六話:後ろめたい気持ち
瑛士は昨日の様子とは打って変わって、焦っていた。焦り過ぎて目の前のことが分からなくなるほどだった。
家から自転車に乗って数キロ。数回転びかけ、電柱にぶつかりかけ、車にも轢かれかけた。そして自転車を停めてから数メートル。もう二度も転びかけた。
昨晩、いつものように食事を終えたベリドとの会話の中に理由があった。
「なあ、お前。そろそろ彼女とか欲しないんか?」
瑛士の部屋のベッドの上に仰向けになって、余計なことをしないようにと与えられた携帯ゲーム機を弄るベリドがぽつりと言った。
「うぇ! なっ、いきなり何言い出すんだよ!」
瑛士はシャーペンを持つ手を止め、ベリドの方に椅子を回転させた。
「いやいや、お前の片思いの相手っての、おったやん? そいつに魔法かけてェ、お前に惚れさせんねん。どや? ええやろ?」
ベリドの視線は徐々にゲームの画面から瑛士の方に移る。
「な、なんでそんなこと……」
瑛士はにやけ顔のベリドに尋ねた。
「まあ、暇つぶしよ。ついでに俺の使える魔法の具合も知っときたいと思てな。ここではまだ使ってないやつもあるし……ちょ、あっ」
ゲーム機からゲームオーバー音が流れた。それが鳴り終わる前に、瑛士はベッドの横に立っていた。
「ダメに決まってんだろ。江里さんをお前の変な術にかけるわけにはいかない。そんなことやってる暇があるなら、さっさと敵対勢力の白魔族とかいうのを見つけろっての」
「いや、見つけよにも相手の目的が分からんから、どこ探したらええんかも見当つかへんねんな」
瑛士にゲーム機を取り上げられたベリドは弱い声で言い訳をした。だが、ベリドの言い分はもっともだ。
そしてふとベリドの表情は明るくなった。とある作戦を思いついたのだ。
「そうや、魔力。魔力使ったらええやん。お前の学校で魔力ぶっ放したったら、相手がこっちの居場所知れて、多分誘き寄せられるやろ、知らんけど」
「なに勝手に決めてんだよ」
「いーや、こりゃもう決まったわ。明日これやってみることにするわ。てことで寝る」
「生徒や先生に怪我させるようなことは絶対にやめてくれよ!? おい! 聞いてんのか!?」
瑛士の呼びかけは虚しく、数秒前に床に寝転がったベリドはもう夢の中だった。
そして今朝、部屋にベリドの姿は無かったのだった。瑛士を置いて先に出て行ったのだ。
──絶対止めてやる。
瑛士はとりあえず教室まで全力でダッシュして荷物を置いてこようと、玄関ホールを曲がった。
「きゃっ!」
「わっつ! っと、すいませ……」
瑛士はフリーズした。ぶつかった相手はなんと風華だったのだ。
「あ、いや、ごめ、ごめん……なさぃ……」
「ううん、私も注意してなかったから……。こちらこそごめんなさい、三上くん」
焦りまくりの瑛士をその場に置いて、風華はどこかへ走っていった。瑛士の心は、穴が開いたようだった。
──ダメだ。ダメだダメだダメだダメだ。ぶつかっておいてろくに謝れなかった。しかも江里さんに謝らせたみたいじゃないか。おかしいじゃん? それ、おかしいじゃん? さっきの俺をぶん殴りたい。なぜごめんの一言すら言えない? ほんっとに情けない。そもそも……
「ああああ……。ダメだそれじゃ……」
そう負のオーラを纏った言葉を吐いた瑛士の足取りは次第に重くなり、完全に静止したときには、ベリドを止めることなどすっかり頭から抜け落ちていた。
「教室戻ろ……」
その暗い呟きもすぐに消えた。
#
一方ベリドは屋上にいた。それも屋上の貯水タンクの上。学校内で最も高い場所だ。
ベリドは空を仰いで両手を広げた。
「……」
一呼吸置いて、ベリドは手を重ね合わせる。昨夜イメージした通りに魔力を解放するだけだ。難しいことではない。だが一つ心配なことがあった。
──あとはあいつが持つか……か
それは瑛士のことだ。彼はここ数日で多少の魔力を使っても息切れしないほどの体力がついた。だが、今回は規模が違う。魔力を大量消費することで瑛士がどうなるか分からない。
そして白がこちらに気づく程の魔力を解放できるか、というのも心配だが、もし万一こちらに向かって攻撃してきたら、戦闘になったら、太刀打ち出来るほどの魔力があるだろうか。いや、ない。
──それでも……やるしかないわ
ベリドは空に向かって、エネルギーを凝縮した魔力を撃った。少し高いところに上ったエネルギーは、ぱんとはじけた。
「ふう……」
これだけの魔力消費をしたのは久しぶりだった。慣れないサイズの魔法に、彼の身体は震えた。覚えている中で最後に大きな魔力を使ったのは黒の世界にいたときに最上位クラスの実力があるかを見せる時。一年くらい前だ。
──ま、これで気づかんはずはないやろ。
ベリドは目を閉じ、自分の他の魔力を探った。
一分……五分……十分……。更に魔力を使って自分の感じられる範囲の限界を探したが、ついに何も見つからなかった。
「くっそ……」
自分の足を八つ当たり的に軽く叩く。さっきから頭痛がするし、散々だ。
──もしかして、どっかへ行ってもたか? 出てこんだけか? もう白の世界に帰ってもたんか?
「腹立つな……」
頭上にはまだまだエネルギー弾の魔力がきつく残っている。
──魔力がなくなるまで、探したろやないか。
ベリドはまた目を閉じ、座り込んだ。街の片っ端からあらいざらい探していく。どんなに小さな魔力も逃さぬように。探せば探す程、頭痛は酷くなる。ベリドはただ耐え、探すことに必死に集中しようとした。
感じられる範囲を一周して見つからなければもう一周。まだ見つからなければ更にもう一周。ベリドはもうやけだった。
「おい悪魔ッ!」
屋上の扉を勢いよく開けて、宗真が叫んだ。
「……だから悪魔やのうて──」
「黒魔族、だな。本当にここにいたのか。エイジの言った通りだ」
「あ?」
ベリドは探知に集中していても、悪魔という言葉に反応するほど、その響きが嫌いだった。宗真の姿を見つけたベリドは、タンクからひらりと飛び降りた。
「なんやねん。邪魔すんなや。まだ見つかってへんねや。俺は頭痛い中、お前らのために本気出して白を探してる最中なんやけど?」
「じゃあ今すぐやめてくれ。エイジが危ない」
「何やと?」
「さっき倒れたんだ。一応貧血ってことにしてるが……やっぱお前が関係してたな」
「そうなんか。ほんなら一旦魔力使うん辞めたるわ。ま、死なんかっただけええやろ?」
ベリドはやれやれというふうに宗真に背を向ける。
「は……? お前舐めてんのか……? エイジに悪いと思わないのかよ!」
「特には。あいつも自分がそういうもんやと分かってたやろ? ……うぉっ」
すでに歩き出していたベリドに走り寄る宗真。左手を伸ばしてがっと右肩を掴み、自分の方にたぐり寄せる。
そして全力で、殴った。
「エイジはお前の道具じゃねぇぞ! この悪魔が!!」
宗真はそう叫ぶと、ベリドの様子がおかしいことに気づいた。ふるふると震えながらベリドは立ち上がった。
瑛士のことを蔑ろにしたベリドに怒りを覚え、つい殴ってしまった宗真だったが、彼は大して力が強くなかった。そのためベリドには全く効いてはいないはずだった。
「ああもう腹立つ奴やなぁ!! やっぱ痛い目ぇ見んと分からんのやんか!!」
立ち上がったベリドの髪は心なしか宗真には逆立っているように見えた。そしてその間から見える目は、真っ直ぐ宗真を見据えていた。
「お前が悪いんやぞ。覚悟しろや。あいつに死なれたら困るから、今はそんなでかい魔力は使えやんけど、お前を黙らすにゃあ十分やわ」
ベリドが突き出した拳には黒い煙のようなものが漂っていた。実際それは煙ではなく、正体は黒い光。破壊系の魔法だった。
「ま、魔法で攻撃か……」
そのおぞましさに、宗真は後ずさりをした。数歩後ろに屋上から校舎内への扉があるのだが、脚がそれ以上動くことはなかった。
「覚悟せえや」
その言葉とともに放たれる小さなエネルギーの塊。一直線に宗真に向かって行く。
ふと、宗真の全身の力が抜けた。緊張状態にあった身体が、急に緩んだのだ。宗真はいきなりの変化に対応できず、その場に尻餅をつく。エネルギー弾は宗真の頭上を越えていった。
ふと屋上の扉が開いた。
「ソーマ、ここにいるのー? ちょっと話したいことがあるんだけどー……」
「⁉︎」
「何……⁉︎」
屋上の扉を開けたのは風華の親友、飛鳥だった。
「え……なに……?」
彼女は目の前の黒い光を纏った球をまともに受け、その場に倒れこんでしまった。
「……アスカ。……アスカーーーーっ!」
宗真は、ばっと立ち上がり、すぐさま飛鳥に駆け寄った。何度も何度も名前を呼ぶ。
「俺が……俺が避けなければ……」
宗真は飛鳥をぎゅっと抱きかかえる。手が震えているのは動揺の現れだろう。
「大丈夫や。その程度で死にはせんから」
「そういう問題じゃない!」
宗真はベリドを睨みつけた。
「なんや? まだ続けるつもり──」
「アスカを保健室に連れて行かなくちゃならねえ。お前とはまた今度だ」
「……はん、そうかい」
宗真は飛鳥を抱き上げ、屋上を後にした。空にはもう魔力は残っていなかった。ベリドはまたタンクの上に登り、目を閉じた。
その日の昼には、瑛士と宗真はやってこなかった。昼休みを過ぎて放課後、生徒たちの騒ぐ声で起きたベリドは、しばらく寝そべったままだった。そしてふと立ち上がった彼は姿を消して屋上を去った。
その日瑛士の家に戻るのはなぜか苦だった。
ベリドは、自分が悪いとは思っていなかった。自分と契約した奴の力を使って白魔族を探した。魔力を持ちもしない奴が自分に喧嘩を売ってきた。おしおきをしようと思ったら勝手に当たりにきた奴がいた。
──何も、悪ないわ。何も……
だがもやもやとした何かがベリドの胸のあたりを占めていた。気絶した飛鳥を背負った宗真の、去り際の目がどうにも忘れられない。
頭を振って消そうとする。深呼吸して落ち着こうとする。それでも消えはしない。それどころかむしろ広がっている気がする。
──なんや。なんなんや、これは……
とうとうその日、ベリドは瑛士の家に戻ることはなかった。なぜか戻ることができなかったのだ。
#
「ベリド!」
結局彼は、瑛士のもとに帰ることができなかったので、学校の屋上で夜を明かしていた。自分の名前を呼ぶ瑛士の声で、目が覚めた。自分が載っていた水のタンクの下に目をやると、瑛士がいた。
「今日はやけに早いんやな」
寝転んだまま、瑛士に言う。
「お前は今日はやけに起きるの遅いな……って、違う! なんでこんなとこにいるんだ⁉︎ なんで昨日帰って来なかった?」
「……」
ベリドは答えることができなかったが、とりあえず身体を起こした。
「俺が倒れたからか? それとも怪我負わせたからか? それで負い目感じて、帰れなかったのか?」
ベリドはただ頭を掻くばかりだった。
「ソーマから聞いた分には、お前が俺を道具と見てるのが気に入らないってソーマが怒ったってことらしいけど?」
「……合ってる」
「で、お前が放った魔法がソーマじゃなく田口さんに当たっちまった、って聞いてるけど?」
「……それも合ってる」
「じゃあベリドが悪いんじゃん。謝って来なよ、ソーマと田口さんにさ」
「冗談言うな!」
ベリドはタンクに登るためのはしごを叩いた。何とも間抜けな、鈍い音がした。ベリドはタンクから飛び降り、瑛士に向かって歩いてきた。
「な、ん、で、俺が謝るんや。俺はここにやって来た白を発見、そんで撃退するためにきたんやぞ。それに俺は黒の魔族最上階級のカッゾ。仕事になんも関係のない非魔族に頭を下げるて──」
「『お前の常識を押し付けんな』」
「あ?」
瑛士より手前数メートルで、ベリドは立ち止まった。
「ベリドと初めて会った日に、ベリドが俺に言ったことだよ。悪いことしたと思ってんだったらさ、素直に謝んなきゃ。それに、ソーマは関係なくないだろ。あいつ、協力してくれるって言ってたじゃん」
瑛士はベリドに歩み寄り、優しく言った。
「俺の言葉、か。お前、ようそんなん覚えとんな」
「あの後顔面殴られたんだもん。そりゃ頭に残るよ。今日の昼休みにはさ、俺たちまたここに来るから。今度は逃げんなよ〜」
瑛士はベリドの胸をこつんと叩き、校舎内への扉に走っていった。ベリドと話している間に時間は経っていた。もう朝のホームルームまで十分になっていた。
「逃げんなて……誰から」
「自分から、だよ」
「なっ……」
瑛士は狼狽えるベリドに言い、扉を思いきり開いた。
「きゃあっ」
「うわっ」
屋上の扉は外に開くタイプ。瑛士が扉を開くことによって、それにもたれかかっていた二人の女子が倒れてきた。
「痛ててて……」
「ごめん、上に倒れちゃって。あっ」
女子の片方が事態に気がついた。急いで立ち上がり、瑛士が何が起こったか理解できていない間に「ほら早く」と、もう一人の手を引いた。
「いやあ、ごめんね。私たち何も聞いてないからね。じゃあね〜」
上に倒れ込んだ方の女子はそう言って手を振り、もう一人は軽く会釈をするように頭を下げた。そして風のように二人は屋上から逃げていった。
──なんで。
「おい……お前、今のて……」
ベリドが呼びかけても瑛士は動かなかった。
──なんでここにいるんだよ!
二人の会話を聞いていたのは、江里風華と田口飛鳥だった。