ランドスケープ
二〇××年
扉を開ける。この部屋に入るのもずいぶん久しぶりな気がする。ながらく手を付けずに居たせいで、少しほこりっぽい。カーテンのすき間から差し込む陽光が、きらきらと反射されて光の道筋を作っていた。
「やっぱり、私が掃除しないとすぐに散らかす……」
机の上に置かれていたメガネを手に取る。ここ最近になって流行り始めた最新モデルのメガネだ。インターネットを通じてあらゆる情報にアクセスすることができる。
放置されていたせいで、レンズが埃でくすんでいた。服の袖で軽く拭ってから掛けてみる。ゆっくりと顔をあげると、そこに「景色」があった。
一面の銀世界。柔らかい新雪にはスニーカーの足跡が規則正しく並んでいる。それに寄り添うように小さな動物の足跡が続く。肉球や爪の形まではっきりと見える。
風にさらわれたのか、木の上に積もっていた雪が舞っている。晴れているのに降る雨を天気雨と呼ぶけれど、晴れたときに降る雪は何というのだろう。
私が足を滑らせる。降りかかる雪に気を取られて歩いていたせいで、凍って固くなっているところに気づかなかったらしい。思い切り尻餅をついた。痛い。誰かの笑い声が聞こえた気がした。
場面が変わる。
自転車にまたがっていた。海沿いの道。夕日を写して空も水面も茜色に染まっている。ヤシの木がシルエットになってくっきりと浮かび上がる。見ているだけなのに南国の風を感じるよう。波が砂浜を侵し、なんの未練もないように、あっさりと去っていった。砂浜は名残惜しそうに濡れたままでいる。
また、透き通ったどこか温かみのある、不思議な色をした波が遠くからやってこようとしている。
遥か彼方では水平線と太陽が揺らめきながら交わっていた。
「綺麗ね」
ぽつりと呟く。「そうだね」と聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
場面が変わる。
広い広い草原。その中にぽつんと、ゆったりと一本の木が立っている。うららかな春の日差し。ちょうちょがひらひらと舞い踊っている。真っ青な空にちぎれ雲が浮かび、目に痛いくらいだ。
よく見る風景だけど、来たことのなかった場所。なかなか見つけられなかった原風景。遠くからでもわかるあの木漏れ日。あの中でまどろめば、どれほど気持ちが良いだろうと夢想する。
私は思い切り伸びをして駆けだす。立ち止まって思いっきり空気を吸い込む。そうして柔らかな青草に抱かれながら寝転ぶ。見上げた空はやっぱり青かった。
「気持ちいいね」
「――」
彼はなんと言ったのだろうか。
場面が変わる。
見渡す限りの木々。ところどころに射るような光が差して地べたを照らしている。空気が澄んでいた。
場面が変わる。
秋の薄いうろこ雲。その後ろに月が隠れている。涼やかな、夜の一幕。
場面が変わる。
軒下のつらら。桜吹雪。夜景。凍った川の表面に見える空気の粒。たんぽぽ。ラムネ。向日葵と空、そして入道雲。紫陽花とカタツムリ。アマガエル。山。椿。白い息を吐いている、私のシルエット。
――――場面が変わる。
一枚、なにかがひらひらと落ちてきた。手に取ってみると、鮮やかな紅葉だった。
裏返すと、味気のない無垢な白さがあった。右下に『九月二十八日 京都にて』と走り書きされている。
もう一度、表を見る。川も道も木も空も真っ赤に染まっていた。
そっと眼鏡をはずす。フレームをたたんで机の上に置く。とっくに充電は切れていた。
「こんな時代でもコイツが一番なんだよ」
そういって出かけるときはいつも首に下げていたカメラ。「一眼レフだ」と自慢していたっけ。
接眼窓を覗いてみる。真っ暗だった。レンズキャップをはずしてみる。レンズには傷どころか埃一つ付いていない。もう一度、レンズ越しに部屋を見てみる。
壁にびっしりと貼られた数々の写真。これだけあるのに、自分の写真を一枚も撮っていないなんて少し呆れてしまう。葬儀屋に「なにか写真を」と言われたときは本当に困った。
何気なく、シャッターを切る。一瞬が、思い出が、四角く切り取られる。
蓋をはめ、机に置こうとして手を止めた。今度、現像してみようか、とふと思う。
しばらく迷ったけれど、そのまま大事に抱えて部屋を後にした。
扉を閉めるとき、「上手に撮れたね」と、そう聞こえた気がした。