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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第6話:不溶性の恋


 水曜日の午後七時。窓外を流れるT区の夜景は、過剰な電飾によって輪郭をぼかし、どこか現実味を欠いている。私はB社のオフィスを出て、数分前まで「同僚」であった人間たちが駅へと吸い込まれていくのを、少し離れた位置から観測していた。

 彼らの背中は、今日の労働で磨耗したはずの「感情」を、飲み屋や家庭という名の外部サーバーへ提出しようと急いでいるように見える。

 私は、反対方向の歩道へと足を向けた。

 コートのポケットの中で、端末が一度だけ、短く振動した。それは通知ではなく、特定のスケジュール時刻に達したことを知らせる無機質なアラートだった。

 画面には「記念日」という、今の私には解読不能な言語で記されたリマインドが表示されている。

 三年前のこの日、私は一人の女性と、ある契約に似た関係を開始した。アサミではない、別の名前を持つ誰か。かつて私は、彼女という存在に対して、私の内面の一部を「提出」しようと試みた形跡がある。

 下書きフォルダの最深部を検索すれば、彼女に宛てた、瑞々しさを装った言葉の残骸が見つかるだろう。

(君と一緒にいる時間は、私にとっての救済だ)

(この静寂を、二人で守っていきたい)

 それらの言葉を生成した当時の私のロジックを、今の私はもはやエミュレートすることができない。過去のログに残されたそれらの記述は、不溶性のインクに浸され、判読不能な黒い染みへと変質していた。私は、リマインドのアラートを「既読」として処理し、画面を暗転させた。


 駅から離れた静かな公園のベンチに座り、私は自分の呼吸の音を確認する。

 肺の奥に溜まった澱は、昨夜のアサミとの接触を経て、一段と重みを増している。呼吸のたびに、気管の壁をインクがなぞり、冷たい拒絶の感覚を全身に伝搬させていく。

 ふと、その女性――かつての恋人と、この場所で言葉を交わした記憶が蘇った。

 彼女は私の沈黙を「思慮深さ」と呼び、私の停滞を「安らぎ」と定義した。彼女という外部システムは、私の不完全な出力を、勝手な解釈という名のフィルタで補完し、幸福な物語へと変換していたのだ。

 だが、その契約は長続きしなかった。

 彼女が求める「提出」の頻度と質が、私のリソースを上回り始めたからだ。

「もっと、あなたの言葉で話して。何を考えているのか、教えて」

 彼女のその要求に応えるために、私は当時の乏しいエネルギーを振り絞り、自分の中にある澱を濾過して、透明な言葉を生成しようとした。だが、濾過すればするほど、フィルターには黒いインクが詰まり、私の機能は低下していった。

 結局、私は「提出」という手続きそのものを放棄することで、彼女との関係を終了させた。

「問題は、無い」

 最後の日、私はそう告げて、彼女の前から消えた。

 彼女が流した涙の成分も、その時発せられた悲鳴のデシベルも、今の私にとっては処理済みのデータに過ぎない。ただ、彼女に宛てるはずだった数万文字の下書きだけが、今も私の端末のストレージを圧迫し続けている。


 インクの味は、今や口内の粘膜全体を支配し、味覚という機能を麻痺させている。

 私はベンチから立ち上がり、公園の公衆トイレの鏡の前に立った。

 蛍光灯の明滅が、私の青白い顔を不規則に照射している。鏡の中の私は、一見すれば健康な成人男性の姿を保っているが、その瞳の奥には、出口を失った黒い液体が並々と湛えられていた。

 私は唇を開き、喉の奥を確認する。

 そこには、昨夜よりも一回り大きくなった結晶が、鋭利な角を立てて居座っていた。それはもはや、嚥下という動作を拒絶し、私の食道を物理的に塞ごうとしている。

 これが、愛という感情を解体した結果、残留した「ゴミ」の成れの果てだ。

 誰かを想うこと、誰かと繋がること。それらの「提出」を伴う行為が、体内でどのような化学反応を起こし、この毒性の強いインクを生成したのか。そのメカニズムを解明するコストさえも、今の私には惜しい。

 私は、鏡に向かって一度だけ、無理やり口角を上げてみせた。

 頬の筋肉が強張り、引き攣るような感覚。それは「笑顔」のシミュレートとしてはあまりに低品質で、不気味な歪みを伴っていた。

 かつての彼女が愛した「私の表情」は、もうどこにも存在しない。

 残っているのは、膨大な未提出のログと、それを保存し続けるために死滅していくだけの、無機質なハードウェアとしての肉体だけだ。私は、水道の冷水で手を洗い、その感覚をログに記録した。


 公園を出て、街路樹の並ぶ道を歩く。

 前方から、若い男女のグループが、はっきりとした笑い声を上げながら近づいてきた。彼らが放つ情緒の熱量は、夜の冷気を不自然に歪ませ、私の肌に不快な静電気のようにまとわりつく。

 彼らは互いに、自分の今日あった出来事や、抱いた感情を、惜しげもなく「提出」し合っている。その言葉のやり取りに、どれほどの誠実さや正確さが含まれているのか。おそらく、九割以上は、その場の空気を維持するための、中身のないダミーデータだろう。

 だが、彼らはそれを「コミュニケーション」と呼び、互いの存在を確認し合っている。

 私には、その無駄な工程に耐えるだけの演算能力が、もう備わっていない。

 彼らとすれ違う瞬間、私は呼吸を止め、自分の存在を「背景の一部」へと完全に切り替えた。

 グループの一人が、一瞬だけ私の顔を不審そうに見たが、すぐに興味を失って仲間の会話へと戻っていった。

 それでいい。

 観測され、定義されることは、私の密閉性を損なうリスクを孕んでいる。

 私は、彼らが去った後の静寂を肺に吸い込み、喉の結晶の痛みを再確認した。

 かつての恋人との関係も、今のこの擦れ違いも、すべては「情報の非対称性」が生んだバグに過ぎない。私は、他者の期待という名の不純物を一切受け付けない、純粋な不溶性の存在へと近づきつつあった。


 帰宅し、部屋の隅にあるデスクの前に座る。

 端末を起動し、三年前の彼女に関連するディレクトリを指定した。

 そこには、彼女の誕生日、共通の趣味、好きだった料理といった、膨大なプロファイルデータが眠っている。かつての私は、これらを駆使して、彼女との関係という名の「プロジェクト」を円滑に運用しようとしていたのだ。

 私は、そのディレクトリを右クリックし、「完全消去」の項目を選択した。

 画面に「本当に消去しますか?」という、最後の良心のような警告が表示される。

 私は一秒の躊躇もなく、「はい」をクリックした。

 進捗バーが右へと伸び、三年間保存され続けてきたデータが、瞬時に無意味な電気信号へと分解され、消滅していく。

 胸の奥で、何かがパチンと弾けるような音がした。

 それは喪失感ではなく、長年未完了のまま放置されていたタスクが、強制終了されたことによる「解放感」に近い。

 だが、データを消去しても、私の体内のインクが消えることはない。

 むしろ、記憶という外部ストレージを失ったことで、インクの密度はさらに増し、私の意識をより深い暗闇へと引き摺り込んでいく。

 私は、新しい下書きを作成し、今日の最終ログを打ち込み始めた。

(三年前の契約を、システムレベルで破棄。残留データの抹消、完了)

(彼女の面影を、インクで塗り潰す。これで、私の中に残る外部OSとの互換性は完全に失われた)

 私は、誰にも提出されない「不溶性の告白」を保存し、画面を閉じた。


 深夜二時。室内の空気は完全に冷却され、私の吐く息だけが、白く濁って闇に消えていく。

 私はベッドに横たわり、自分の胸元を強く圧迫した。

 インクが満たされた肺は、もはや正常な酸素交換を拒否し、私に浅く速い呼吸を強いている。

 明日になれば、私は再びB社のオフィスへ向かい、サトウの理不尽な命令を、ただのデジタル信号として受け流すだろう。

 そこに「かつての恋人」を想う私の姿はない。

 思い出という名のノイズは、今夜の作業ですべて廃棄された。

 社会は、私が昨日と同じ私であることを期待するだろう。だが、私の内部構造は、秒単位で不溶性の結晶へと置き換わっている。

 いずれ、この結晶が脳に達した時、私は「未提出」という名の、完璧な静止状態に到達できるはずだ。

 私は、まどろみの中で最後の一文を綴る。

 過去の情緒データ、全削除完了。

 外部システムとの互換性、喪失。

 不溶性の沈殿、加速。

問題は、無かった。


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