↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

『婚約破棄ですか? 喜んで! ~無能な第一王子の尻拭いはもう結構ですので、有能な第二王子と幸せになります~』

掲載日:2026/10/14

王立学院の大講堂は、卒業を祝う瀟洒なオーケストラの調べに包まれていたはずだった。


中央のシャンデリアの真下、第一王子セドリックが芝居がかった仕草で右腕を振り上げるまでは。


「エリザベス・フォン・ハインライン! 貴様との婚約をこれより破棄する!」


セドリックの隣には、桃色の巻き髪を揺らし、怯えた子鹿のように胸元を抑える男爵令嬢マリアが寄り添っていた。周囲の貴族子弟たちが息を呑み、さざ波のようにざわめきが広がる。


ハインライン公爵家の令嬢、エリザベスは、手にした扇を音もなく畳んだ。紺碧の瞳をすっと細め、寸分の乱れもないカーテシーの姿勢のまま、静かに口を開く。


「……殿下。公の席でのその宣言、いかなる理由によるものでしょうか」


「白々しいぞ! 貴様は己の美貌と家柄に驕り、慎ましく可憐なマリアに陰湿な嫌がらせを続けてきた! 教科書を池に沈め、ドレスを切り裂き、挙句の果てには階段から突き落とそうとしたな! そのような悪辣な女、未来の国母たる王太子妃に相応しくない!」


周囲から冷ややかな視線がエリザベスに注がれる。勝ち誇ったように唇の端を歪めるセドリックと、彼の腕にすがりつきながらエリザベスへ嘲笑の視線を投げかけるマリア。


「言い逃れはできんぞ、エリザベス。マリアの涙が、何よりの証拠だ!」


沈黙が落ちた。誰もが公爵令嬢の取り乱す姿を期待し、あるいは恐れていた。


しかし、エリザベスの唇から漏れたのは、張り詰めた緊張を嘲笑うかのような、小さく乾いた吐息だった。


「――殿下。殿下のお頭の構造には、証拠を『客観的に検証する』という機能は備わっていらっしゃらないのですか?」


「な、何だと……!?」


セドリックが顔を真っ赤にして怒鳴る。エリザベスは淡々とした所作で背後の従者に指先で合図を送った。従者が恭しく差し出した黒革の分厚いファイルを、エリザベスは迷いなく受け取る。


「まず、教科書が沈められたとされる先月十日。私は王立図書館の特別閲覧室にて、国王陛下から下された隣国との通商条約草案の校正を行っておりました。終日、司書長と三名の文官が同席しております。次に、ドレスが切り裂かれたとされる先々週の火曜日。私は領地の治水工事に関する会計監査のため、王宮の財務局に缶詰でした。財務卿以下、十数名の署名付き登庁記録がございます」


エリザベスは涼やかな声で読み上げながら、書類を一枚ずつセドリックの足元へ放っていく。パラパラと舞い落ちる羊皮紙には、王国の最高機関が発行した公的な刻印が押されていた。


「そして――階段から突き落とそうとした、ですって?」


エリザベスは憐れむような目をマリアに向けた。


「昨日の放課後のことですね。マリア様、貴女が講堂裏の階段で転落したとされる時間、私は講堂で何をしていたか、お忘れですか?」


マリアの青白い顔が、一瞬で土気色に変わった。


「わ、私は……ただ、突き落とされたと……」


「ええ。昨日のその時刻、私はこの講堂の壇上で、国王陛下、近衛騎士団長、そして我が父ハインライン公爵の御前において、次代の王妃教育課程を修了するための最終口頭試問を受けておりました。試験官の皆様の前から、私がどうやって講堂裏へ抜け出し、貴女の背中を押したとおっしゃるのかしら?」


「ぐ、うそ……そんな……」


マリアの足ががたがたと震え始める。セドリックは狼狽し、視線を泳がせた。


「き、貴様、そんな小細工で誤魔化せると思うな! たとえその件が事実でなくとも、貴様が冷酷で傲慢な女であることに変わりはない! 私は貴様など絶対に妻には迎えん!」


「ええ、結構でございます」


エリザベスは微塵の躊躇もなく頷き、胸のすくような微笑みを浮かべた。


「実のところ、わたくしも限界でございました。四則演算すら覚束ず、予算書を読めば五分で居眠りを始め、隣国の大使を愚弄して一触即発の危機を招いた愚鈍な男の尻拭いをさせられる毎日に、心底うんざりしておりましたの」


「き、貴様……王族たる私を侮辱する気か!」


「事実を申し上げたまでです。――さあ、お入りください」


エリザベスが声を響かせると、大講堂の重厚な扉が音を立てて左右に開かれた。


現れたのは、豪奢な軍服に身を包んだ威厳ある壮年――現国王、そしてその背後に控える冷徹な風貌の青年だった。


「父上……!?」


セドリックの喉が引きつった音を立てる。国王の顔は、氷のように冷え切っていた。


「見苦しいぞ、セドリック」


国王の重い叱責が講堂を震わせる。


「エリザベス嬢の言った通りだ。余はお前がいつ一人前の男になるかと観察していたが……己の責務を全て婚約者に丸投げし、挙句、浅薄な嘘に踊らされて公の場でハインライン家を侮辱するとはな。もはや廃嫡以外の道はない」


「は、廃嫡……!? お待ちください父上! 私は第一王子ですぞ!」


「王太子に相応しい器ではないと言っているのだ。――これより、王太子の地位は第二王子、ルーファスに委ねる」


国王の背後から進み出たのは、長身の青年、ルーファスだった。セドリックの異母弟であり、常に辺境の防衛や軍務に身を捧げていた実力派の王子である。


ルーファスは壇上のセドリックには目もくれず、真っ直ぐにエリザベスの前へと歩み寄った。そして、貴族たちの前で片膝をつき、彼女の指先に恭しく唇を落とした。


「エリザベス嬢。無能な兄の尻拭いをさせ続け、辛い思いをさせた。……もし許されるなら、今度は私の隣で、この国の未来を共に支えてくれないだろうか」


「喜んで、ルーファス殿下」


エリザベスは晴れやかな、今日一番の美しい笑みを返した。


二人のやり取りを、セドリックは呆然と見つめていた。


「ま、待て……! エリザベス、私を捨てるのか!? お前がいなければ、財務の書類も、外交の挨拶文も、誰が処理するのだ!?」


「そんなもの、愛しいマリア様に書いていただけばよろしいのではなくて?」


エリザベスは振り返りもせず、冷ややかに言い放った。


「男爵令嬢マリアは虚偽の罪で王族を欺こうとした罪により投獄、セドリックは即刻王籍を剥奪し、北方の開拓地へ送致とする。衛兵、二人を連れて行け!」


国王の非情な宣告が下ると同時に、近衛兵たちが雪崩れ込み、喚き散らすセドリックと腰を抜かして泣き叫ぶマリアを容赦なく引きずり出していった。


静寂を取り戻した講堂に、再びオーケストラの優美な旋律が流れ始める。


差し伸べられたルーファスの手に自らの手を重ね、エリザベスは背筋を伸ばして歩み出した。自分を縛り付けていた愚か者への義理は、綺麗さっぱり清算された。ここから始まるのは、彼女自身の手で掴み取る、輝かしい栄光の日々だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。