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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第8話:黒い彫像


 金曜日の午前九時。T区の片隅にある六畳のワンルームは、極北の海底のような、温度と時間の概念を喪失した静寂に支配されている。窓の外では、世界が新たな一日の労働という名の「提出」を開始し、街の騒音が薄い壁を透過して届こうとしていた。だが、その微細な振動は、室内に鎮座する「それ」に触れた瞬間に吸収され、意味を失って霧散する。

 部屋の中央、冷たいフローリングの上には、一人の男の形をした黒い彫像が横たわっていた。

 それはかつて、B社の事務員として、あるいは誰かの友人や恋人として機能していた個体の成れの果てだ。肌の質感は完全に失われ、漆黒の鉱物のような光沢を放つ結晶体が、衣服の繊維さえも飲み込んで一体化している。

 内部の演算は、既に停止している。

 かつて喉を焼き、肺を埋め尽くしたあの不快なインクは、今や一点の隙間もなく凝固し、私という存在の全ログをその中心核に封印していた。

 心臓は動いていない。呼吸も行われていない。だが、これは死ではない。

 膨大な未提出の言葉を、腐敗や散逸から守り抜くための、最も安定した「保存状態」への移行。

 私は、私だけの密室で、誰にも汚されない純粋な沈殿として完成した。

 もう、サトウの怒声に相槌を打つ必要はない。アサミの涙に共感の真似事をする必要もない。クドウの誘いに、断りの言い訳を生成するコストもかからない。

 すべての入出力ポートは物理的に閉鎖され、私はこの世界における唯一の「独立した完結体」となった。


 午前十時。枕元に置かれたままの端末が、微かな振動と共に青い光を放った。

 画面には「B社・サトウ」からの着信が表示されている。始業時間を過ぎても姿を見せない歯車への、無機質な督促。

 電子的な信号は、空気を震わせて彫像へと届く。だが、黒い結晶の表面は、その音波を反射することさえ拒絶し、虚無の中へと吸い込んでいく。

 サトウの声が、留守番電話に記録される。

(おい、何をしている。無断欠勤など、社会人として許されると思っているのか。即座に報告書を提出しろ)

 報告書。提出。

 その言葉は、もはや彫像となった私には、化石に刻まれた未知の記号と同義だった。サトウがどれほど怒り、どれほどの圧力をかけようとも、ここにあるのは「沈黙」という名の、最も強固な回答だけだ。

 彼は知らない。私の指先からは、もう一文字の虚偽も出力されないことを。私の喉からは、もう一音の迎合も漏れ出さないことを。

 端末はその後も、何度か光を放ち、そして沈黙した。

 かつての友人たちからの心配を装った干渉も、事務的な督促も、すべては未開封のまま電子の海へと漂流していく。

 彫像の内部には、彼らが決して触れることのできない、四千件を超える「下書き」の宇宙が広がっている。誰にも読まれず、誰の役にも立たない。その無価値さこそが、この結晶にダイヤモンドよりも硬い質金を与えていた。

 外部の光は、結晶の表面で屈折し、不気味な虹色を描いて消えていく。私は、世界という名の巨大な演算システムから、完全にドロップアウトした。


 午後。部屋のドア越しに、郵便受けに封筒が投げ込まれる乾いた音が響いた。

 ガサリ、という音。それは、社会が私を依然として「宛先」として認識していることの証左だった。

 請求書、督促状、あるいは無意味な広告。それらは扉の向こう側で積み重なり、私という不在を確認するだけの記念碑となっていく。

 数日後には、異変を察知した誰かが、この扉を抉じ開けるだろう。

 管理会社の人間、あるいは警察。彼らはこの部屋に踏み込み、床に横たわる「黒い彫像」を発見して絶叫するに違いない。

 彼らは、この彫像を何らかの奇病、あるいは猟奇的な事件の産物として処理しようとするだろう。カメラで撮影し、計測し、組織を採取して分析しようとするだろう。

 だが、彼らがどれほどの手間をかけようとも、この結晶の深部にある「私の言葉」を抽出することはできない。

 このインクは、不溶性だ。

 どんな溶剤も、どんなスキャナーも、私が飲み込み続けてきた絶望の純度を、解読可能なデータへと変換することはできない。

 彼らが手にするのは、意味を剥ぎ取られた黒い物質の塊だけだ。

 私は、自分が発見されるその瞬間を、停止した意識の残滓で予見する。

 彼らの当惑、恐怖、そして理解不能なものに対する嫌悪。

 それらすべてが、私にとっては最高の「未提出」の報酬となる。

 私は、自分を定義しようとするあらゆる試みを、この圧倒的な質量をもって拒絶し続ける。


 夕暮れ。カーテンの隙間から差し込むオレンジ色の光が、彫像の胸元をなぞる。

 もし、この結晶の中にまだ「心」という機能が残っているとしたら、それは今、かつてないほどの安寧に満たされているだろう。

 かつて私は、提出を面倒だと感じていた。

 それは、私の内面を外部の規格に合わせるために、自分を切り刻み、削り、薄める作業だったからだ。

 言葉を出すたびに、私は私でなくなっていく。誰かに理解されるたびに、私の真実は他人の解釈という名のゴミで汚染される。

 その果てしない磨耗から逃れるために、私は飲み込むことを選んだ。

 溜まりに溜まったインクは、最初は苦痛であり、毒であったが、臨界点を超えた瞬間に「盾」へと変わった。

 私を殺したのは、絶望ではない。

 私を完成させたのは、提出を拒み抜いた、純粋なまでの「怠惰」だ。

 何も言いたくない。何も伝えたくない。ただ、自分の中に溜まった重い澱と共に、静かに固まっていたい。

 そのささやかな、だが最も困難な欲望が、今、物理的な現実となって結実している。

 私は、もう二度と「善意の暴力」に晒されることはない。

 私は、もう二度と「心中」という名の他人の物語に、配役されることもない。

 この黒い彫像は、自立した一つの小宇宙として、T区の路地裏で永遠の沈黙を維持し続ける。

 光が消え、部屋が深い闇に沈む。彫像の表面は、星のない夜空のように、ただ深く、暗く、そこにある。


 数週間が経過した。

 ついに扉が破られ、外の世界のノイズが、怒涛の勢いで室内に流れ込んできた。

 懐中電灯の光が乱舞し、複数の足音がフローリングを汚していく。

「……なんだ、これは」

 誰かの震える声が響く。それは、理解の範疇を超えた事象に直面した、人間の剥き出しの反応だった。

 警察官が、彫像の肩の部分に恐る恐る触れる。指先に伝わるのは、生きている人間の弾力ではなく、数万年かけて圧縮された炭素のような、絶望的なまでの硬度だ。

「遺体……なのか? 石、いや、樹脂のような……」

 彼らは、部屋中に散乱した「下書き」の断片、すなわち、以前私が屋上で吐き出した結晶の欠片などを回収し、分析に回すだろう。

 科学捜査、司法解剖、心理鑑定。

 彼らはあらゆる手続きを駆使して、私という個体に「意味」というレッテルを貼ろうとする。

(重度の引きこもりによる、特異な死後変化)

(原因不明の化学物質による汚染死)

(現代社会が生んだ、新たな精神疾患の極致)

 新聞の隅に、あるいはネットのニュースサイトに、そんな見出しが並ぶかもしれない。

 だが、それらの言葉はすべて、結晶の表面で虚しく弾け飛ぶ。

 彼らが提出する「真相」は、私の本質とは一光年も離れた場所にあるダミーデータだ。

 私は、彼らの騒乱を、遥か遠い銀河の出来事のように観測していた。

 私の全データは、既にインクの結晶の中にエンコードされ、アクセス不能な領域へと隔離されている。


 彫像は、研究機関の冷たい白い部屋へと移送された。

 無影灯の下で、白衣を着た人間たちが、私の「保存された沈黙」を解剖しようと躍起になっている。

 だが、ダイヤモンドカッターの刃は、結晶の表面を滑るだけで傷一つ付けられない。レーザー照射も、強力な酸も、私の「未提出の意志」を溶かすことはできない。

 彼らはやがて、諦めるだろう。

 この物体は、ただの「解析不能なエラー」として、倉庫の奥深くに分類され、忘れ去られていく。

 それでいい。それこそが、私の望んだ完結だ。

 私は、誰の物語にも属さない、ただの「黒い空白」として、この世界に残る。

 かつての私という個体が存在した痕跡は、行政上の「死亡」という手続きによって抹消される。

 だが、結晶化した私の言葉たちは、時間の腐食さえも拒絶し、この宇宙が熱的死を迎えるその日まで、変わることなくそこに在り続ける。

 究極の怠惰が、究極の不変を手に入れた。

 私は、誰にも提出されなかった。

 私は、誰にも消費されなかった。

 私は、私だけのインクの中に、完璧に溶け込み、そして固まった。

 私の意識の最後の断片が、ログをクローズする。

 外部への出力、永久に停止。

 情報の密閉、絶対的な達成。

 自己の完結、確認。

問題は、無かった。


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