第一話 冒険者登録
秋らしい涼しい風が吹いていた。
大学のキャンパス内は赤と黄の落ち葉に彩られ、過ごしやすくなったことを喜びながら学生たちがベンチで菓子パンを齧っている。
南藤は教授への挨拶を済ませて研究室の扉に手を掛ける。
「南藤君」
教授の声に呼びとめられて、南藤は扉を中途半端に押し開けたまま振り返った。
白髪の教授は血糖値がどうとぼやいていたのも忘れたのかナッツ入りのチョコレートを齧りながら南藤が提出したばかりの卒業論文を査読している。
「自分ね、南藤君を結構買ってるんだよ」
「代金を頂いてませんが?」
「言うね。この卒論の研究費用じゃ足りないかい?」
「大学からは頂きました」
「まぁ、そんな事はどうでもいいんだ」
戯言を打ち切った教授は老眼鏡を外すと南藤を見る。
「君は頭脳労働向きだと思うんだ。視野が広く、記憶力があって、情報分析力に長けている。だから、てっきり院生になると思っていたんだけどね」
「院に進む気は最初からありませんでしたよ」
「実に残念なことだ。なおのこと残念なのは、君が冒険者になる事だけれども」
卒業論文を机の引き出しに押し込んだ教授は嘆くように天井を仰いだ。
「君の人生だと言われればそれまでなんだけれどね。冒険者は向いてないと思うんだ」
「御忠告ありがとうございます」
「ありがたいけど、聞く気はないか。まぁ、言っておきたかっただけだ。引き継ぎも終えたのだろう? ならば止めることもできまいよ。がんばりたまえ」
「ありがとうございます」
礼を言った南藤は今度こそ研究室を出た。
スマホを操作してインターネットサイトを確認する。
※
この項目にはユーモア成分の深刻な欠乏が指摘されています。
ダン・ジョンとは三十年ほど前に突如としてアメリカに出現したのを皮切りに地球の様々な場所で存在が確認されるようになった正体不明のユニットだ。UMAの項も併せて参照されたい。→UMA=ダン・ジョン
内部の構造も出現する魔物と呼ばれる未知の生物も多様性があったが、最初に注目されたのは魔物の性質だった。この魔物とはファン用語であり、ダン・ジョンの関係性を指している。
ダン・ジョン内で発生した魔物は死亡すると文字通り消滅する。そう、彼らの内部では様々な関係性が生まれては消えていくのである。その目まぐるしいまでの関係変化がファンを魅了してやまない。
質量保存の法則に反しているとか、そもそもダン・ジョン自体が物理現象に則していないのではとも語られている。何しろこのユニットは地球上至る所に存在するからだ。ドッペルゲンガーなんてちゃちなもんじゃねぇな。
だが、そんな語り合いはすぐに顧みられなくなる。
アメリカのダン・ジョンから突如として魔物が溢れだし、周辺の野生動物や家畜、時には人間までも殺害、あるいは拉致してダンジョン内に連れ去る事件、いわゆる氾濫が発生したのだ。ダン・ジョンの関係性の氾濫にシンパシーを感じたことによる集団ヒステリーという意見もあるが、これが事実ならばダン・ジョンのファンには野生動物までも含まれている事になる。
また、過激なファンの間では一部の関係性に人権があるとの主張に合わせ法的に保護すべきだと唱える者もあり、日本国内では藻倉ダンジョンの周辺で大規模な抗議活動、サハギンナイトパーティーが行われ――やめろ。起訴するぞ――
しかし前述の通りダン・ジョンの関係性による拉致殺害の被害は大きく、国民が危険にさらされるとはあっては悠長に学者の研究を待っているわけにもいかなくなり、内部の魔物の掃討作戦が軍主導で行われることになった。
結果、ダン・ジョン内に連れ去られたはずの人間や動物は発見できなかった。それどころか、ダン・ジョン内で魔物と戦い死亡した軍人の死体が掻き消える不可思議な現象までも確認される。
それでも、アメリカはダン・ジョン討伐軍を送り込み続け結果として様々な事実が判明するのだが、最も大きな発見はダン・ジョンの先にあるモノだった。
ダン・ジョンの最奥にはボスと呼ぶべき強力な絆が存在し、それを討ち取った者はダン・ジョン内の魔物の発生頻度調整やダン・ジョン内を通行できる人間の設定が可能であることが判明したのだ。お前がダン・ジョンの絆になるんだよ、と言わんばかりである。
マスター権限と呼ばれるようになるこの事実に加え、ダン・ジョンの先は全く未知の、いわゆる異世界に繋がっていた。
各国は新たな資源を発見できると喜び、同時に恐怖する。
マスター権限を使えば、異世界とを結ぶダン・ジョンを一方的な進軍路として活用できることに気付いたのだ。
ダン・ジョンの先にある異世界の住人が、必ずしも友好的とは限らない。同時に、文明的、軍事的に隔絶した差が存在する可能性も無視できない。
この瞬間、ダン・ジョンの踏破、マスター権限の取得は各国の国防上で喫緊の課題となったのだ。
各国が有する軍事組織や警察機構が行っていたダン・ジョンの踏破は、広く手を募るために国民の参加者も交えて行われるようになる。いわゆる踏破型ファン、冒険者の登場である。
この流れは日本でも同じではあったが、日本にはどうしても無視できない法律が存在した。
銃刀法である。
折悪しく、周辺各国は日本領海に船を派遣するなどで自衛隊を半ば拘束し、ダン・ジョン踏破の手が足りなくなるように圧力をかけていた。
結果的に内部掃討の手が足りずに発生したダン・ジョンからの魔物の氾濫により多大な犠牲が出たことにより、民間レベルでの対処の必要性も訴えられた。
そうして誕生したのが日本における冒険者である。
しかし、銃刀法の改正案は幾度となく審議拒否の憂き目にあい、通る事はなかった。
各国のインターネット掲示板で、日本の冒険者はこう揶揄されるようになる。
――変態日本人の人生縛りプレイ。
ダン・ジョンが生み出した最初のスラングである。後のデビュー曲にもこのフレーズが三回繰り返される部分がある。要出典
しかし、皮肉にも銃を使用できないおかげで日本人は関係性の血の特性を最初に発見する事になった。
関係性の血液には、浴びた物品に特殊な能力を付加できるようにする成分が含まれていたのだ。
この成分を便宜的に魔力と呼び、日本の冒険者たちはこぞって得物に血を浴びせかける近接戦闘を展開するようになる。
使い捨ての銃弾では発見できなかったこの特性、魔力強化により、日本の冒険者たちは瞬く間にガラパゴス化していく。
日本人冒険者の配信動画『効率よく血を浴びる方法』により日本における冒険者の狂気的な様子を知った各国の冒険者は戦慄した。
――ダン・ジョンの真のファンは日本人だったのだ、と
※
いまいちダンジョンについてよく分からないまま終わってしまう説明文を読み終えた南藤は着信を知らせるスマホを耳に当てた。
「橙香、どうした?」
「異世界貿易機構からの通知が届いたよ。冒険者登録完了だって」
「橙香も含めてか?」
「……ボクは芳紀のクラン所属って形じゃないと、国籍条項に引っかかるって」
「やっぱりか」
ダンジョンは踏破した際に得られるマスター権限の性質上、国防に影響がある。そのため、ダンジョンへ立ち入るためには審査が存在し、その中の一つに国籍条項も存在した。
橙香が曲りなりにも冒険者として活動できるのは、霊界が歴史的にも比較的日本と交流が存在し、ダンジョンが日本側から踏破されて以降友好関係を築いてきたからだ。そうでなければ、クラン所属としてさえ申請は通らなかった。
「ごめんね、芳紀」
「なにが?」
「こんな危ない事に付き合わせて……」
「気にするな。気が塞いだままの橙香を見てる方が辛い」
三か月間、大戸峠ダンジョンは通行禁止措置を取られたまま、霊界の様子も判明していない。
当然、霊界に里帰りしていた橙香の両親と姉の紅香についても消息不明のままだった。
誰もいない家が辛くなった橙香が南藤のアパートに転がり込んでくるまでそう時間はかからなかったが、転がり込んで以降も橙香はあまり笑っていない。
南藤は橙香の顔を思い出しつつ、口を開く。
「それに、冒険者になって別世界経由で霊界を目指そうって言い出したのは俺の方だ。巻き込んだのはこっちだよ」
「でも、ボクのためでしょ?」
「俺のためだ。霊界の観光がしたいんだよ。案内は頼んだからな?」
「……うん。ありがとう」
「おう」
通話を切り、南藤は散り落ちてきたカエデの赤い葉を肩を引くだけで躱し、橙香が待つアパートへ急いだ。
もう大学に顔を出すのは卒業式だけで十分だと、教授からは聞いている。今日のうちにアパートでの荷造りを済ませ、実家に帰った方が冒険者としての活動はしやすくなるだろう。
南藤は実家を思い浮かべる。
木造二階建ての古びた和風建築だが、無駄に部屋数が多く庭も広い。両親が他界した折に売りに出す選択肢もあったのだが、今になってみると手放さなかったのは正解だった。
もっとも、この事態を予見していたわけではなく、手放して人の物になる寂しさを味わいたくなかっただけだ。
帰巣本能とでもいおうか、あの古びた家が帰るべき場所だと記憶が、思い出が訴えかける。売りに出していたら帰る場所を失い心が立ち尽くすことになるだろう。
「きっと、橙香も……」
霊界には橙香たちが住んでいた家がいまだに残っていると聞いている。そうでなくとも、幼少期を霊界で過ごした橙香にとって思い出深い場所のはず。
そんな霊界との連絡が途切れたのだから、塞ぎ込むのも仕方がない。
だから取り戻さなければならない。
必ず橙香を霊界に連れて行こうと、南藤は決意を新たにした。