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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第3話:意という暴力


 日曜日の午後一時。閉め切ったカーテンを透過する陽光が、室内の埃を淀んだ金色に染めている。その光の粒子を、私はベッドの上からただ無機質に数えていた。

 突如、玄関のチャイムが、静寂を暴力的に引き裂いた。ピンポーン、という高い電子音が、狭いワンルームの壁に反響し、私の鼓膜を容赦なく叩く。

 私は動かない。居留守という選択は、思考コストにおいて最も安価な回答だ。

 だが、音は止まない。二度、三度。さらに重い金属音が続く。ドアの向こう側で、誰かが私の名前を呼んでいる。

「……開けて。いるのはわかってるの」

 その声の主は、クドウとの共通の知人であるミサキという女性だった。彼女の声には、確信に満ちた「正義感」が宿っている。

 私は溜息を吐き、喉の奥に固まりつつあるインクの結晶を嚥下した。彼女のようなタイプは、目的を達するまで立ち去らない。放置し続ければ、管理会社や警察を呼ぶという「過大なコスト」を発生させるリスクがある。

 私はゆっくりとベッドを抜け出し、最低限の身なりを整える。足元に転がっている空のペットボトルを足で退け、重い鉄の扉を開けた。

 ドアの隙間から差し込んできたのは、外気と共に、彼女が纏う過剰なまでの「生命感」だった。彼女は私の顔を見るなり、その眉を悲劇のヒロインのように寄せて見せた。

「やっぱり。こんな暗い部屋に一人でいて。クドウ君が心配してたよ、何かあったんじゃないかって」

 彼女の瞳には、弱者を助ける側特有の、醜悪な悦びが透けて見えた。私はその視線を「不快」というラベルを貼って処理し、扉の縁を掴んだまま沈黙を維持した。


 彼女は、私の返答を待たずに言葉を重ねてくる。その一語一語が、私の領域を土足で踏み荒らす泥靴のように感じられた。

「連絡も返さないし、会社も休みがちだって聞いたよ。ねえ、話して? 私でよければ何でも聞くから。一人で抱え込まないで」

 彼女が差し出してくる「理解」という名の救済。それは、私という人間を、彼女が制御可能な「可哀想な人」という型に嵌め込もうとする儀式に過ぎない。

 私は、自分の喉の奥に溜まった真っ黒な液体の感触を再確認する。彼女に今の状態を説明するコストを計算してみる。

 言葉を紡ぐには、まずこのインクを吐き出さなければならない。そして、私の沈殿を、彼女の語彙でも理解できる「悩み」や「ストレス」といった卑俗な言葉に翻訳し、提出しなければならない。その過程で、私の純粋な絶望は薄められ、彼女の安っぽい共感という不純物と混ざり合い、汚染されていく。

 それは、私の聖域に対する決定的な冒涜だ。

 私は彼女の顔を、ただの「発声する肉塊」として観測し続けた。彼女の口元が動くたびに、私への期待と自己満足が、微かな飛沫となって空気中に霧散していく。

「……話すことなんて、何もない」

 私は、絞り出すように答えた。その声は、自分でも驚くほど乾燥し、熱を失っていた。

 だが、ミサキはそれを「強がり」だと解釈したらしい。彼女は一歩、玄関のしきいを越えて踏み込んできた。その踏み込みは、私の生存圏に対する宣戦布告と同義だった。

 彼女の瞳には、折れない正義の光が宿っている。それは、暗闇に沈んでいた私の網膜を暴力的に焼き切る、不快な光輝だった。


「何もないわけないでしょ。そんな顔をして、そんな部屋にいて」

 ミサキは、私の肩に手を置こうとした。私はその指先が触れる寸前で、一歩身を引く。

 他人の体温。それは今の私にとって、猛毒に等しい。

 彼女の指は宙を切り、不満げに握り込まれた。彼女の脳内では今、「拒絶される私」というシナリオが進行し、それがさらに「救済の必要性」を強化しているのだろう。

 救済とは、常に強者から弱者への一方的な贈与だ。彼女は私を助けることで、自分自身が「正しい側にいる」ことを確認したいだけなのだ。その傲慢な精神構造を、私は極めて事務的に分析し、廃棄する。

「……帰ってくれ。君に提出できるようなものは、ここには一つもない」

 私は「提出」という言葉を敢えて使った。彼女にはその意味がわからないだろう。

 案の定、彼女は困惑したように小首を傾げた。その動作さえも、計算された愛らしさを孕んでいて、私の胃の中の澱を激しく攪拌させた。

「提出って……難しい言い方しないで。私はただ、力になりたいだけなの。ねえ、美味しいもの食べに行こう? 外の空気を吸えば、きっと気分も変わるから」

 彼女の提案する「気分転換」という名の、最悪な時間浪費。外へ出れば、さらなる他人のノイズに曝され、私のインクはさらに薄められてしまう。

 私は、扉のノブを強く握り締めた。金属の冷たさが、手のひらを通して私の体温を奪っていく。

 彼女の善意という名の暴力は、私の喉にある結晶を、より硬く、より鋭利なものへと変容させていく。私は、彼女を追い出すために必要な最小限の言葉を探し始める。それは対話ではなく、排除のための手順プロトコルだった。


 ミサキの口から溢れ出る言葉は、今や意味を持たない音の羅列として私の鼓膜を素通りしていく。

「……最近、T区に新しいカフェができたんだけど」

「……みんな、あなたのことを待ってるんだよ」

「……そんな風に、自分を閉じ込めないで」

 彼女の語彙は、誰かの借り物のような既製品ばかりだ。どこかのドラマや、誰かのSNSで見たような、手垢のついたフレーズ。それらを「善意」というラッピングで包んで差し出す行為。

 私は、自分の足元にある境界線を凝視した。

 ここを越えさせれば、私の部屋という密室は崩壊し、外部の不純物で満たされてしまう。

 私は深呼吸を一つ、試みた。肺の奥に溜まったインクが泡立ち、気管を塞ぐ。

「君の言う『善意』は、私にとっては過剰な負荷だ」

 私は、感情を排した平坦な声で告げた。

「君が私を救うことで得たい自己満足に、私が付き合う理由はない。君の持ってきた『外の空気』は、私の部屋を汚すだけのゴミでしかないんだ」

 ミサキの表情が、凍りついた。

 彼女の脳内にある「救済される側」のテンプレートにない言葉。彼女の「正義」が、初めて有効な反撃を受けた瞬間だった。

 彼女の瞳が小刻みに揺れ、頬がわずかに赤らむ。それは、屈辱と、信じられないという拒絶反応の現れだった。

 私はその変化を、淡々とログに記録する。

 これでいい。彼女が私を「助ける価値のない、嫌な奴」だと認識すれば、救済の手続きは中断される。それが、最も効率的な解決策ソリューションだ。

 彼女の唇が震え、何かを言い返そうとして、再び閉ざされる。私は、その沈黙の秒数を数えながら、次の動作へと移行する準備を整えた。


 沈黙は、十秒続いた。

 やがて、ミサキは信じられないものを見るような目で私を一瞥し、一歩、また一歩と玄関から遠ざかった。

「……わかった。そんな風に言うなら、もういいよ。勝手にすればいいじゃない」

 彼女の声には、隠しきれない棘が含まれていた。善意というメッキが剥がれ、その下から剥き出しの「不快感」が顔を覗かせる。

 彼女は、乱暴な手つきでバッグを肩にかけ直し、踵を返した。

 その背中に向けて、私は一切の言葉を掛けなかった。感謝も、謝罪も、後悔も、提出する価値のないゴミだ。

 バタン、という大きな音と共に、鉄の扉が閉まる。

 世界との接続が、再び遮断された。

 私は、玄関に背を預けたまま、その場に崩れ落ちた。

 体内のエネルギーは、今の短い拒絶の手続きだけで、底を突きかけている。

 喉の奥からは、かつてないほど濃厚なインクの味が立ち昇っていた。彼女が残していった「救済」の残骸を、私は一つ一つ、内面の下書きフォルダへと放り込んでいく。

(ミサキ、君の瞳に映る『可哀想な私』を、私はここで殺した)

(二度と、私の絶望に触れようとするな。それは君のような人間に汚されていいものではない)

 指先が震え、私は床に落ちていた端末を拾い上げた。

 ミサキからの着信履歴。クドウからのメッセージ。

 それらはすべて、私を外側の世界という名の濁流へ引き摺り込もうとする鎖だ。

 私は、それらを一つずつ「アーカイブ」という名の墓場へ送り込んでいく。

 暗い部屋の中で、端末の画面だけが、私のインクを吸い取って青白く光っていた。


 深夜。ミサキが去ってから数時間が経過し、室内の空気は再び、冷たく澄んだ沈殿を取り戻している。

 私はベッドに横たわり、自分の喉を指でなぞった。

 そこには、彼女が触れようとした温度の代わりに、硬く冷質な結晶が、確実にその領土を広げていた。

 彼女は明日、クドウや他の知人たちに、私のことを話すだろう。「あいつはもうダメだ」「あんなに酷いことを言われた」と、自分の被害を強調しながら。

 それでいい。

 私の評価が地に落ちるほど、外からの接触は減り、私の密室はより強固になる。

 社会的な死は、私にとって、このインクを守るための防腐剤のようなものだ。

 私は、今日一日の出来事を、脳内のログに記録する。

 ミサキの侵入、救済の拒絶、そして関係の破綻。

 それらはすべて、規定の手順に従って処理された。

 私の呼吸は、今や深く、静かなインクの味に染まっている。

 世界は相変わらず、私の外側で不快な騒音を撒き散らしながら回っているが、ここには届かない。

 私は、まどろみの中で最後の一文を綴る。

 ミサキの訪問による損害、なし。

 外部への感情流出、ゼロ。

 密閉性の向上、確認。

問題は、無かった。


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