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第3話:不溶性の食卓


 T区の路地裏に、排気口から脂じみた溜息を吐き出し続ける定食屋『いなほ』がある。

 かつてここは、近隣の工事作業員たちの怒鳴り声や、サラリーマンが吐き出す不毛な上司への愚痴、そして音量を上げたテレビが流す安っぽいニュースが混ざり合う、騒々しい吹き溜まりだった。

 だが、今のそこには、耳の奥が痛くなるほどの「清潔な静寂」が澱のように沈んでいた。

 タナカは、かつて「彼」が好んで座っていたカウンターの端に、幽霊のように腰を下ろしていた。

 店主は、客が入ってきても「いらっしゃい」とは言わない。ただ、無言で冷たい水が注がれたコップを、テーブルを叩くような無機質な動作で置くだけだ。その指先はわずかに黒ずみ、水面に反射する蛍光灯の光を、吸い込むようにして暗く淀ませている。

 タナカは、壁に貼られた手書きのメニューを見上げた。以前は「本日のおすすめ」が賑やかに書き込まれていた黒板は、今や黒いインクで執拗に塗り潰され、ただ一言、中央に「日替わり」とだけ記されている。

 何かを選び、それを相手に伝える。そんな単純なやり取りさえもが、今の店主にとっては、喉を削り、精神を磨り潰すほどの耐え難い重労働なのだ。

 タナカは無言で頷き、店主もまた、無言で奥の調理場へと消えた。

 店内に響くのは、野菜を切る規則正しい包丁の音と、古い換気扇の唸りだけだ。テレビの電源は切られ、かつて客が放置していったスポーツ紙は、灰皿の底でインクのシミと化して放置されていた。


「……これ、味しますか」

 不意に、隣の席に座る作業着の男が、独り言のように、あるいはタナカへの問いかけのように、掠れた声を漏らした。

 タナカは、重い首をゆっくりと巡らせる。男の目の前には、半分ほど食べかけの焼き魚定食があった。

「味、ですか」

「ええ。噛んでいる感触はあるんです。でも、それが『美味しい』のか『不味い』のか、自分の心まで届く前に消えてしまう。まるで、温かい砂を噛んでいるみたいだ」

 男は力なく笑おうとしたが、頬の筋肉が固まっており、歪な表情のまま固まった。

「……俺も、同じです。ただ、腹を膨らませるだけだと思えば、それでいいんでしょうけど」

 タナカの回答に、男は微かに首を振った。

「いや、違う。俺たちは、感想を外に出すことをやめたんだ。誰かに『旨いね』って言うだけでも、喉の奥の黒い何かが暴れ出す。だったら、最初から何も感じない方が楽なんだ。反応するだけ無駄だ」

 男はそれきり、固く口を閉ざした。

 運ばれてきたタナカの焼き魚は、完璧に火が通り、見た目には文句のつけようがないものだった。だが、それを口に運んでも、タナカの心は一ミリも動かない。

 かつては食事をしながら、スマートフォンの画面を追い、見知らぬ誰かの意見に共感したり、憤ったりしていた。だが、今はその画面を見ることさえもが、眼球を焼くほどの過剰な刺激に感じられる。

 タナカは無言で咀嚼を繰り返した。それは食事というより、自らの内側に沈殿する沈黙を、より重く、より確実に固めていくための儀式に近い。


 夕暮れ時。門倉は、再びB社の周辺を彷徨っていた。

 作家イヌイの事件以来、彼の脳内では「沈黙の分布図」が急速にその密度を増している。

 ふと、路地裏の定食屋『いなほ』の暖簾が目に入った。そこは第1号の男が生前、頻繁に利用していた店として、警察の古い記録に残っていた場所だ。

 門倉が暖簾をくぐると、店内の空気の「密度」に一瞬、足が止まった。

 客は数人いる。だが、物音がしない。食器が触れ合う金属音さえもが、厚い膜を被せたように鈍く響き、すぐに静寂に吸い込まれていく。

 門倉は空いている席に座り、店主を呼ぼうとした。

「……店主、少し話を」

 その声が、自分でも驚くほど不自然に、そして暴力的な騒音として店内に響き渡った。

 客たちが、一斉に、そして機械的な動作で門倉を見た。その瞳は一様に不透明で、「なぜ、余計な音を外に出すのか」という静かな非難に満ちていた。

 店主が、重い足取りでカウンターに現れた。その顔は、一週間前よりも明らかに生気を失い、石に近い質感を帯びている。

 門倉は警察手帳を提示しようとしたが、その動作さえも、この完璧に調律された静止画を汚す野蛮な行為のように思えて、手が震えた。


「警察だ。十日ほど前に亡くなった、あの会社員のことで伺った。彼は、ここでよく食べていたはずだ」

 店主はすぐには答えない。ただ、門倉の喉元を、獲物を狙う爬虫類のような、冷徹な視線で見つめている。

「……あいつ、ここでどんな話をしていた? 何か、変わった様子はありませんでしたか」

 門倉の追求に、店主はゆっくりと、自分の喉を指差した。

「話なんて、誰もしねえよ。ここは、食って、消えるだけの場所だ」

 店主の声は、古い機械が砂を噛んだような、乾燥した摩擦音だった。

「あいつは、いつもこの端の席で、一言も喋らず、正確に完食して、音も立てずに金を置いていった。……最高の客だった。俺たちは、それで通じ合っていたんだ。言葉なんて、必要なかった」

 店主は、脂で汚れた伝票の束を取り出した。そこには過去数年分の注文が記されている。だが、最近のページになればなるほど文字は削ぎ落とされ、最後の方はただの「・(点)」の羅列に変わっていた。

「出す言葉がないなら、書く必要もない。そう思ったら、身体の節々の痛みが消えた。あんたも、そうなんだろ? 刑事さん」

 店主が、門倉の握りしめた手帳を指差す。

「その中に、何を『提出』するつもりだ。嘘の報告か、それとも理解不能な真実か。どっちにしろ、あんたの喉にあるその黒い塊が、いつか全部塗り潰しちまうよ」


 門倉は逃げるように店を出た。

 表通りの騒音、行き交う車のヘッドライト、人々の笑い声。それらすべてが、今は自分を削り取る暴力的な干渉に感じられる。

 歩道を行き交う人々を観察すると、異変は至る所に潜んでいた。

 スマートフォンの通話を途中でやめ、呆然と立ち尽くす女。看板の文字を無心に黒いペンで塗り潰しているコンビニ店員。

 誰もが、自分の中の何かを外へ出すことに、生理的な嫌悪を抱き始めている。

 門倉は自分の手帳を開き、今の目撃情報を記そうとした。

(店主の掌に結晶化の兆候あり。客層にも同様の反応が……)

 そこまで書いて、万年筆を握る手が激しく震えた。文字を書くという行為は、世界に対して自分の思考をさらけ出すことだ。それはあまりに脆弱で、無駄な浪費に思えた。

「……クソッ」

 門倉は、書いたばかりの文字を、執拗に塗り潰した。

 真っ黒な四角いシミが、手帳のページを汚していく。

 だが、その真っ黒な「無」を見て、門倉は生まれて初めて、深い安堵感を覚えた。

 説明を放棄する。記述を拒絶する。その一歩だけで、脳内を駆け巡る騒がしい思考が、急速に冷えていくのがわかった。

 彼の喉の奥で、鉄の味が甘美な沈黙へと溶け始めていた。


 夜。定食屋『いなほ』の看板の灯が消えた。

 店主は暖簾を仕舞い、店の鍵を内側から閉めた。

 もう、明日から店を開けるつもりはない。誰かのために食事を作り、対価として言葉や金をやり取りし、社会という繋がりを維持すること。そのすべてが、今は耐え難い不快な雑音だった。

 店主は厨房の床に座り込み、一瓶の黒いインクを静かに飲み干した。

 それは、世界を拒絶し、自分という人間を完全に密閉するための、最後の手続きだった。

 翌朝、定食屋のカウンターの内側には、一人の男の形をした、見事な「黒い彫像」が鎮座していた。

 その顔は穏やかで、何かを誰かに伝える必要のない、完璧な平和に満ちていた。

 カウンターの上に置かれた伝票には、最期に打たれた一点の墨跡だけが、社会への最後の提出物として残されていた。

 T区の路地裏から、また一つ、意味を成す音が消えた。

 だが、その空白は、周囲の静寂をより一層深め、次なる沈黙者を招くための、不可欠な欠片として機能し始めていた。

 日常供給、停止。

 三体目の標本、完成。

 沈黙の共鳴、生活圏へ浸食。

問題は、無かった。


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