一話:普通の高校生
春。桜咲くこの季節は、年越しはすでに過ぎ去ったものではあるが、新たな一年の出発点として迎えられる。
朝の天気予報によると今日から週末まで晴れ。青空続きでぽかぽか陽気になるでしょう、と言ったメガネの予報士の通り、澄み渡る空は蒼かった。
そんな天気の良い朝、春のあたたかい空気を運ぶ向かい風を受けてぼさぼさになった髪を気に留めず、ひたすらペダルを踏み続ける男子高校生が一人。久しぶりに袖を通した制服は、まだ少し余裕がある。
──やっべ、ギリギリィ!
高校二年になったばかりの三上瑛士は自転車を立ち漕ぎしながら点滅信号を勢いよく駆け抜けた。彼が横断歩道を渡り終えると、バイクのけたたましいエンジン音と、反対車線の救急車のサイレンが交差点を満たした。
桜の花びらがちらつく校門を風のように勢いよく通り抜ける。校門前に立つ体育教師に何か言われた気がするが、そんなことは一切御構い無しだ。
ひとまず昨日確認したプリント通りに、昨年度のクラスの自転車置き場に一直線に向かう。スタンドを乱暴に立てる音を響かせ、地面の白線に対して少し斜め向きに停める。
ほぼ中身が空の鞄をひょいと自転車の前籠から取り出し、慣れた手つきで自転車の鍵をかちゃりとかけて、一目散に走りだす。そして、校舎へ入り、階段を一段飛ばしで駆け上がり、長い廊下の丁度真ん中辺りに位置する、昨年度の自分の教室に向かった。
教室の扉、引き戸をばんと開けると、春休みぶりの何人かの生徒が、各々自由に暇をつぶしていた。
「ひとまず間にあった……か……」
高校生活二年目の初日。今日は始業式に加え、二年生・三年生のクラス発表がある。瑛士はそれを春休み前からずっと心待ちにしていたのだ。
「いや、『間に合ったか……』じゃねーよ。いくら楽しみだからってよ、そんなに急ぐことなかったんじゃねーの? 全然遅刻じゃねーじゃん。ほら、まだ時間余ってるぞ」
そう言ったのは瑛士よりも先に教室にいた彼の親友、佐田宗真だ。扉の前で立っていた瑛士に、通路を塞ぐなと手で示す。
「お、おはよソーマ。そうだな……。ちょっと……気持ち焦ってたな」
「ちょっとどころじゃないと思うけどな」
教室に入って数分してもなお息を切らしながら、瑛士は答えた。そして照れたように笑いながら更に続けた。
「やー、なんかワクワクしちゃってさ。ほら、二年目とはいえ学校一日目ってワクワクしない? なんていうか、新たな出会いとかがあってガラッと心機一転って感じがしてさ」
「うわー……なんかそれ聞いたことあるぜ」
それは昨年の出来事だった。
#
瑛士と宗真が知り合ったのは入学式の日。式を終えて教室に一人向かっていた宗真に、瑛士が声をかけたのだった。
「ねえねえ、君も三組だったよね? 一緒に行こうよ」
「あ? あぁ……」
宗真からの第一印象は、やけにフレンドリーなリア充系男子。
──話したこともないのにいきなり来るとか、コミュ強すぎんだろ。
宗真は小学校、中学校と、友達と呼べる人を作らなかった。いつも学校では一人で過ごしていて、それで仕方のないものだと考えていた。
決していじめられていたわけではなかった。だが周りの人が、自分のことが見えていないような。不思議で、気持ちの悪い日常だった。
「ちょっ、無視しないで。僕、中学の時の友達とか全員別のクラス行っちゃってさ、心細かったんだよね」
二人の間に流れていた微妙な空気を打ち破ったのは瑛士。
「……だからって、なんで俺なの」
宗真はそれに対してそっけない返事をした。見知らぬ人と話すのは慣れていないのだ。
「だからちょっと待ってって! まあ〜今日からクラスメイトなわけだしさ。仲良くなるのは悪いことじゃないし。あとなんか君一人だったから、これは仲良くなるチャンスかなと思ったんだ。」
「あっそ。……なんでそんなにテンション高いんだ」
正直宗真は、一人でいたことに関しては放っておいて欲しかった。自分で納得していたことがだんだんと崩れてゆく。
「え? いやぁ、なんかワクワクしない? 新たな学校で、新たな一年と新たな出会い……って感じがしてさ」
「俺は……あの、お前のその気持ち、あんまり分かんねえな。友達なんていなかったから」
瑛士の会話に流されてつい、ぽろりと話してしまった。喋った後に宗真は口が滑った自分を責めた。瑛士はそんな宗真をまじまじと見つめ、言った。
「三上瑛士」
「は?」
「僕の名前だよ。せっかくいい機会だし。クラスメイトとして、これからの友人として、ね」
友人として。この言葉を聞いた途端、宗真の体を電気が走るような感覚が襲った。
「俺は……佐田宗真」
「佐田くんだね。覚えた。これからよろしくね」
瑛士が笑いかけると、宗真は何も言わずに首を縦に振った。
#
「よく考えたらお前と出会ってようやく一年経つくらいか。ていうかエイジ、よく俺に声かけられたよな」
「はは、まあ一人でいたら声かけちまうんだよな。困ってるオーラ出てると余計に。中学の入学式でも同じようなことがあったかなあ」
「俺から困ってるオーラ出てたか?」
「なんか寂しそうな背中だった気がする。結局、俺が生きてきた中で一番気が合うやつだったよ、ソーマは。ま、今回のクラス替えでどうなるかは分かんないけどなー」
「はは、そりゃどうも。クラス替えでどうなるかってのは……江里さんもだろ? クラス違うくらいでなんだよ。一年の時にちゃっちゃと告っときゃよかったのに。何事もチャレンジってやつだ。な?」
「いっ、いきなり何だよ。てか、簡単に言うなよ、ソーマぁ」
中学の時から瑛士が思いを寄せている存在、江里風華。比較的整った顔立ちに大人しい性格。少し抜けているところも含めて可愛い、と瑛士は思っている。
そのことを宗真に打ち明けた時、彼は驚いた様子だったが、すぐに瑛士に協力すると言ってくれた。打ち明けるも何も、風華の話題になった時の瑛士の態度があからさますぎてばれてしまったのだが。
「ま、後悔しないようにな」
宗真は机につけた瑛士の頭を軽くぽすぽすと撫でるように叩いた。
「お、おう……んあ?」
ふと瑛士は、宗真に視線を送る時に、一瞬だけグラウンドの方にぼやっとした青い光を視界に捉えた。気のせいではない。昔一度見に行ったことがある、ホタルの光のような淡い光の球が、そこにあった。
彼は机に突っ伏していた体を軽く反動をつけて起こした。
「っと、何だ?」
「ん? エイジ、どうした?」
「いやほら、あれ。何だろう? ほわっと……」
宗真を一瞥して、グラウンドにもう一度視線を向けた瑛士が指差した先には、もう何もなかった。
「あれ? いや……何も、無いな。俺の見間違いかな?」
「多分そうだろ? 朝っぱらからテンションおかしくなってるからだぞ。……おっと、そろそろ時間だ。体育館行こうぜ」
「靴は?」
「別にいらねー」
宗真が親指で教室の出入り口を指し、二人は周りの生徒たちと同じように教室を後にした。
──なんだったんだろう、あれは。
瑛士は昔から目がいい。瑛士が窓の外に見たものは、ちゃんと存在していた。決して瑛士の見間違いなどではなかった。 瑛士たちが教室を後にして数秒後、誰もいないグラウンドに再度出現した黒い影。そして次の瞬間、砂煙が舞ったと時を同じくしてその姿は、ふっと消えた。
式は一時間で終了した。いつも通りのプログラムをなぞっただけの始業式は、やはりいつも通り生徒ほぼ全員に苦痛を味わわせた。
出口に近い人から出てゆけという指示が出るやいなや、始業式を終えた体育館から生徒がぞろぞろと出てきた。気だるそうな者、背筋を伸ばして歩く者、クラス発表を走って見に行く者──様々だ。
そのクラス発表はというと、体育館の下にある掲示板に、始業式中に準備されて、張り出されている。
生徒が押し寄せる掲示板前での押し合いへし合いの光景はまるでバーゲンセールのようだった。「自分の組を確認したらさっさとどけて、次の人に場所をあけろ」といった教師の大声の注意も、一喜一憂の嵐にかき消された。
「おいエイジッ……。やべ、どこ行った?」
指示が出た途端に飛び出していった瑛士とは違い、押し寄せる人混みに流されてきた宗真は出遅れてしまった。皆きゃあきゃあと騒いでいるため、宗真の言葉も周りに、ましてやどこにいるか分からない瑛士には聞こえていないだろう。
「エイ……」
掲示板より少し離れた場所に瑛士がいた。彼が一人ぽつんといるところを見ると、宗真は発表の結果がどうだったのかが心配になった。
だがすぐにそれは杞憂だったと分かった。瑛士が体が反り返るほどのガッツポーズをしたのだ。人の流れから抜け出した宗真は、安堵して瑛士のもとへ小走りで向かった。
「……エイジ! その様子だと?」
「あっ、ソーマ。うん、江里さんと同じクラスゲッッッット!! フラグは完ッ全に折ったッ!! 今年こそ、だ!! はっはっはー!!」
瑛士は嬉しさをこらえきれず、腕をぐるぐると前に回し続けている。そしてふと思い出したように一言。
「あ、そうだ、ついでにお前も一緒な」
「ついでに、かよ」
「ま、今年も一年よろしくなっ!」
「……ああ」
宗真は瑛士の肩をぽんぽんと叩いて静かに祝福した。
ふと振り返ってみると、掲示板の前では未だに大騒ぎする生徒たちの姿があった。
「おい、荷物取りに行こうぜ、荷物」
「おっ、そうだな」
二人は掲示板前の生徒たちを尻目に、まだ誰もいない教室に戻った。
友人の宗真とも、そしてなにより憧れの風華とも同じクラスになれたことで、瑛士は高校生活の二年目を順調な滑り出しだと感じていた。
だが、そう上手くいくわけもなかった。
#
始業式から少し日が経った。もう月も変わっていた。生徒も教師も、学年が上がったのももう慣れた頃。晴れ渡る五月晴れの青空の中に、なぜかまた、冴えない顔の男子生徒がいた。
瑛士は正面玄関前の柱の裏で、映画に出てくるスパイのような動きで、ちらちらと校舎内を覗いていた。他の生徒は不審者を見るようなとげとげしい視線を瑛士に向けていたが、本人は全く気づいていない。他のことに全神経を集中させていたのだ。
「おっはよう、エイジ!」
「わっふぁ!!」
後ろから急に声をかけられ、瑛士は変な叫びとともに飛び上がった。油断していると時々このように宗真の奇襲がくるのだ。
「毎回きっかけを作っちまう俺が言うのもあれだけど、お前、その変な声あげるの、直した方がいいぞ。普通じゃねぇもん」
「じゃあいい加減不意打ちはやめてくれよ、ソーマぁ。……じゃなくて、お前も隠れろっ!!」
瑛士は急いで宗真を玄関の柱の裏に押した。
「なんでだよ? なんで俺もなんだ!?」
「あれを見てくれ」
瑛士は押されて倒れそうになって取り乱す宗真に冷静な口調で言った。瑛士が示した方向には彼の片思いの相手、風華がいた。
「はっ。なんだお前? それでか? やっぱお前何も変わってないじゃん。チキンじゃん」
小馬鹿にしたようににやりと笑う宗真に、瑛士はむっとした表情で言った。
「もっとこっち来てちゃんと見ろ。江里さんの隣、見てみろよ」
「え〜?」
中身が詰め込まれた重い鞄を地べたにどさっと下ろした宗真は、今度は柱から顔だけをひょっこり出してしっかりと風華の方を見た。瑛士の言う、風華の隣には彼女の親友、田口飛鳥がいた。
「ア……田口じゃねーか。なんだ? お前がおどおどしてんのはあいつが原因ってか?」
「なんか最近田口さん、怖いんだよ。なんか睨んで……きてる訳ではないんだけど、なんだろうな。目で殺されそうっていうかさ。ん〜ちくしょう、上手く言えねえ!」
「ははは、目で殺すって……そりゃさすがに言い過ぎだ。あいつもお前と一緒でちょっと面倒くさいやつなだけだ。っと、ほら二人もう行ったぜ? 俺たちも行くぞ。」
宗真は重そうな鞄をもう一度肩にひょいとかけ、足早に教室に向かった。
「ちょっ、待てよ……」
瑛士は宗真を追いかけようとしたが、ふと柱の下にいつも宗真が使っている弁当の袋が落ちているのに気づいた。
──自分の荷物忘れていくなよな。
その時、薄汚れたベージュの袋から紫がかった光が遠ざかるように見えた。
──あれ……俺も、疲れてんのかなぁ?
瑛士は首をかしげ、目をこすりながら宗真の弁当袋を持ってその場を去った。
宗真が瑛士に、なぜ自分の弁当袋を持っているのかを尋ねるのは、自分たちの教室に入る少し前だった。お前が置いていっただけだろうと笑う瑛士に、宗真はいささか不思議な顔をした。
ホームルームが終わり、一時間目が終わり、二時間目が終わり。その日もいつもと同じような、普通の日だった。そのはずだった。
「はい、じゃーあ、江里!」
この数学教師は生徒をあてる時にチョークでぐるぐると渦巻きをつくる癖があった。くるっくるの天然パーマでもあるのでついたあだ名はナルト。
「3nです」
「はい、完璧です。では次──」
瑛士は黒板にでかでかと書かれた公式には目もくれず、ただぼんやりと二列挟んで丁度斜めにいる風華を見ていた。今日もいつもと同じく可憐。
──これを繰り返してもう一ヶ月、か。
宗真の言う通りだった。クラスが同じになったくらいでグイグイ話せるなら、前から話せてるはずだ。結局、何ら前と変わってはいないのだ。
──だったら俺は……
「それじゃーあ、一個とばして、佐田!」
「えー……、√4n+3、です……」
「はい完璧です。次は──」
自信なさげにぼそぼそと答える宗真を、瑛士は横目で見ていた。自信なさげな割りにはきっちり答えるところが宗真らしい。
──だったら俺は、どうすりゃいいんだ。
「じゃーあ、三上。次の問題は、三上」
「うぇっ!?」
予想していなかったとび方に、瑛士は変な声を上げてしまった。油断していて一つ前の問題までしか解いていなかった彼は、かなり焦った。クラス中でくすくすと笑い声が聞こえる。
だが意外に早く答えが出た。解は……。自分の全てを使って捻り出した答えだ。
「えっと──」
瑛士が答えようとした時、キンコンカンコンと昼休みを告げるチャイムが鳴った。
「三上遅いぞー。これ、答えは8な。はいじゃあ今日は終わり。次までにこれとこの次の大問全部やっといてねー、じゃ、起立礼」
早口でそう言って教室を出て行くナルトと、待ちわびた昼食に頬を緩める生徒たち、そして唖然とする瑛士が残った。
「えぇ……」
誰にも聞こえないくらいの大きさで、瑛士はため息に似た声を出した。




