆われているのは第六階層と同じ大小さまざまな浮島だ。
「爆弾綿毛の見分けがつかないよ、これ」
真っ白な爆弾綿毛をこの不自然にゆっくりと動く雪の中から見分けて適切に対処するのは非常に難しい。
ただでさえ魔力強化されたライオットシールドを吹き飛ばす爆発力を持つというのに、発見すらも難しくなったのだ。この階層を探索する場合、多数の犠牲者が出るのは間違いない。
と、そこで橙香はある事に気付いて周囲を見回した。
ヘルメットを被った四人組みクラン『†慈悲深き電光†』とそれを追いかけて行った大塚、室浦の姿がない。
いや、それだけではない。
「魔物が一匹もいない……?」
雪が落ちる音さえ聞こえてきそうな静寂に包まれている。人間に比べて視力が良い橙香でも周りに動く影を確認できなかった。
その時、プロペラの回る音が聞こえてくる。
傍らから飛び立ったのはドローン毬蜂。高所から探すことのできるドローンであれば、橙香から死角になっている場所までも捜索は可能だ。
「芳紀、捜索はお願い。ボクは万が一に備えるよ。この階層は今までと明らかに雰囲気が違うから」
「おえっぷ」
「とりあえず南に向かったのは決定だね」
階層スロープがある小島は半径五十メートル程度と小さな島だったが、別の浮島への橋は南に向かう一本しか存在していない。
必然的に、クラン『†慈悲深き電光†』などは南に向かっているはずだ。
二十メートルほどの短い橋を渡る。雪に混じって飛んでいるかもしれない爆弾綿毛の危険性を鑑みて慎重に行動せざるを得なかったが、短い橋でもあるためすぐに渡り切れる。
新たな浮島に到着して、三方向に伸びる橋のどれを渡ろうかと周囲を見回したその時、階層スロープの方向から橙香を呼び止める声が聞こえてきた。
振り返ると、見覚えのある冒険者の集団が手を振っている。
「二人とも、ちょっと待って。事情を聞かせてくれ!」
「――小野さん?」
以前、南藤が初めてダンジョンで魔力酔いにより気絶した際に同行していたクラン『早田市冒険者グループ』のリーダーの姿を見つけて、橙香は驚く。
彼らは今回募集に応じた冒険者の中に含まれていなかったからだ。
小野は仲間の三人を連れて橋を歩いてくる。安物にしか見えない魔力強化済みのビニール傘も健在で、この雪の中で差して歩いていられるのは少し羨ましくもあった。
「第六階層の探索中にいきなり冒険者が増えたと思ったら、無線に階層スロープの情報が入ったから追いかけてきたんだけど、二人は何を慌ててるんだ?」
立ち話をしている暇はない、と一瞬思ったが、現在は南藤がドローンで大塚たちを捜索している真っ最中だ。下手に動くよりは南藤の捜索結果を待った方がよいと考えなおした橙香は小野たちクラン『早田市冒険者グループ』の四人に事情を説明する。
話を聞き終えた小野はメンバーを振り返った。
「どうする? 要救助者は割と自業自得のところがあるぞ」
「でも捨て置けないんですね、分かります」
「妹をビニール傘一本で守っちゃう系男子だからなぁ」
「それ以前にこの階層、ほぼ確実に――いるよね」
小野の妹が呟くと、全員が頷く。
「いるって、ボスですか?」
橙香の質問に再度頷いた小野は話を続ける。
「ボスが出たら撤退する。要救助者が見つかっていなかったとしてもだ。この戦力で倒せるほどダンジョンボスは甘くないからな」
「ありがとうございます」
橙香が礼を言った時、南藤がスマホを頭上に掲げた。
すぐに橙香は画面を覗き込み、リアルタイムで撮影中らしき映像を確認した。
「見つけたんだね。芳紀、この四人はどこ?」
南藤が見つけ出したのはクラン『†慈悲深き電光†』の四人だ。物陰に隠れているのは、後を追いかけてきている大塚たちに気付いているからだろう。報復されないように身を隠し、ほとぼりが冷めたら何食わぬ顔でダンジョンの外に出て第七階層の発見報酬を横取りするつもりでいるのだ。
南藤に問えば、大塚と室浦については未だ捜索中だという。
ひとまず、四人組の元へと向かおうと橙香たちは四つ先の巨大な浮島へと向かう。
道中、階層スロープから出てきた募集組の冒険者が続々と到着を知らせる無線を飛ばしてくる。それらに対しての状況説明を行いつつ、橙香は南藤のスマホ画面に映し出されている四人組を確認した。
小野が同じように画面を覗き込み、眉をひそめる。
「こいつら、無線機の電源を切ってんな。着拒かよ」
「まぁ、横取りしたって自覚があれば抗議を聞きたくないって事で無線機の電源を切るのは分かるけど。悪い事だって理解してんなら最初からやるなよ。とっ捕まえて説教してやろう、お兄ちゃん」
小野妹は呆れ顔で進行方向に目を凝らす。降りしきる大粒の雪の中を見透かすように間近に迫った巨大な浮島を見つめた。
浮島の大きさは優に半径三十キロメートル。ほとんどが雪原だが、東西には低い山、南北には林が存在している。さらに、雪原部分は一部に人工物らしき建物が存在している事が、ドローンによる航空撮影で判明している。
捜索対象の『†慈悲深き電光†』はこの建物に隠れた事も南藤が突き止めていた。距離の問題もあって無線機では連絡が取れないらしく、大塚たちは応答しない。
「芳紀、室浦さんたちはまだ見つからない?」
南藤は頭を不必要に揺らさないようにゆっくりと首を振る。
第七階層に降りてからというもの、南藤の魔力酔いはより酷くなっていた。階層を降りるごとに酷くなるのはいつもの事だったが、橙香の目から見るとどうにも一段飛ばしに症状が悪化したように見えるのが気がかりだ。
南藤の魔力酔いは空気中の魔力の濃度に影響を受けている。魔力濃度が高いほど危険な魔物が出没するとの冒険者の経験則に照らし合わせれば、この階層にはダンジョンボスが出現する可能性が高い。
人探しをしている南藤に代わって自分が索敵しなくてはと、橙香は周囲に目を凝らす。
巨大な浮島に到着して後ろを振り返れば、冒険者の集団が周囲を警戒しながら向かってきていた。俗に復讐鬼と呼ばれる類の冒険者も混ざっているためか団体行動が出来ていないものの、この階層の違和感やダンジョンボスがいる可能性については気付いているらしい。無線でもたびたび魔物を見かけたかどうかを周りに問いかける声が入ってくる。
先に位置が分かっている『†慈悲深き電光†』と合流しようと橙香が足を向けた時、南藤がスマホを掲げた。
大塚と室浦が見つかったらしい。
画面に映し出されているのは巨大浮島の内部、『†慈悲深き電光†』が潜伏している建物の近くだった。
「急ごう」
小野がそう言って足を早める。
建物が乱立する場所は林を越えた先にある。
地面に雪が降り積もっていて歩きにくいが、魔物が出てこないためペースはあまり落ちない。
不気味な静けさはこの林も変わらず、雪の重みに耐えかねた枝が折れる音やしなって雪を振り落とす音が聞こえる程度だ。
「これさ、雪の中に爆弾綿毛が埋まってたら酷い目に合うよね」
「地雷かよ。あり得ない話じゃないのが怖いな。みんな、用心してくれ」
そんな心配をよそに、無事に林を抜けた橙香は無線機を取り出して大塚と室浦に呼びかける。
『室浦さん、聞こえますか? 四人組は建物の中に隠れてます。合流して、ダンジョンボスの危険性を伝えてください』
『こちら室浦。橙香ちゃん、置いて行ってごめん。四人組の隠れてる建物ってどこにある?』
ようやく通じた。ほっとしながら橙香は南藤を見る。
南藤は出力した地図の二点を人差し指と中指で押さえていた。人差し指で地図を叩いている。
『室浦さんたちのいる建物から北東に三キロメートル弱進んだところにある二階建ての建物に逃げ込んだのはドローンで確認しました。その後、建物からは出ていないはずです』
『分かった。探してみる』
連絡を終えるとすぐに南藤が掲げたスマホ画面に動きがあった。大塚と室浦が建物を出て北東に向かったのだ。
大塚と室浦は積雪をものともせずに走っている。魔力強化で身体能力を上げているのだろう。
捕捉された四人組が逃げ切れるとも思えない。
一安心しつつ、合流するため方向を微修正して向かう。
林を抜けるとすぐに小野が前に出てビニール傘を前に突き出した。
「急ぎだから、ちょっとズルをするぞ」
小野が呟いた直後、ビニール傘が高速で開く。次の瞬間、ビニール傘が開いた衝撃で風が巻き起こり、正面の雪を吹き飛ばした。
露出した地面を走りながら、小野は突き出したままのビニール傘の開閉を繰り返し、次々と進行方向に積もっていた雪を吹き飛ばしていく。
除雪車顔負けの速度で雪を吹き飛ばして道を確保してくれる小野のおかげで、橙香たちの移動速度は格段に増した。
「魔物の襲撃がないね」
小野の妹がビニール傘の影響で吹き上がる雪を横目で見て呟く。
「これだけ雪を巻き上げても襲撃されないって事は、本格的に魔物がいないな。ガチでヤバいぞ」
「ボスに出くわす前に撤退したいとこだな」
クラン『早田市冒険者グループ』の面々が走りながら口々に言い合う。
四人組のいる建物が見えてくる。同時に、大塚と室浦の姿も見えた。
大塚が橙香たちを見て顔を顰める。
「何故来た?」
「雇い主が失踪しかけたからですよ」
「さっさと戻れ。ボスが出たら――」
大塚が言い終えるより先に、全員が咄嗟に足を止めた。
北東に見えていた建物の陰から、白い何かが出てきたのだ。
人ではない事は一目でわかった。
建物から顔面を蒼白にした四人組が飛び出して走ってくる。
だが、橙香たちの視線は建物の陰からこちらを見た白い何かに釘づけだった。
「……なに、あれ?」
かすれた声で小野の妹が呟く。
「何ってそりゃあ、ボスでしょうよ」
室浦が分かり切った答えを返して、得物のバスタオルを右手で掴み、戦闘態勢を取る。隣では無言で大塚が高枝切りばさみを構えていた。
「白いヤギのように見えるが、二足歩行してるな」
小野がビニール傘の持ち手を握って正面に先端を突き出すように構える。
小野が言う通り白い何かはヤギのような形をした二足歩行の生物だった。だが、頭の先までの高さは四メートルを超えており、コウモリのような翼まで生えているそれをヤギと呼ぶのは躊躇われる。
その外観は、橙香の記憶にあるとある怪物の姿にあまりにも似通っていた。
「……バフォメット?」
橙香が呟いた単語を全員が考える間もなく受け入れる。
白いヤギ、バフォメットの赤い瞳が必死で逃げる四人組の冒険者を捉える。
しかし、眼中にないとでもいうように視線を外すと橙香たちを見て、さらに遠くへと視線を向けた。
直後、バフォメットの羽がうごめき、大きく開かれて空気を一打ちする。曲げた膝に力を入れ、バフォメットは大きく跳躍すると同時に飛び立った。
バフォメットの翼が強風を巻き起こし、空から落ちてきていた雪の軌道がかき乱される。吹き荒れた猛烈な風は五百メートル以上あるはずの橙香たちの下まで届いた。
強風に背中を押されてバランスを崩した『†慈悲深き電光†』の四人が足をもつれさせたのを見ると、バフォメットが腕を左右に大きく広げた。瞬時にバフォメットの真下の雪原に円形の幾何学模様が二十以上も描き出される。
何が起こるのかと固唾をのんで見守る橙香たちが見たのは、幾何学模様から現れる滑落ヤギの群れだった。
「召喚しやがった!」
小野が叫ぶより先に、大塚と室浦が駆け出している。向かう先は滑落ヤギに追いかけられ始めている『†慈悲深き電光†』の四人の元だ。
「なし崩しで戦闘かよ。これだから復讐鬼は!」
悪態吐きながらも追いかける小野たち。
滑落ヤギの群れと大塚たちが『†慈悲深き電光†』の元に殺到する。
その時、群の先頭を走っていた滑落ヤギが唐突に爆発した。
予想外の事に足が鈍る大塚たちだったが、橙香の優れた視力は事のあらましを捉えていた。
「バフォメットが爆弾綿毛も召喚してます!」
「冗談だろ、おい」
小野たち『早田市冒険者グループ』が足を止める。圧倒的な不利を悟ったのだ。
だが、不利だからこそ大塚は足を早める。それを追いかける室浦もだ。
小野たちが足を止めたからだろう、見捨てられる可能性に気付いた『†慈悲深き電光†』の四人が必死に大塚たちへ手を伸ばす。
「た、助け――」
「そのまま走ってろ」
四人の間をすり抜けた大塚が高枝切りばさみを大きく横に薙いだ。滑落ヤギの頭部が吹き飛び、宙を舞う。室浦が走りながらバスタオルを一振りして斬り飛ばされた滑落ヤギの頭部を空中で捕まえ、遠心力を乗せて正面へ投げつける。高速で飛来した仲間の頭部を避けきれなかった滑落ヤギが一体、頭部を粉砕されてその場に転がった。
滑落ヤギの群れを相手に、雪に紛れ込んだ爆弾綿毛を恐れる事もなく大塚が大胆に得物を振るう。切り飛ばされ、刺し貫かれて滑落ヤギが次々に散っていくが、数が減る気配が一向にない。
大塚の援護をする室浦を見かねてか、小野を先頭に『早田市冒険者グループ』が戦闘に加わる。
『†慈悲深き電光†』の四人は橙香と南藤のそばまで来ると全力疾走で疲れ切ったのかその場に膝をついた。
四人組を無視して橙香は空を仰ぐ。
「バフォメットはどこにいったの?」
いつの間にか、バフォメットの姿が消えていた。
空を探していると、無線機からがなり立てる声が聞こえてきた。
『バフォメットを発見。階層スロープへ向かってる!』
すぐそばにいた橙香たちを殺しもせず、足止めのように滑落ヤギと爆弾綿毛を召喚して階層スロープへ向かう。そんなバフォメットの不可思議な行動を読み解こうと橙香は知恵を絞り、一つの可能性に思い至って大塚たちへ怒鳴った。
「階層スロープがある浮島の橋が破壊されます! 急いで向かわないと!」
バフォメットの狙いを知らされた大塚たちが滑落ヤギを討伐する速度を上げる。
橙香は無線機でバフォメットの召喚能力と橋が破壊される可能性を伝達した。
散らばっていた冒険者たちが一斉に階層スロープへと向かったはずだ。
しかし、橙香が連絡を入れて間もなく、遠方から巨大な爆発音が響き渡る。
記憶が正しければ、その方角には階層スロープがあるはずだった。
『……橋の防衛に失敗。合流求む。地点は――』
無線機から死を覚悟しての徹底抗戦を呼びかける声が聞こえてくる。
乙山ダンジョンにおける地形の再生時間は二十四時間。
再生まで、冒険者に退路は存在しない。