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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第4話:下書きの墓場


 月曜日の午前一時。世界が再び「稼働」を始める数時間前。私は、遮光カーテンの隙間から漏れ出す街灯の、青白い死体のような光に照らされながら、ベッドの上で端末を保持していた。

 指先は冷え切り、感覚は乏しい。だが、その指がなぞる液晶画面の裏側には、膨大な熱量を持ったまま凍結された「言葉の死骸」が埋葬されている。

 私は、クラウド上に作成された暗号化フォルダの、最深部にあるディレクトリを開く。

 そこには、数年前から現在に至るまで、一度も送信ボタンを押されることなく保存され続けてきた「下書き」の群れがあった。その数、四千三百十二件。

 これらは、私がこの世界に対して提出することを拒否し、自らの体内に貯蔵し続けた感情の目録リストである。

 私は、その中から無作為に一つ、数年前の日付が刻まれたファイルを選択した。

(お前が私の努力を否定したあの瞬間、私はお前の喉笛を噛み切りたいと思っていた)

 画面に浮かび上がる、剥き出しの殺意。それは、当時の私が社会的な体裁を保つために、笑顔という名の仮面の裏側で噛み潰し、インクへと変換した言葉だった。

 今、それを読み返しても、私の心拍数に変化はない。ただ、喉の奥にある結晶が、共鳴するように微かな冷たさを発した。

 過去の自分という他人が残した、鮮度の落ちた絶望。それを観測することは、腐敗した死体を解剖する作業に似ている。私はその醜悪な文字列を、事務的にスクロールし続けた。

 この墓場にある言葉だけが、誰の理解も、誰の共感も受けていないという一点において、完璧な「私のもの」であった。


 スクロールを続ける指が、ある一点で止まった。

 三年前の春。かつての恋人だった女性に向け、書きかけて放置されたままの、数千文字に及ぶ独白。

(君が求める『未来』の中に、私のこの停滞が含まれていないことを、私は知っている)

(愛しているという言葉を提出するために、どれほどの嘘を積み重ねればいいのか、私にはもう計算できない)

 当時の私は、彼女という外部OSと同期するために、懸命に自分の内面を翻訳しようとしていた。自分の澱を隠し、彼女が喜ぶであろう「清浄な言葉」を生成しようと試み、そして失敗した。

 その失敗の痕跡が、下書き保存という名の墓標としてここに残っている。

 彼女と別れた日、私は一言もこれらの言葉を提出しなかった。ただ、「わかった」という最もコストの低い四文字だけを投げ捨てて、彼女の視界から消えた。

 もし、この下書きを彼女に送信していたら、どうなっていただろうか。

 おそらく、彼女は泣いただろう。あるいは激昂し、私のこの歪な構造を「修正」しようとしただろう。そして、私のこの沈殿は、彼女の涙という不純物によって薄められ、凡庸な悲恋の物語として消費されて終わっていたはずだ。

 提出しなかったからこそ、この言葉は三年間、誰にも汚されずに、このフォルダの中で黒い輝きを保ち続けている。

 私はそのファイルを、削除することなく閉じた。

 喉の奥のインクが、じわりと苦味を増す。

 過去の自分。それは今の私にとって、ミサキやサトウよりも質の悪い、最も忌むべき「他者」だった。現在の私の静寂を、当時の青臭い情動で揺さぶろうとする、卑俗な幽霊。私はその幽霊を、論理という名の枷で再び闇の奥へと押し戻した。


 不意に、端末が短いバイブレーションと共に、一通のシステム通知を伝えてきた。

(ストレージの空き容量が不足しています。不要なファイルを削除してください)

 その無機質な文字列は、私の聖域が物理的な限界リミットに達しつつあることを告げていた。

 私の内面を保存するためのサーバー、あるいは私の肉体という名のハードウェア。そのどちらもが、蓄積しすぎた「未提出」の重みに耐えきれなくなり始めている。

 不要なファイル。

 この墓場にあるすべての言葉は、社会的な価値基準に照らせば、一文の価値もない「ゴミ」である。誰にも読まれず、誰の役にも立たず、ただ容量を圧迫し、持ち主の精神を摩耗させるだけのノイズ。

 だが、私にとっては、このゴミの集積こそが、私が私であることを維持するための唯一の重石だった。

 私は、削除候補として表示された過去のログを一瞥する。

(明日の仕事が嫌だ)

(駅前のパン屋の匂いが鼻につく)

(誰とも話したくない)

 それらの瑣末な拒絶の記録を、一つ消去するたびに、私の存在の一部が消えていくような錯覚に陥る。

 私は、削除ボタンの上に指を置いたまま、数分間静止した。

 呼吸が苦しい。肺の肺胞一つ一つに、過去の言葉たちがインクの滴となって詰まっている。

 もし、このすべての下書きを「一括削除」すれば、私はどれほど軽くなれるだろうか。

 だが、それは同時に、私が世界に対して持ち続けてきた唯一の「抵抗」を放棄することを意味する。

 私は削除をキャンセルし、端末を床に放り出した。

 バタン、という音が、静寂に満ちた部屋で不自然に大きく響く。

 インクの味は、今や鉄錆を通り越し、焼けたゴムのような、焦燥を伴う悪臭へと変貌していた。


 私は立ち上がり、ふらつく足取りで洗面所へ向かった。

 鏡の中に映る自分の姿を、剥き出しの蛍光灯が、容赦ない解像度で描写している。

 目の下の隈、精彩を欠いた瞳、そして何より、唇の端から一筋、黒い液体が漏れ出しているのが見えた。

 私は、震える指でその液体を拭う。

 指先に付着したのは、血液ではない。それは間違いなく、私が飲み込み続けてきた「言葉」の成れの果て、黒いインクそのものだった。

 内側から溢れ出している。

 下書きフォルダの容量不足は、私の肉体においても同時に発生していた。

 私は、喉を掻き毟るようにして、その黒い液体を吐き出そうとした。だが、出てくるのは空気に触れて瞬時に固形化する、硬質な沈黙だけだった。

 鏡の中の自分と目が合う。

 そこには、一人の男がいた。膨大な言葉を体内に飼い慣らし、誰にも提出しないという矜持だけで立っている、滑稽な怪物。

 T区の地下鉄で、あるいはB社のオフィスで、私はこのインクを隠し通し、平穏な歯車として振る舞い続けてきた。

 だが、その偽装は、もう限界に達しつつある。

 私は、蛇口を全開にして、冷水で顔を洗った。

 水流が顔に当たった瞬間、脳内の演算が再起動する。

 明日。いや、もう数時間後には、再びサトウの怒鳴り声を聞かなければならない。同僚たちの嘲笑というノイズに曝されなければならない。

 その時、私はこの溢れ出しそうなインクを、再び飲み下すことができるのだろうか。

 それとも、ついに「提出」という名の崩壊を選んでしまうのか。

 私は、濡れたままの顔で、再び暗い居間へと戻った。


 床に転がっていた端末を、私は再び手に取った。

 画面は、依然としてストレージの警告を表示し続けている。

 私は、新しい下書きの作成画面を開いた。

 今、この瞬間の、喉を焼くような不快感。鏡の中の怪物の姿。過去の自分という幽霊。

 それらを、ありのままに記述しようとして、タイピングを開始する。

(容量が足りない。私が消えるか、言葉を出すか、二つに一つだ)

(それでも私は、誰にも提出したくない。このインクは、私の血液そのものだから)

(サトウ、お前の飛沫で汚れた報告書と同じように、私もまた、汚染されたまま完成したい)

 文字を打ち込むたびに、端末のバッテリーが急速に消耗していくのを感じる。

 私の体温もまた、吸い取られるように下がっていく。

 下書きフォルダに、また一つ、新しい墓標が加わった。

 それは誰にも届かず、どこにも送信されず、ただ私の内なる質量を一段と重くした。

 窓の外では、始発列車の走行音が、地響きを伴って届き始めていた。

 世界が「稼働」を開始する。人々の、卑俗で活発な提出の儀式が始まる。

 私は、下書きを保存し、アプリを閉じた。

 フォルダの容量は、もうゼロに近い。

 だが、私は消去を選ばなかった。

 消去するくらいなら、インクに溺れて死ぬ方が、私にとっては論理的な死に様のように思えたからだ。

 私は、冷たくなった床に横たわり、天井を見つめた。


 午前五時三十分。

 街灯が消え、朝の濁った光が室内を支配し始める。

 私は、慣れた手つきでネクタイを締め、鏡の前で「無表情」という名の装備を点検した。

 唇の端の黒い汚れは、石鹸で念入りに落とした。喉の異物感は、熱いコーヒーで一時的に奥へ押しやった。

 外部から見れば、私は今日も、B社に勤める「特記事項なし」の善良な一市民である。

 私の端末には、クドウからの未読通知が溜まり、ミサキからの着信が無視されたまま残っている。

 それらのすべてを「保留」という名のインクの海に沈めたまま、私は玄関のドアを開けた。

 外の空気は、排気ガスと他人の生活の匂いで満ちており、私の肺を鋭く刺した。

 一歩、外へ踏み出す。

 靴の裏がアスファルトを叩く音が、私の鼓膜にログとして記録される。

 私は、今日一日で発生するであろう、数千の「飲み込むべき言葉」の総量を計算し、絶望的なコストの高さに、微かに口角を歪めた。

 それは微笑みではなく、筋肉の痙攣に近い。

 駅へ向かう人波の中で、私は再び、透明な背景へと同化していく。

 私の内側で、下書きの墓場が、静かにその面積を広げていた。

 ストレージは限界だが、機能は維持されている。

 過去の清算、なし。

 感情の廃棄、完了。

 日常の継続、確定。

問題は、無かった。


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