第2話:ノイズの遮断
土曜日の午前十時十四分。カーテンを閉め切った六畳のワンルームは、水槽の底のような、不透明で重い静寂に満たされている。窓の外からは、近所の公園で遊ぶ子供たちの甲高い叫び声や、遠くを走るバイクの排気音が、厚いコンクリートの壁を透過して微かなノイズとして届いていた。それらは本来、世界が正常に機能していることを示す生命の鼓動であるはずだが、今の私にとっては、私の鼓膜を不当に揺らすだけの「余剰な振動」でしかない。
枕元に置いた端末が、微かな振動と共に青い光を放った。液晶画面には、かつて同じ学び舎にいたクドウという男からの通知が表示されている。
(久しぶり。今日、昼からいつもの店で集まるけど、お前も来るだろ?)
画面を凝視する私の網膜に、青い光が刺さる。
かつての私であれば、この誘いに対し、即座にいくつかの返信パターンを検討したはずだ。「行く」という肯定、「用事がある」という無難な拒絶、あるいは「少し遅れる」という妥協。だが、今の私の脳内では、そのすべての選択肢が「高コスト」と判定され、即座に思考の廃棄スロットへと放り込まれる。
クドウという人間は、自分の感情や近況を「提出」することに何の躊躇も抱かない。彼と会えば、私は数時間、彼の成功体験や、卑俗な不満、そして無意味な世間話という名の「情報ゴミ」を強制的に受領させられることになる。そして、それらに対して適切な表情を浮かべ、適切な相槌という名の報酬を支払わなければならない。
その手続きの煩雑さを想像しただけで、喉の奥に溜まったインクが、じわりと苦い粘り気を持って逆流してきた。
「……行かない」
私は声に出すことなく、ただ思考の中でその決定を確定させる。返信という名の「提出」さえも、今の私には過分な重荷だった。私は端末を裏返し、発光する画面をシーツの暗闇の中へと埋没させた。沈黙こそが、今の私に許された唯一の防壁だった。
正午を過ぎ、空腹という生理的な信号が私の脳に「エネルギーの補充」を要求し始めた。
私は重い腰を上げ、狭いキッチンへと向かう。ステンレス製のシンクには昨日使ったコップが一つ、乾いたインクの跡のような茶渋をつけて転がっていた。それを洗うという行為さえも、今の私には一つのプロジェクトを完遂するような、膨大な工程数を含んでいるように感じられる。
冷蔵庫を開けると、中にはコンビニエンスストアで購入した無機質なパッケージの食品がいくつか並んでいる。私は、最も調理の手間が省ける、加熱するだけのレトルトパウチを手に取った。
電子レンジの加熱終了を知らせる電子音が、静かな室内で暴力的に鳴り響く。ピー、ピー、ピー。その三回の音波が、私の神経を逆撫でし、体内の澱を激しく攪拌した。
食事中、私は無意識に自分の喉元をさすった。以前から感じている鉄錆のような苦味は、今や完全に私の味覚のベースラインとなっている。何を食べていても、何を飲んでいても、常にその背後に黒いインクの質感が張り付いている。
ふと、クドウとの共通の知人である女性の顔が脳裏をよぎった。彼女は、私のこの「沈殿」を見透かそうとするような、鋭く、それでいて慈悲深い視線を向けてくるタイプだった。もし彼女がこの場にいたら、私のこの停滞を「病気」や「逃避」と呼び、言葉による救済を試みるだろう。
その「救済」が、私にとっては最も忌むべき暴力であることを、彼女は理解しない。
他者の理解というものは、常に自分勝手な解釈という名のフィルタを通している。彼女が私の絶望を理解したと宣うとき、それは彼女の脳内に構築された「偽物の私」の絶望でしかない。そんな不純な共感に身を委ねるコストを払うくらいなら、私はこのまま、誰にも触れられない孤独なインクの中で窒息することを選ぶ。私は最後の一口を飲み下し、喉の異物感を再確認した。食器を片付ける気力もなく、私は再び薄暗い居間へと戻った。
午後の陽光が、カーテンの隙間から細い矢のように差し込み、室内の埃を白く浮き上がらせていた。浮遊する埃の粒は、私の意思とは無関係に運動を続け、私の部屋という閉鎖空間を無数の微粒子で満たしている。
私は再びベッドに潜り込み、端末の電源を入れる。クドウからの通知は、さらに二件増えていた。
(おい、見てるんだろ。既読ついてないぞ)
(みんな待ってる。せめて返事くらいしろよ)
画面上の文字は、もはや私への呼びかけではなく、私の領域を侵食しようとする害虫の群れのように見えた。
彼らは「共有」というシステムに依存している。自分の存在を他人に認めさせ、他人の反応を栄養にして自分を確認する。そのサイクルを維持するために、彼らは常に何かを提出し続け、他人にも提出を強要する。その果てしない循環の、どこに安息があるというのか。
私は、連絡先の一覧を開き、クドウの名前をタップした。そして、躊躇することなく「通知オフ」の設定を有効にする。これで、彼がどれだけ騒ぎ立てようと、私の端末が青い光を放つことはなくなる。
次に、私は記号化された青い鳥のようなアイコンのアプリを開いた。
タイムラインには、見知らぬ誰かの怒り、誰かの自慢、誰かの空虚な祈りが、凄まじい速度で流れていく。人々は、自分たちの感情を短い「記号」に圧縮し、世界という名の巨大なゴミ捨て場に放り込み続けている。それらは提出された瞬間に、他人の悪意や誤解に曝され、ズタズタに引き裂かれていく。
私はその光景を、安全な透明の檻の中から眺める観測者のように、冷淡にスクロールし続けた。
喉の奥で、結晶が動いたような感覚があった。小さな、鋭利な痛みが走る。
言葉を外へ出さずに、自分の中に溜め込み、保存する。その代償として、私の体内は少しずつ「私自身の言葉」によって汚染されていく。だが、それは他人の解釈に汚染されることに比べれば、遥かに清浄で、幸福な行為のように思えた。私は、流れていくタイムラインをただ見つめ、一文字も打たずにアプリを閉じた。
夕刻。室内の色彩が青灰色に染まり始める頃、私は近所の無人販売所へ向かうために外に出た。
T区の外れにあるこの住宅街は、週末の夕暮れ時特有の、弛緩した生活感に溢れている。すれ違う親子連れの笑い声、スーパーの袋を下げた主婦の足音、それらすべてが、私にとっては耐え難いほどの「高彩度な現実」として迫ってくる。
歩道に設置された自動販売機の赤い光が、網膜に焼き付く。
私は、周囲の人間と目を合わせないよう、視線を足元のひび割れたアスファルトに固定した。
誰かと視線が合う。それだけで、ひとつの「提出」が始まってしまう。会釈をすべきか、目を逸らすべきか、どのような表情を浮かべるのが「正解」なのか。その瞬時の判断に消費されるエネルギーが、今の私には惜しい。
無人販売所の冷たいアルミニウム製の扉を開ける。
そこには、誰の声も、誰の視線も存在しない。ただ、価格の記された値札と、整然と並ぶ商品があるだけだ。私は、あらかじめ用意しておいた小銭を、重厚な金属製の箱に投入した。
チャリン、という乾いた音が、静かな空間に響く。
この「対価を支払って物を受け取る」という、極めて純粋で事務的な取引だけが、私を安心させた。そこには感情の介在する余地はなく、過剰な説明も、不必要な相槌も求められない。
商品を受け取り、店を出ると、街灯が一つ、瞬きをしながら点灯した。
空は深い群青色に沈み込み、世界の境界線が曖昧になっていく。
私は、自分の足音だけを聞きながら、再び自分の巣へと戻る。
体内のインクは、冷たい夜気に触れて、さらにその粘度を増したように感じられた。私の歩みは、一段と重く、遅くなっていく。まるで、地面に吸い込まれる黒い液体の塊になったかのような錯覚を覚えながら。
帰宅し、部屋の明かりをつけないまま、私は床に直接腰を下ろした。
暗闇の中で、端末の画面だけが孤独な発光体として存在している。
通知は一件も届いていない。私が他者を遮断し、世界との接続を断った成果だ。
私は、再びクラウド上の「下書き保存」フォルダを呼び出した。
そこには、今日一日、誰にも言わずに飲み込んだ言葉たちが、既にいくつかのテキストファイルとなって追加されていた。
(クドウ、お前が語る『親友』という言葉の安っぽさに、私は吐き気がする)
(救済を語るあの女性の瞳の奥にある、自己満足という名の傲慢さを、私は見逃さない)
(私は、このまま誰とも繋がらず、インクの中で溶けてしまいたい)
誰にも見せない日記。誰にも届かない手紙。
それらは、私の内面という名の密室で、誰にも汚されない宝石のように輝いている。
もし、これらを公の場に投稿すれば、瞬時に「病んでいる」「疲れているだけだ」という安易なレッテルを貼られ、消費され、消えていくだろう。彼らにとって、他者の絶望は格好のエンターテインメントであり、自分たちの「正常さ」を確認するための踏み台に過ぎない。
私は、キーボードの上に指を滑らせ、さらに数行の言葉を書き足した。
言葉を紡ぐほどに、口内の鉄錆味は強まり、呼吸の通り道は狭くなっていく。
だが、それが心地よかった。
自分が自分だけの「澱」で満たされていく感覚。それは、この世界において唯一、私が自由を実感できる瞬間だった。
私は、誰にも提出されない完璧な文章を、保存ボタンを連打して確定させた。下書きの数は増え続け、私の内なる図書館は、誰にも読まれない禁書で埋め尽くされていく。それは、私という存在を証明するための、最も孤独で純粋なアーカイブだった。
深夜二時。室温は下がり、私の肌表面からは少しずつ熱が奪われていく。
私はベッドの中で丸まり、自分の心臓の音だけを数えていた。ドクン、ドクン、というその拍動は、私の体内のインクを全身の末端へと送り届けるポンプのように機能している。
明日は日曜日だ。さらに多くの人々が街へ繰り出し、さらに多くの感情が提出され、世界は不快な熱量で溢れかえるだろう。
私は、その熱量から逃れ、この冷たい沈殿の中に留まり続ける。
喉の奥の結晶は、今や一つの確かな質量を持って、そこに鎮座している。それは私の声帯を圧迫し、もはや私から「まともな言葉」を奪いつつあった。
それでいい、と私は思う。
語るべきことなど、もう何一つない。
誰かに伝えたいことなど、もう何一つない。
かつての友からの誘いを無視したことも、知人の救済を拒絶したことも、記録上は「私の不義理」あるいは「気分のムラ」として処理されるだろう。
社会的な評価がどうあれ、私の内側の聖域は守られた。
私は端末を枕の下に深く押し込み、意識の電源を落とす準備を整えた。
網膜の裏側には、真っ黒なインクの海が広がっており、私はそこへ、音もなく沈んでいく。
外部への出力は、今日もゼロ。
情報の漏洩は、今日もゼロ。
私の世界は、完全に密閉された。
問題は、無かった。




