心に残る言葉
「なぜだろう。彼の歌声を聴く観客の目には不思議なほど涙が溢れていた」そんなくだりで、そのドキュメントは始まった。
盲目のテノール歌手。新垣 勉さんの話です。それは、ワイドショーの中のひとコーナーで、それまで私は何気なく聞き流していた。が、ドキュメントが進むにつれ、家事の手も止まり、次第にくい入るように見始めていた。
――彼は、沖縄で生まれ育ったが、父親は米兵で彼の出生後、すぐにアメリカへ帰ってしまった。また、出生時に助産婦のミスで両目の視力を失ってしまう。母親も彼を親しい人へ預け、すぐに失踪してしまったという。彼はそうした事実を中学生のころに、今まで実の親だと思っていた育ての親からしらされる
それまで平穏に暮らしていた彼の心が、絶望感と共に一気にすさんでいく。それに加え父親が米兵であることでいじめを受け、不良少年となってしまう。と同時に親への憎しみ助産婦への殺意さえ芽生え、「何で僕だけ、こんな目に遭うんだ」という被害者意識の人生を歩むようになる。その後ある人とめぐり会うまでは――
そこまでのエピソードを聞いた時、自分の子供時代が嫌でもオーバーラップしてきた。
生後十一ヶ月での麻疹、そして髄膜炎の後遺症による軽度の脳障害。親の過保護と父の転勤での転校がもとで、中学時代に受けた集団でのいじめ。そして、病気に対して「何で私だけがこんな目に遭うのか。自分は生まれてこなければよかったんだ」などと、被害者意識のかたまりでいたことなどが見事に符号してる。
しかし、大きく違うのは、その後の彼の人生の歩み方だ。
彼は高校時代に教会の神父さんと出会い、その人の教えをきいていく中で、心がどんどん変化し、やがて自らの境遇を受け入れていくようになったそうだ。その後、歌手への道が諦め切れなかった彼は、音楽の学校へ行き、いくつかのオーディションを受けることになる。あるオーディションを受けたとき、審査員の方から、「日本人離れした、いい声をしてますね」と言われます。父が米兵である話を彼がすると、「その声はラテンの血と沖縄の血が混じった素晴らしい宝物だから、大切にしなさい」と言われ、その時彼の中で、父への憎しみの心が長い呪縛から解放され、父を受け入れるようになったという。
その話には本当に感心した。彼が弱冠二十歳前後である。
私も高校・短大とカトリック系の学校で学び、キリスト教とも縁があったのだが、彼のように大きく成長はできなかったように思う。二十代後半頃まで、自分の病気を恨み、被害者意識でいっぱいで、常に後ろ向きだった気がする。目も耳も正常で五体満足なのに……。
新垣さんは、現在各地でコンサートをされていますが、その中でもお客さんへ語る印象的な言葉がいくつかあります。(自分の障害について)「私の少年時代は真に被害者意識の人生でした。―中略―幸福とか不幸とかはその人の心が決めることです」
「もし私が目が見えていて、父や助産婦さんへ恨みがあったら、殺していたかもしれません」。
そして人生の価値観として、
「ナンバーワンよりオンリーワン――一番になるより、その人だけの人生を生きることです」。なるほどと納得させられる言葉である。
それにつけても、まだ健在で仕事をもつ母から、帰省などのとき、折にふれて言われる言葉が思い出される。
「人が生きていく中で起こる出来事は、すべて前世で計画されていて、その人に必要があって起こるのよ。辛いこともその人に大事なことを気づかせるために起きると思うよ」
確かにそう言われると、自分が何も病気にならずここまできていたら、弱い人の気持ちを考えたり、障害者に目を向けようともしなかったかもしれない。母の言葉は仏教でいうところの輪廻転生です。母から特別仏教の教えを聞かされたことはないが、宗教にこそ違いはあれ、どちらも辛い思いをする人の心を大きく変えて、前向きに考えさせてくれる言葉だと思う。特に前述の新垣さんの言葉は同じように障害をもつ人に大きな勇気を与えてくれる、説得力のある言葉のような気がするのである。
私の心は彼のようには、まだ強くなれない気がする。どこかでコンプレックスをもっていたり、社会への不満がまだまだ消えてないのもまた事実。それでも、自分を受け入れてくれる社会がある限り、不公平に感じるときも、自分の運命や宿命を受け入れていけたらいいと感じているところである。
(2001年作成)