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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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番外編①:鏡の向こうの不透明


 日曜日の午後二時。T区の瀟洒なカフェのテラス席で、ミサキはスマートフォンの画面を無意識にスクロールし続けていた。テーブルの上に置かれたカフェラテは、既にその熱を失い、表面には不規則な形の膜が張っている。

 彼女の網膜に焼き付いているのは、数日前に警察から受けた一本の電話の内容だった。

「……あなたの知人である彼が、自宅で発見されました」

 警察官の事務的な声は、彼女が構築していた「救済の物語」を無慈悲に粉砕した。

 あの日の日曜日、彼女は彼の部屋を訪れ、扉越しに「善意」を投げかけた。自分を閉ざす彼を、外の世界へと連れ出すことが、正しい人間の役割だと信じて疑わなかった。彼に浴びせられた冷淡な拒絶さえも、彼女にとっては「重度の精神的疲弊」の証拠であり、自分がさらに手を差し伸べるべき理由として変換されていた。

 だが、現実は彼女の翻訳を拒絶した。

 彼は死んでいた。あるいは、死という言葉では定義できない「何か」に変化していた。

 ニュースサイトのT区版に、ごく短い記事が掲載されている。

(T区のマンションで男性の変死体発見。死後数週間か。遺体は硬質化しており、警察が詳しく調査中)

 記事に添えられた、ブルーシートに包まれた何かが運び出される写真を見つめながら、ミサキは喉の奥に、ざらりとした砂を飲んだような不快感を覚えた。

 彼女が救おうとしたものは、一体何だったのか。

 彼女が扉越しに語りかけた時、彼は既に、人間としての機能を手放し始めていたのではないか。その可能性を考えた瞬間、彼女の背筋を、冷たい針のような悪寒がなぞった。


 彼女は、クドウに連絡を取った。

 クドウもまた、困惑と、どこか他人事のような恐怖に支配されていた。

「あいつ、そんなことになってたのかよ……。最後の方、連絡も全然つかなかったしな」

 クドウの声は、受話器越しに軽く震えていた。彼にとって、友人の死は「不吉なニュース」であり、自分の日常を脅かすノイズに過ぎない。ミサキは、彼のその無機質な反応に苛立ちを覚えたが、同時に気づく。自分もまた、彼を「自分の善意を確認するための素材」として消費していたのではないか。

 カフェを出て、彼女は吸い寄せられるように、彼が住んでいたマンションへと足を向けた。

 現場には既に黄色いテープが張られ、人の気配はない。管理会社の人間が忙しなく出入りし、換気のために開け放たれた窓からは、室内の淀んだ空気が街へと漏れ出していた。

 彼女は、あの日の自分を思い出す。

 あの時、もし扉を強引に開けていれば。もしもっと強い言葉を投げかけていれば。

 そうした「もし」という仮定は、すべて彼女自身の免罪符として生成されている。

 ふと、一階のゴミ集積所に、彼の部屋から運び出されたと思われる遺品が積み上げられているのが見えた。雨に濡れないよう透明なビニールで覆われたそれらの中に、見覚えのある「黒い汚れ」が付着した報告書の束が混じっていた。

 彼女は、それを凝視する。

 それは、彼がかつてB社で作成し、提出することを拒んだ思考の断片のように見えた。インクが滲み、文字が判読不能になった紙の束。それは、彼が外の世界に決して渡さなかった「沈黙の記録」だった。


 ミサキは、警察署へ呼ばれた。発見された遺体の身元確認と、生前の交友関係についての聴取のためだ。

 取調室のような無機質な部屋で、年配の刑事が彼女に数枚の写真を見せた。

「……これは、検死の記録の一部です。あなたが最後に彼と接触した時、彼はどのような様子でしたか?」

 写真に写っていたのは、解剖台の上に横たわる、一人の男の形をした「黒い鉱物」だった。

 肌は漆黒に染まり、その表面はまるで数万年の圧力を受けて凝固した石炭のような、鈍い光沢を放っている。関節の隙間からは、鋭利な黒い結晶が突き出し、解剖用のメスさえも受け付けないという。

「医師も困惑しています。死後硬直の域を超えている。内臓のすべてが、この黒い物質に置き換わっているんです。まるで、自分自身を中から塗り潰したかのように」

 刑事の言葉が、ミサキの脳内で何度も反響する。

 自分自身を、中から塗り潰した。

 あの日、彼女が扉越しに聞いた彼の声。乾燥して、熱を失っていたあの声。

 あれは助けを求める叫びではなく、完成を邪魔されたくないという、冷徹な拒絶だった。

 ミサキは、自分が彼に投げかけた「救いたい」という言葉の、あまりの浅ましさに吐き気を覚えた。彼女が理解しようとした彼の絶望は、彼女の想像力の範囲内に収まる「凡庸な悩み」に過ぎなかった。

 だが、眼前の写真にある「それ」は、人類のあらゆる共感を拒絶する、完結した沈黙の結晶だった。

 彼女の脳内にあった、彼を「可哀想な人」として救済するシナリオは、完全に、そして無残に崩壊した。


 警察署を出た彼女の足取りは、ひどく重かった。

 街を行き交う人々の話し声、スマートフォンの通知音、店舗から流れる音楽。それらすべてが、暴力的なまでの過剰なエネルギーとして彼女を圧迫する。

 人々は、なぜこれほどまでに自分を「提出」し続けられるのか。

 自分の感情を、近況を、不満を、安っぽい記号に変換して世界に放り出す。その無意味な浪費の果てに、何があるというのか。

 彼女は、自分の掌を見つめた。

 あの日のマンションで、彼の扉に触れた自分の指先。

 ふと、爪の間に、微かな「黒い汚れ」が残っていることに気づいた。

 石鹸で洗っても、アルコールで拭いても落ちない、粘り気のある黒いシミ。それは、彼が遺したインクの残滓のように見えた。

 彼女は、自分のスマートフォンを取り出し、SNSの投稿画面を開く。

(今日は悲しい出来事がありました。大切な人が、遠くへ行ってしまいました)

 いつものように、自分の感情を「共有」しようとして、指が止まる。

 この投稿をすれば、友人たちから「大丈夫?」「話を聞くよ」といった安っぽい救済が届くだろう。そのやり取りそのものが、今の彼女には、死ぬほど「面倒な手続き」に感じられた。

 自分の悲しみを、他人に理解可能な形に翻訳し、提出すること。

 その工程の背後にある、膨大なリソースの浪費。

 彼女は、初めて彼の抱いていた「拒絶」の輪郭に、触れたような気がした。

 画面上のカーソルが、一定の間隔で点滅している。それは、情報の提出を待つ世界の、無言の督促だった。


 帰宅したミサキは、部屋の明かりをつけないまま、ソファに深く身体を沈めた。

 カーテンの隙間から差し込む月光が、床に長い影を作っている。

 彼女は、自分の喉に違和感を覚えた。

 風邪をひいた時のような痛みではない。もっと硬質な、何かが詰まっているような、ざらついた感触。

 彼女は、無意識に自分の喉元をさすった。

 彼が死んだことで、彼女の日常は元に戻るはずだった。悲劇を乗り越えた自分、という新しい役割を演じ、また次の「救済すべき誰か」を探し始めるはずだった。

 だが、あの「黒い彫像」のイメージが、彼女の脳内ストレージから消去されない。

 それは、彼女がこれまで信じてきた「人間関係」や「善意」といったシステムに対する、致命的なエラーメッセージとして存在し続けている。

 彼女は、暗闇の中で鏡を覗き込んだ。

 鏡の中の自分は、相変わらず「ミサキ」という役割を忠実に遂行しているように見える。だが、その瞳の奥には、以前にはなかった不透明な淀みが生まれていた。

 理解できない。理解したくない。

 だが、彼が選んだあの沈黙の完成度は、否定しようのない「正解」のように思えた。

 提出することをやめ、自分の中に言葉を閉じ込め、結晶化させていく。

 その孤独な作業の果てに、誰にも邪魔されない自由があるのだとしたら。

 彼女は、鏡の中の自分に向かって言葉を発しようとして、やめた。

 声を出す。それだけで、ひとつの「提出」が始まってしまうからだ。

 彼女は、そっと口を閉じた。


 深夜。ミサキはベッドの中で、自分の鼓動を聞いていた。

 ドクン、ドクン。

 その拍動に合わせ、喉の奥の違和感が、少しずつその質量を増していくのを感じる。

 彼女は、かつての友人たちとのトーク履歴を、一つずつ「アーカイブ」へ移動させた。

 消去するのではない。ただ、目に見えない場所へ隔離する。

 ミサキからの返信が途絶えたことを、明日になれば誰かが不審に思うだろう。電話がかかってきたり、メッセージが連投されたりするかもしれない。

 だが、それらに応えるコストを、今の彼女は支払うことができない。

 彼女の指先にある黒いシミは、少しずつ面積を広げ、手の甲へと這い上がっていた。

 それは感染なのか、あるいは単なる精神的な共鳴なのか。彼女には、それを分析する気力さえもなかった。

 彼女は、スマートフォンの電源を切った。

 青白い光が消え、完全な暗闇が訪れる。

 彼女は、自分の中に溜まり始めた「未提出の言葉」を、一つずつ暗闇の奥へと放り込んでいく。

 悲しみ、恐怖、後悔、自己嫌悪。

 それらは外へ出ることを禁じられ、彼女の内面で圧縮され、熱を帯び、やがて冷たい沈殿へと変わっていく。

 彼女は、まどろみの中で最後の一文を、心の中で綴った。

 救済の試み、失敗。

 善意の物語、破綻。

 沈黙への同期、開始。

問題は、無かった。


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