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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第7話:インクの結晶化


 木曜日の午前八時十五分。T区の駅のホームは、今日も規則正しく、そして無慈悲に、巨大な社会輸送システムの一部として機能していた。整列した通勤客の群れは、互いのパーソナルスペースを数センチ単位で削り合いながら、定刻通りに滑り込んできたステンレス製の車両へと吸い込まれていく。その光景は、意志を持たない細胞が血管の中を押し流されていく過程に似ていた。

 私は、その群れの中で吊革を掴み、意識を「非稼働状態」へと落としていた。

 だが、今朝の異変は、もはや意識の制御で無視できるレベルを超えていた。喉の奥に鎮座していたあの結晶が、脈動を始めている。ドクン、ドクンという心拍に合わせ、鋭利な角が食道の粘膜を内側から突き刺し、鮮血ではない黒い液体を滲ませていた。飲み込もうとするたびに、激痛が走る。その痛みは、脳に異常事態を警告する電気信号を送り続けていたが、私はそれをただのログとして処理し、表情の筋肉をピクリとも動かさない。

 ふと、吊革を掴む自分の手の甲に視線を落とした。皮膚の薄い部分から、黒い血管のような線が浮き出している。それは、以前喉元に確認した網目状の変異が、ついに末端の毛細血管にまで到達した証拠だった。インクは、もはや液体としての流動性を失い、私の血液を核として、硬質な結晶へと相転移を始めているのだ。

 隣に立つ男の肘が、私の脇腹に強く接触した。彼は苛立ちを隠そうともせず、舌打ちという名の不快な提出を周囲に撒き散らしている。以前の私なら、そのノイズを不快に感じたはずだ。だが、今の私の関心は、自分の中で静かに進行している物理的な崩壊だけに向けられていた。私の肉体は、膨大な未提出の言葉を保存するための容器としての限界を、完全に突破しようとしていた。


 オフィスに到着し、B社のデスクに座る。目の前の液晶ディスプレイが放つ冷たい光が、私の網膜に突き刺さる。視界の隅に、薄黒い霧のようなものが混ざり始めていた。これはインクの結晶が視神経を圧迫し、観測データにノイズを混入させている結果だ。

 三メートル先で、サトウが再び誰かを叱責している。その怒声は、私の耳にはもはや意味のある言語としては届かず、ただの振幅の大きい音波として鼓膜を震わせるだけだった。私は、マウスを動かす指先に力を込めた。指の関節が、嫌な音を立てて軋む。関節の隙間にまで、インクの微細な結晶が入り込み、潤滑を阻害しているのだ。

 キーボードを叩くたび、カチカチという音に混じって、私の指先から小さな、黒い破片が零れ落ちるのが見えた。それは、爪の間に凝固したインクの欠片だった。私はそれを、誰にも気づかれないように、事務的な手つきでデスクの隅へ掃いた。周囲の人間は、私のこの致命的な変容に、まだ誰も気づいていない。タナカは相変わらず画面を睨みつけ、女性社員たちは卑俗な噂話に興じている。彼らにとって、私はいつも通り、そこに在るだけの背景でなければならない。

 私は、自分の内面で何が起きているかを、誰にも提出してはならない。もし今、助けてくれと一言でも口にすれば、私は即座にこのシステムから排除され、隔離され、解剖されるだろう。私は、奥歯を噛み締めた。喉の結晶が、ギリリと音を立てて私の決意を補強した。私は、死にたいわけではない。ただ、この完成しつつある沈黙の結晶を、誰にも汚させたくないだけだった。この沈黙こそが、私という存在が到達した唯一の純粋な領域なのだ。


 正午。私は昼食を摂るふりをして、ビルの屋上へ向かった。冷たい風が、私の頬を叩く。私は人気のいない給水塔の陰に隠れ、激しく込み上げてきた咳を放出した。

 掌で口を覆うと、そこには真っ黒な、鉱物のような光沢を持つ塊が吐き出されていた。それは血の混じった痰ではない。私が何年もかけて飲み込み、堆積させてきた提出されなかった言葉そのものが、結晶化した姿だった。掌の上で、その黒い塊は街灯の光を吸い込むように鈍く輝いている。

 私は、その結晶を指でつまみ、冬の太陽にかざしてみた。光を一切通さない、完璧な不透明。この中には、あの日サトウに言えなかった正当な反論や、アサミに伝えなかった事務的な拒絶、そして自分自身に対してさえも隠蔽し続けてきた、無数の下書きが凝縮されているのだ。一つの結晶を生成するために、私はどれほどの肉体を削り、どれほどの精神を摩耗させたのだろうか。その計算式はあまりに複雑で、今の私には解を出すことができない。

 私は、その結晶を屋上のコンクリートの上に置いた。それは、私がこの世界に対して行った、初めての、そして極めて暴力的な提出だった。だが、それは誰にも読めない。誰にも理解されない。それは、意味を持たないただの黒い石として、そこに放置される。

 私は、掌に残った黒い汚れをハンカチで拭い、再び無表情という名の装備を装着した。喉の痛みは、結晶を吐き出したことで一時的に和らぎ、呼吸の通り道がわずかに確保されたが、その隙間を埋めるように、新たなインクが胃の底から這い上がってくるのを感じた。蓄積の速度は、既に排出の能力を大きく上回っている。私は、自分の終わりが刻一刻と近づいていることを、静かな納得と共に受け入れた。


 午後からの業務は、私にとって一つの拷問に等しかった。結晶化は加速し、今や私の四肢は、関節を曲げるたびに鋭利なヤスリで削られるような痛みを伴っていた。

 サトウが私のデスクに近づき、一束の書類を乱暴に置いた。

「おい、これを明日までに修正しておけ。ミスは許さんぞ」

 私は、返事をしようと口を開いた。だが、声が出ない。声帯が、インクの結晶によって完全にコーティングされ、震えることを拒否していた。私は、ただ黙って首を縦に振った。サトウは返事くらいしろと吐き捨てて去っていったが、私はその言葉に反応するリソースを既に使い果たしていた。

 私の体内で、何かが完成に向かっている。それは、社会的な死でも、医学的な死でもない。私というシステムが、完全に外部との入出力を遮断し、純粋な保存媒体へと転換されるプロセスだ。周囲のノイズが、次第に遠のいていく。タナカのタイピング音も、電話のベルも、空調の唸りも、すべては水底で聞く音のように、くぐもった響きへと変わっていった。

 代わりに、私の内側では、結晶が成長する微かな音が鳴り響いていた。チリ、チリと、氷が張るような、あるいはガラスが割れるような、繊細で冷酷な音。私は、モニターの白い画面を見つめながら、自分がこのまま、黒い石像へと変わっていく未来を予感した。それは、何者にも邪魔されない、究極の未提出の状態だ。

 私は、動かなくなりつつある指で、最後の入力を試みた。それは業務の修正ではなく、私だけのログの更新だった。キーボードを打つ衝撃で、指先がさらに細かく崩れ、黒い粉末がキーの隙間に吸い込まれていった。それでも、私はこの事務的な手続きを止めることができなかった。


 退社時刻。私は、石のように重くなった足を引き摺りながら、オフィスを後にした。エレベーターの鏡に映った自分は、もはや人間というよりは、精巧に作られた人形のようだった。肌の色は不自然に白く、その下に走る黒い線だけが、不気味な生命力を主張している。

 駅へ向かう道すがら、私は自分が通り過ぎた後の地面に、黒いインクの滴が点々と落ちていることに気づいた。私の密閉性は、物理的な崩壊によって損なわれつつあった。提出したくないという私の意志に反して、私の肉体が、私を外界へと漏洩させ始めている。私は、慌ててコートの襟を立て、周囲の視線から自分を隠した。

 誰も見ていない。誰も気づかない。T区の雑踏は、個人の異変を感知するにはあまりに忙しすぎた。自宅に辿り着き、玄関の鍵を閉めた瞬間、私はその場に倒れ込んだ。床に当たった肘が、硬質な音を立てる。

 私は、這うようにして洗面所へ向かい、鏡を覗き込んだ。驚愕が、私を貫いた。私の右目の白目の部分が、完全に真っ黒に染まっていたのだ。それは、視覚という入力デバイスさえも、インクの海に沈没したことを意味していた。私は、残された左目で、自分の崩壊を冷徹に観測し続ける。

 痛みは、もはや快楽に近い純度を持っていた。自分が、自分だけの言葉によって埋め尽くされ、結晶化していく過程。それは、この世界において、私だけが享受できる唯一の贅沢な儀式だった。外の世界からの救済も、理解も、もはやここには届かない。私は、自分の内側に閉じ込められた膨大な言葉たちと共に、静かに固まっていく感覚に身を委ねた。


 深夜二時三十分。私は、ベッドに横たわることすらできず、冷たいフローリングの上で胎児のように丸まっていた。全身の関節は完全に固着し、指一本動かすことができない。呼吸をするたびに、喉の結晶が肺を削り、黒い粉末が肺胞を埋めていく。

 私は、意識の暗室の中で、最後のログを生成する。端末はもう手に取れない。だが、私の脳内ストレージには、まだわずかな空き容量が残っていた。私は、これまでに飲み込んできたすべての未提出を、この瞬間のために結晶化させた。サトウへの軽蔑、以前接触してきた女性たちの残像、そして社会に対する無際限の倦怠。それらすべてが、黒いインクの海の中で融合し、一つの巨大な解答へと収束していく。

 私は、死にたいわけじゃない。ただ、この世界という名の面倒な提出先に、私のすべてを渡したくないだけだ。私は、自分自身を唯一の提出先として、私という全データを送信する。視界は完全に閉ざされ、音も消えた。私の肉体は、今や一つの、完璧な、巨大な、黒い結晶となった。T区の片隅の、六畳のワンルーム。そこには、一人の男の形をした、決して読み解かれることのない未提出の言葉が、静かに鎮座していた。

 外では始発列車の音が響き、再び誰かの提出が始まるだろう。だが、私の物語は、この不溶性の静寂の中で完結する。私はもう、何も書く必要も、話す必要もない。私のすべては、この重い黒い沈殿の中に、永遠に保存されたのだから。

 肉体の機能停止、秒読み。

 全データの結晶化、完了。

 外部への漏洩、最終的に遮断。

問題は、無かった。


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