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『死にたいわけじゃない、ただ「提出」が面倒なだけだ。』  作者: 月見酒
第1章:インクの沈殿と沈黙の標本
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第1話:インクの味

「死ぬ」という行為には、あまりに多くの手続きが伴う。

遺書の作成、遺体の処理、関係者への情緒的な配慮。

それらはすべて、この世界という名の面倒な宛先への「提出」だ。

主人公が求めたのは、絶望ではなく「完璧な沈黙」です。

誰にも理解されず、誰にも消費されず、ただ内側に溜まった重いインクと共に固まっていく。

その事務的な崩壊の記録を、どうぞ、余計な感情を排して「観測」してください。

本稿は、ある個人の密閉された結末と、それに同期し始めた世界のログである。


 午後二時十四分。オフィスの天井に死角なく並ぶ直管形蛍光灯のうち、私から数えて左から三本目が、寿命の末期特有の不快な異音を立てている。ジー、というその微かな震えは、一定の周期で私の鼓膜を突き、脳の深部にある静かな領域を侵食していた。

 私のデスクから三メートルと離れていない場所で、部長職にあるサトウが、合成樹脂製のデスクの角を思い切り拳で叩いた。ドォン、という鈍い音が、乾燥しきった室内の空気を物理的な衝撃波として震わせる。

「このデータの不備、何度目だと言えばわかるんだ! 君の頭は飾りか? やる気がないなら、もういい。帰れ。今すぐだ、この無能が!」

 サトウの額には、怒張した血管がはっきりとしたY字を描いて浮き出ている。その開かれた口からは、昼食に摂取したであろう刺激物の残留臭と、粘着質な唾液の飛沫が四散した。飛沫のいくつかは、私が昨日まで徹夜で仕上げ、提出したばかりの報告書の表紙に着弾した。白い紙面の上に、透明で醜悪な染みが広がっていくのを、私はただ観測する。

 本来、私の思考回路からは、即座にいくつかの事実が射出されるはずだった。不備の原因はB社側の基幹システムにおけるログの欠落であり、私の手元にある権限では修正が不可能であることを三度報告済みであるという事実。そして、今ここで帰宅を命じるのであれば、現在進行中のプロジェクトCの全進捗をこの場で放棄することになるが、その損失を貴方は組織の責任者として許容できるのかという最終的な確認事項。

 だが、それらの言葉を喉の出口まで手繰り寄せた瞬間、脳内で無機質な演算が走る。

 これらを言語化し、怒号と唾液で飽和したこの空間に投下するために必要な熱量。サトウがそれを正しく認識し、理解に至るまでに浪費されるであろう莫大な時間。その後に必ず発生する、湿り気を帯びた不毛な謝罪のラリー。それらを天秤にかけた結果、得られるリターンは、私が今ここで沈黙することの平穏を到底超えられなかった。

「……申し訳ありません。以後、留意します」

 私は、重力に逆らわず、最も抵抗の少ない角度で頭を下げた。首の付け根に、冷たい鉄の重りを感じながら。


 サトウは短く鼻を鳴らし、乱暴な手つきでキャスター付きの椅子を引いて座った。椅子の軋む音さえも、この部屋においては暴力的なノイズとして機能している。

 私は自分のデスクに戻り、サトウの飛沫が付着した報告書を、事務的な手つきでゴミ箱へ放った。紙が折れ曲がる音と、ゴミ箱の底に落ちる音が、私の内側で奇妙な達成感として反響する。

 周囲のデスクからは、同僚たちの「はっきりとした」反応が、微かな空気の揺れとなって伝わってくる。隣の席に座るタナカは、こちらに視線を向けることすら拒絶し、キーボードを叩く音を一段と激しく鳴らしていた。その連続的な打鍵音は、明確に「関わりたくない」という拒絶の意思を空間に刻みつけている。

 斜め前の席では、女性社員二人が顔を寄せ合い、目配せを交わしていた。彼女たちは隠すこともせずに唇を歪め、醜悪な嘲笑を視覚的に共有している。その視線は、私の背中を通り抜けて、背後の壁を汚していくような不快さを伴っていた。

 私は予備の報告書をファイルから取り出し、液晶画面に映る無機質な数字の羅列に視線を戻す。白地のスプレッドシートが、私の網膜を冷たく焼き切っていく。

 キーボードを叩く指先の感覚が、数分前よりも明らかに鈍い。タイピングという単純な運動でさえ、今の私には過剰な労働のように感じられた。

 感情を言語化せずに「破棄」し、体内の深部へと追い遣ったはずのものが、今この瞬間も別の物質へと変換され続けている。それは、胃の腑の底に溜まる重い粘土のような、あるいは食道を逆流してくる冷たい泥のような、回避不能な質量を持っていた。私はその質量を「不快」と定義することさえ放棄し、ただ自身の各部位が正常に稼働しているかを確認する。

 呼吸の深さ、心拍の速度、そして思考の解像度。すべては規定の範囲内に収まっている。同僚たちの嘲笑も、サトウの怒りの残滓も、今の私にとっては処理すべき「背景ノイズ」に過ぎない。私は、自分の内側に流れ込む黒い澱の感触だけを、鋭敏に捉えていた。


 給湯室へと続く廊下は、日当たりが悪く、いつも微かなカビの匂いが漂っている。私は無人であることを確認してから、その薄暗い空間に足を踏み入れた。

 ステンレス製のシンクは、清掃業者の過剰なまでの労働によって磨き上げられ、天井の蛍光灯を歪んだ形で反射している。私は蛇口を最大限に捻り、激しく噴き出す冷水をコップに満たした。

 一口含んだ瞬間、喉の奥から、鉄錆に似た鋭い苦味が広がった。

 それは、先ほど飲み込んだはずの反論、あるいは正当な説明、あるいは行き場を失った憤怒。それらが、体内の粘膜と混ざり合い、真っ黒なインクとなって声帯の裏側にへばりついている感覚だ。水と一緒に流し込もうとしても、そのインクは粘着質な意志を持って、喉の壁に留まり続ける。

 私はそれを、無理やり力任せに嚥下した。

 飲み込むたびに、インクは肺の隙間を埋め、私の呼吸をわずかに、だが確実に浅くしていく。酸素を取り込む効率が落ち、代わりに冷たい澱が毛細血管の隅々まで行き渡るのを感じる。鏡に映った自分の顔を、私は一人の観測者として凝視する。

 そこに「感情」と呼べるような色彩、あるいは生命感の徴候は、一切存在しない。ただ、社会という巨大なシステムの中で正常に稼働し続けるための、薄い皮膚に覆われた部品が、そこに在るだけだ。

 喉元に指先で触れてみると、そこだけが周囲の皮膚温度より数度低い。インクが通り過ぎた道筋が、氷の管のように私の体を内側から冷やしている。

 もう一口、水を飲む。苦味は消えない。それどころか、水を飲むという行為自体が、体内のインクを希釈し、全身へと拡散させる手助けをしているような錯覚に陥る。

 私はコップを置き、シンクの縁を強く掴んだ。指先が白くなる。

 死にたいわけではない。ただ、この喉に張り付いた「提出されなかった言葉」の重みを、どう処理すべきかのマニュアルが、私の手元には存在しないだけだ。私は、黒い唾液を一度飲み下し、戦場のようなオフィスへと戻る準備を整えた。


 T区を東西に横断する地下鉄の車内は、湿った体臭と安価な香水の匂いが混ざり合い、物理的な厚みを持って滞留していた。

 吊革を掴む私の右腕に、隣に立つ、安っぽいスーツを着た男の脂ぎった肩が、執拗に接触する。男は端末の画面を凝視し、暴力的な爆発音と下卑た笑い声が溢れる動画を、イヤホンもせずに垂れ流していた。その音は、私の頭蓋骨を直接叩くハンマーのように響く。

 端末から発せられる青い光が、無機質な車内の光景を醜く、そして残酷に照らし出している。

 画面の中では、誰かが誰かを罵倒し、煽り、過剰なリアクションを引き出そうと喚き散らしていた。人々は、自分たちの感情を切り売りし、他人の反応という報酬を得るために、必死に「自分」を提出し続けている。その光景は、私にとってはこの世で最も忌むべき労働のように見えた。

 私の胸元に仕舞われた端末も、断続的な振動を繰り返している。

(今日、予定通り集まれる?)

(返事、ずっと待ってるんだけど)

(生きてるの?)

 それらの通知は、私に対して、私の内面を言語化し、外の世界へと提出することを強要してくる。

 だが、今の私には、それに応答し、相手の期待を満たすためのリソースは一滴も残っていない。

 キーを一つ叩くごとに、指先から真っ黒なインクが漏れ出し、端末の液晶画面を永久に汚していくような、鮮明な幻覚が脳をよぎる。自分の思考を外部へ晒すことは、自分の命を削って他人に差し出すことと同義だ。

「……面倒だ」

 私は、自分の声が車内の騒音に掻き消されるのを確認してから、端末の電源ボタンを長く押し続けた。画面が暗転し、私の無表情な顔がそこに映り込む。

 通知という名の暴力から解放された瞬間、私はようやく、自分だけの孤独な澱の中に潜ることを許された。電車が駅に停車するたびに、人々の欲望が入り混じった空気が入れ替わるが、私の内側に溜まったインクだけは、重力に従って底の方へ、底の方へと沈み込んでいった。


 自宅、六畳のワンルーム。

 玄関の鍵を閉めた瞬間の静寂だけが、私の唯一の報酬だ。靴を揃えるという基本的な所作さえも、今の私には過分なコストに思え、私はそのままフローリングの床に直接座り込んだ。

 端末を再起動し、パスワードを入力する。クラウド上の、パスワードロックをかけた「下書き保存」フォルダを開く。

 そこには、過去数年間にわたって誰にも送信されることのなかった、数千通にも及ぶ言葉の断片が、墓標のように整然と並んでいた。

(本当は、あの時、あんな風に笑いたくなかった)

(私が求めていたのは、そんな同情交じりの解決ではない)

(私は死にたいわけじゃない。ただ、この役割を降りたいだけだ)

 書きかけの、そして永遠に提出されることのないテキストたち。それらは、誰の目にも触れず、誰の解釈にも晒されないことで、その純度を完璧に保ち続けている。

 誰かに言葉を伝えた瞬間に、それは「共有」という名の不可逆な変質を遂げる。相手の理解というフィルターを通され、歪められ、私のものではなくなってしまう。

 私は、キーボードの上に置いた指を止める。

 口の中には、今や粘り気を持ったインクの味が充満していた。それは、吐き出せなかった言葉たちが、出口を求めて暴れた後に残した、虚しい残滓だ。

 私は、新しい下書きを作成し、一文字も入力せずに保存ボタンを押した。

 何も言わないこと。何も提出しないこと。それだけが、私という存在を、この世界から守り抜く唯一の手段だった。

 下書きフォルダの容量が増えるたびに、私の体は少しずつ軽く、同時に世界の色彩は、より一層の不透明さを増していく。壁の向こう側からは、隣人の生活音が微かに聞こえてくる。誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが愛を語っている。そのすべてが、私にとっては提出コストの計算ミスにしか見えなかった。

 私は端末を閉じ、暗闇の中に身を投じた。インクの結晶が、胸の奥でチリリと音を立てたような気がした。


 深夜二時。カーテンの隙間から差し込む街灯の冷たい光が、室内のフローリングに一本の鋭い線を引いている。

 私はベッドに横たわり、天井にある微かな汚れの輪郭を、一つずつ丁寧に数え上げる。それは、今日一日で私が処理しきれなかった、あるいは処理を放棄した「事象」の数のようにも見えた。

 内臓の奥底に溜まった、重く冷たい質量は、今夜も解消される徴候を見せない。むしろ、時間が経つにつれてその密度は増し、私の体をマットレスの奥深くへと引き摺り込もうとしている。

 喉の奥に溜まったインクの澱は、少しずつ温度を失い、硬質な「結晶」へと姿を変えつつある。その結晶が血管を通り、心臓に達する時、私はようやく、完璧な沈黙を手に入れることができるのかもしれない。

 明日もまた、私はサトウの理不尽な怒声を受け流し、タナカの徹底的な沈黙に同調し、知人からの安っぽい関心を切り捨てるだろう。死にたくなるほど面倒な、だが社会を維持するためには不可欠な「人間」という名の手続きを、私は淡々とこなしていく。

 枕元に置いた端末は、通知を完全に遮断したまま、暗い画面に私の虚無を映し出している。そこには、誰にも提出されない、私だけの真実が閉じ込められている。

 行政の記録、会社の勤怠ログ、あるいは隣人の記憶において、私の本日の行動は「平常」であり、何一つの異常も、何一つの逸脱も報告されていない。私は、社会の歯車として、規定の回転数を完璧に守り抜いたのだ。

 私は目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。

 肺の奥から漏れ出た空気は、冷たく、そして微かにインクの香りがした。

 意識が闇に溶けていく寸前、私は心の中で、いつもの報告書を完成させる。

問題は、無かった。


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