ダメなものはダメ
王国の中心部に位置するエルウィン公爵領は、広大な緑の丘陵地と穏やかに流れる川に囲まれ、王国でも指折りの広さと豊かさを誇っていた。その中でも高台に建つエルウィン公爵家の屋敷は、石造りの堂々たる城壁に囲まれ、静かな威厳を放っている。この地は、長年にわたり貴族社会の秩序を象徴してきた。しかし、その伝統の中にひっそりと疑問を抱く若き当主がいた。
エドガー・エルウィン――若くして公爵位を継いだ彼は、冷静で物静かな青年だった。貴族としての義務を果たしながらも、理不尽な掟や古い慣習に対して常に疑問を抱き、領民や使用人の生活に心を配っていた。ある日、彼は庭の木陰で、信頼する友人であるロバート・カーレイ伯爵と話していた。
ロバートは、エドガーと同じく若くしてカーレイ家を継いだ人物だが、他の貴族たちとは一線を画し、エドガーの考えにも理解を示す数少ない友人だった。彼は穏やかでユーモアのある性格を持ち、時にはエドガーを助け、時にはその冷静な目で忠告する役割を担っていた。
「エドガー、君の提案について、まだ考え直していないのか?」
ロバートは、目の前の友人に軽く笑いかけた。
「いや、領民の負担を減らしたいという考えに変わりはない。彼らが生活を苦しむことが貴族の義務だとは思えないんだ」
エドガーはため息をつきながら答えた。
ロバートは少し苦笑して、慎重に言葉を選びながら返した。
「君の意図は素晴らしいよ、エドガー。でも他の貴族たちがどう反応するかはまた別の話だ。特に、ルーセル侯爵が黙って見過ごすはずがない」
エドガーは肩をすくめた。
「ルーセル侯爵か……。彼にとっては、何もかもが古いままであることが大切なんだろう」
アルフレッド・ルーセル侯爵――彼は、エドガーの改革的な姿勢を快く思っていないばかりか、貴族社会の伝統と権威を守ることが王国の安定に繋がると信じていた。エドガーのような若い公爵がその秩序を乱すことを危険視し、必要とあれば強い圧力をかけてでも従わせようと考えていた。
数日後、宮殿の大広間での会合の場で、ルーセル侯爵はエドガーに冷ややかな視線を向けながら口を開いた。
「エルウィン公爵、あなたにはまだお若い故に見えていない部分もあるだろう。貴族には守るべき掟というものがあるのだ。軽率な行動は慎んでもらわねばならない」
彼の言葉はまるで釘を刺すかのようだったが、エドガーはその鋭い視線にひるむことなく、毅然とした態度で返した。
「侯爵、私は王国の安定と、領民の生活の双方を大切に考えております。どちらかを犠牲にすることは本意ではありません」
その様子を、エドガーの側に控えていた侍女長のマリアンヌが冷静に見守っていた。彼女はエドガーの母の代から仕えてきた忠実な人物で、古い掟に従う貴族社会の一員でありながら、若きエドガーを見守る立場にあった。彼の信念には理解を示しつつも、古い体制を知るがゆえに、時折その若さゆえの無謀さを懸念することも多かった。
「エドガー様、侯爵様の仰ることにも一理ございます。エルウィン家が秩序の象徴である以上、急な変革は慎重に進めるべきかと存じます」
マリアンヌは穏やかに忠告したが、エドガーは小さく微笑むと、柔らかながらも決して揺るがぬ目で彼女を見つめた。
エドガーは、彼自身の信念がどれだけの反発や困難を呼ぶかを理解しつつも、「ダメなものはダメ」という想いを捨て去ることはなかった。そして、その反抗心が、いずれ貴族社会全体を揺るがす変革の始まりとなっていく――。
エドガーは、領民たちが収穫期の厳しい税負担に苦しんでいるという報告を受け取った。彼は自室で領内から集められた帳簿を眺め、数字の無情な事実に眉をひそめた。農作物の収穫期に加算される特別税は、領民たちにとって大きな負担であり、生活が成り立たなくなるほどに厳しいものであった。
この税制は、隣領のルーセル侯爵によって提案され、他の貴族たちも同様に採用していた。だが、エドガーにはそれが不当な搾取にしか思えなかった。彼は、「貴族としての権威」を笠に着て領民の生活を脅かすような掟をどうしても受け入れることができなかった。
執務室での静寂の中、エドガーは机に置かれた羊皮紙に手を伸ばし、筆を走らせた。彼は税制を見直すための命令書を作成し、収穫期の追加税を廃止すると宣言する内容を書き始めた。加えて、収穫物の一部を領民へと還元し、彼らが自らの労力の成果を手にできるよう、新しい分配制度を導入する案を明記した。
「ダメなものはダメだ」とエドガーは呟いた。たとえ他の貴族たちが彼を批判しても、彼には譲れない一線があったのだ。
数週間後
新しい制度が実施されると、少しずつ領民たちの生活に変化が見られるようになった。市場では領民たちが自分たちの手で育てた農作物を直接売る姿が増え、家族で食卓を囲み、貧しいながらも笑顔が戻ってくる光景が見られた。エドガーの新しい制度が、彼らにとって初めての希望となったのである。
領民の中でも年配の農夫ハンスは、収穫分の一部を自宅に持ち帰り、家族と一緒に食事を取れることに驚きと喜びを隠せなかった。彼は「公爵様のおかげだな」と感謝の気持ちを表し、他の村人たちとともにエドガーの名を誇りを持って語った。
その一方で
エドガーの行動に対して、他の貴族たちは激しく反発した。中でも、ルーセル侯爵は貴族たちが集まる会議で鋭い非難を浴びせた。
「エルウィン公爵、貴公の行動は非常識だ。貴族社会の掟を無視し、勝手に税制を見直すとは何を考えているのか?貴族の統治には秩序が必要だ。我々が掟を守らなければ、この国は乱れるばかりではないか!」
侯爵の怒りに満ちた言葉が会場に響く中、エドガーは冷静な表情を崩さずに答えた。
「侯爵、私はこの国を乱すつもりなど毛頭ございません。ただ、領民が過剰な負担を強いられ、生活が成り立たない状況は、貴族としての義務に反するのではないかと考えました。秩序とは、支配するためにあるのではなく、人々が安心して生きられるためにあるべきです」
その言葉に一瞬、会場が静まり返る。エドガーの言葉が真実味を帯びる中、何人かの貴族が小声で意見を交わす様子も見られたが、ほとんどの者は不満げな表情を浮かべていた。
ルーセル侯爵は再び口を開き、皮肉げに笑った。
「若きエルウィン公爵よ、理想論を述べるのは結構だが、それが現実を変えることはない。貴公のように掟を無視すれば、他の領主たちがどう思うかも分かるまい」
エドガーは侯爵の冷ややかな視線を受け止め、毅然とした口調で答えた。
「それでも私は領民の生活を守りたいのです。どれほどの批判を受けようと、理不尽な掟には従いません」
彼の言葉は他の貴族たちの心に波紋を広げ、彼に対する批判は日に日に増していった。それでもエドガーは、自らの信念を曲げることなく、領民を守るための改革を進めていくのだった。
エドガーは、執務室の窓から屋敷で働く使用人たちの姿を見つめていた。荷物を運ぶ者、廊下を掃除する者、料理を準備する者――それぞれが静かに自分の仕事をこなしている。彼らの表情は、長年の慣習と疲労に覆われていた。
貴族社会において、使用人はただの労働力として扱われ、消耗品のように見なされているのが現実だった。病気になればすぐに解雇され、新たな人材を雇うだけ。休暇や感謝の言葉すら贅沢とされ、彼らが心から休むことなど、あり得ない話だった。
だが、エドガーはその考えに強く異を唱えていた。「ダメなものはダメだ」と、彼は自分に言い聞かせるように小さく呟く。彼にとって、使用人もまた領民と同じく、守るべき存在だった。屋敷を支え、日々の生活を支えてくれる彼らに、貴族としての責任を果たすべきだと感じていたのである。
エドガーは書類を手に取り、新しい制度を考案するための細かな計画を練り始めた。彼の提案は、使用人たちに定期的な休暇を与えること、さらに年に一度、労働に感謝するための宴を開くことを含んでいた。
数日後、エルウィン家の食堂にて
使用人たちは皆、突然の呼び出しに少し緊張しながらも集まっていた。エドガー公爵が自ら使用人たちに話をするなど、これまでにないことだったからだ。彼らが一列に並び、小声でざわめく中、エドガーがゆっくりと歩み寄った。
「皆さん、今日は少し話をさせてもらいたい」
と、エドガーは穏やかな表情で切り出した。
「日頃の労働に対する感謝の意を伝えるために、新しい制度を設けることを決めました」
使用人たちは驚きと戸惑いの入り混じった表情でエドガーを見つめる。彼は続けた。
「皆さんには、年に一定の日数の休暇を設けます。また、毎年一度、使用人の皆さんへ感謝を示す宴を開くことにしました。皆さんの働きがあってこそのエルウィン家であり、私はその労をねぎらいたいと考えています」
その言葉に、使用人たちは思わず顔を見合わせた。ある者は信じられないとばかりに目を見開き、またある者はほっとしたように小さく息をついた。そして、年配の使用人であるマルセルが一歩前に出て、感極まったように頭を下げた。
「公爵様、私どものような者にも、このようなお心遣いをいただけるとは……感謝の言葉もございません」
エドガーは静かに微笑んで、
「マルセル、あなた方がいてくれるからこそ、この家が成り立っているのです。労いの気持ちは当然のことです」
と答えた。
使用人たちの顔には、次第に喜びと感謝の色が広がっていった。新たな制度により、彼らは初めて「エルウィン家で働くこと」を誇りに思い始め、また、エドガーに対する忠誠心も一層強まった。彼のこの施策により、エルウィン家は「働きたい家」として評判になり、近隣の領地からも注目を集めるようになった。
しかし、その変革には反発も伴った
ある日の貴族会議にて、エドガーの行動が他の貴族たちの間で話題に上った。特に、古き体制を重んじるルーセル侯爵が激しい口調で非難を始めた。
「エルウィン公爵、使用人などに特別な待遇を与えるなど、我々貴族の掟に反することではないのか!使用人は働くための存在であり、休暇や宴などという贅沢は不要だ。君のその行いは、貴族の秩序を乱し、我々の権威を弱めるものだ!」
エドガーは侯爵の言葉を静かに受け止めながら、毅然とした態度で反論した。
「侯爵、私は貴族である前に、ひとりの人間として礼節を尽くすべきだと考えております。使用人であっても、労働に対する感謝と敬意を示すのは当然のことです。彼らを粗末に扱うことが、果たして貴族としての責務なのでしょうか?」
その言葉に、会場に一瞬の沈黙が訪れた。周囲の貴族たちは複雑な表情を浮かべ、彼の考えに賛同する者もいれば、反発する者もいた。
しかし、エドガーは自らの信念を曲げなかった。どれほどの批判や圧力を受けようとも、「ダメなものはダメだ」という彼の意志は揺らがなかった。その結果、エルウィン家は他とは一線を画す存在となり、使用人たちからも貴族社会の中での信頼と支持を得ていったのだった。
秋も深まり、冷たい風が領地に吹き始めるころ、エドガーは自らの執務室にて、冬の支援に関する指示書を整理していた。彼の前には、布団や毛布、食料のリストが並び、エルウィン家の財産から支出を決定する書類が積まれている。今年は特に厳しい冬の訪れが予想される中、エドガーは領民のためにできる限りの支援を行う決意を固めていた。
「冬の厳しさに備え、領内の貧困層に物資を配布する」との決定は、家中に伝わり、使用人たちや村の有力者たちも協力に動き出した。家の侍女長であるマリアンヌは、領内の各村と連絡を取り合い、物資の配布の計画を練り、若い使用人たちが次々と荷物を運び出していく。
エドガーはその様子を見守りながら、心の中で呟いた。「貴族が領民を支えるのは当然のことだ。甘やかしだと言われても、必要な支援を行わなければならない」
数日後、エルウィン領の貧困層に支援物資が届く
寒さに震える村人たちは、エルウィン家からの温かな毛布と食料が届けられるたび、驚きと感謝の声をあげた。特に貧しい農夫たちは、普段は捨て置かれるような存在であっただけに、公爵からの支援は信じられないような恩恵だった。ある年配の女性は、エドガーのことを「公爵さまは天使のようだ」と称え、涙ぐんで毛布を抱きしめていた。
若い父親が、妻と子供のために食料を受け取ると、感極まってエドガーの方向に深々と頭を下げた。
「この寒さに家族が食いつなげるのは、公爵様のおかげです。私たちを見捨てないお方がいるだけで、この冬を乗り越えられる気がいたします」
エドガーの行為が、領民たちの心に希望の火を灯し、彼への信頼と尊敬の念がますます高まっていった。村々には、エドガーの名が感謝とともに語られ、彼の評判はますます輝きを増していった。
しかし、他の貴族たちの反応は冷ややかだった
貴族たちが集う会議の場において、ルーセル侯爵は鋭い視線をエドガーに向けながら非難の声をあげた。
「エルウィン公爵、貴公の行いは領民を甘やかしているに過ぎん。貧困層に支援を施すことで、彼らは自立することを忘れてしまう。次から次へと物資を与えていては、彼らは私たちを頼り切り、怠惰になってしまうではないか」
他の貴族たちも侯爵に同調するように頷き、次々と口を開いた。
「もしもエルウィン家のように支援を求められたら、我々も同じことをしなければならなくなる。貴族が持つべき威厳と秩序が乱れるではないか」
会場全体がエドガーに批判的な雰囲気に包まれる中、彼はまっすぐにルーセル侯爵を見据えた。そして、静かながらも力強い声で返した。
「侯爵、私は彼らを怠惰にしようなどとは考えておりません。ただ、貴族として人々が厳しい冬を生き抜くために必要な支えを提供する義務があると信じております。領民が生きられなければ、我々の領地も成り立ちません。これは甘やかしではなく、当然の責務です」
その言葉に、会場は一瞬の沈黙に包まれた。エドガーの主張に異議を唱える者もいたが、彼の決意に反論できない者も多くいた。
しかし、エドガーのこの行動は、貴族社会全体からの孤立を招くこととなった。彼が独自に行った貧困層支援は他の領地でも噂になり、貴族たちの間で波紋を広げる。しかし、エドガーはどれほどの批判にさらされようとも、自らの信念を貫き、領民たちを守り抜く意志を固めていたのだった。
エルウィン領の人々は、寒さに耐えながらも心に暖かな希望を抱き、エドガーへの感謝を語り合う日々を送った。彼の改革は、確かに領地内に変化をもたらし、領民たちの生活に新たな光をもたらした。
王宮の大広間には重厚なシャンデリアが輝き、豪華な装飾が施された部屋に貴族たちが集まっていた。その日は、王宮での重要な会議が開かれる日だった。各地の有力貴族が揃う中、エドガーは毅然とした表情で壇上に立っていた。
その場には、彼の対立者であるルーセル侯爵も目を光らせており、他の貴族たちは冷ややかな視線を向けていた。彼らの多くが、エドガーの近年の行動を「無謀」と批判し、領民への支援や改革を「秩序を乱す行為」と非難していたのだ。しかし、エドガーは決して引くことなく、静かに口を開いた。
「皆様、我々が貴族であるということは、領地とそこに暮らす人々の生活を預かる者である、ということです。しかし、近年の我が王国の慣習が、果たして本当に正しいと言えるでしょうか?」
彼の言葉に、大広間は静まり返った。貴族たちは黙って彼を見つめ、誰もがその先の言葉を待っている。エドガーは一瞬、会場を見渡し、強い意志を込めて続けた。
「私たちの行いが、領民たちの生活を犠牲にして成り立っているのであれば、それはもはや『貴族の義務』などではない。私たちの責務は、領民を搾取することではなく、共にこの国を繁栄させることにあります」
エドガーの言葉は、会場にいる者たちの心を揺さぶった。特に、これまで当たり前のように収穫税を重く課し、労働力を酷使してきた貴族たちは、彼の真剣な眼差しに圧倒されていた。彼はさらに声を強め、言葉に力を込めた。
「私は『ダメなものはダメ』という信念のもと、エルウィン領で改革を進めてまいりました。確かに、従来の掟や制度には反しています。ですが、何が本当に人々の幸せに繋がるのかを考え、行動することこそが、真の貴族の在り方ではないでしょうか」
その瞬間、大広間の隅にいた一部の若い貴族たちが、何かに気づいたように静かに頷いていた。エドガーの言葉が彼らの胸に響き、いま自分たちがすべきことは何かを考え始めていたのだ。
やがて、エドガーは静かに周囲を見渡しながら言葉を締めくくった。
「私は、この国が変わることを願っています。領民たちが安心して暮らせる未来を。そして、そのために私たちがまず変わるべきです。人々の生活を犠牲にするような制度を維持することが、貴族としての誇りに値するとは、私は到底思えないのです」
会場は一瞬の静寂に包まれた。しかし、すぐに小さな拍手が聞こえ、次第にその音は広がりを見せた。若い貴族の一人が立ち上がり、続けて拍手を送り、やがて他の者たちも次々と彼に賛同するように拍手を始めた。エドガーの「ダメなものはダメ」という言葉が、ついに貴族社会の一部に届いた瞬間だった。
ルーセル侯爵は不満そうに顔を歪めていたが、既に周囲の空気はエドガーの方に傾いていた。彼の言葉を支持する者が増え、少しずつではあるが、変革を求める意識が貴族たちの間に芽生えていたのだ。
それから数年が経ち、エドガーの改革は、彼の領地だけでなく、彼に賛同する貴族たちの領地にも広がり、その成果を大きく示し始めていた。エドガーと改革派の貴族たちの領地では、領民の負担が軽減され、生活は年々改善されていった。収穫は安定し、領地の収入も増加し、貧困層は次第に減少していった。領民たちは感謝の意を込めてエドガーを「民を守る貴族」と称え、その領地は安心して暮らせる土地として繁栄を続けていた。
一方、旧来の重税と抑圧を続けるルーセル侯爵と彼に従う貴族たちの領地は、完全に対照的な状況に陥っていた。領民たちは過酷な税に苦しみ、生活は疲弊の一途をたどった。飢えに苦しむ人々は増え、住む家を失う者も少なくなかった。彼らはやがて生き延びるためにエドガーたちの領地へと逃れ始め、そこで新たな生活を求めるようになった。その結果、ルーセル侯爵たちの領地の収入は急激に減少し、広がる貧困に治安も悪化。領民たちは不満と憎悪を募らせ、領主に対する敵意があらわになっていった。
こうして、改革を推進する領地と旧体制に固執する領地との間には、目に見えるほどの明暗が分かれ始めた。領民を重視する新たな制度の方が明らかに成果を上げ、国全体にその動向が注目されるようになった。そしてついに、王宮から「エドガーの改革案を全領地で実施するように」との王命が下され、全国的な変革が動き出したのだった。
王命が出され、エドガーの改革案が国全体で施行されることが決まると、ルーセル侯爵の屋敷では重苦しい空気が漂っていた。王からの命令が伝えられた直後、侯爵は震えながら怒りの拳をテーブルに打ち付け、顔を歪めた。
「王が…あのエルウィンの若造の意見を採用するとは!」
侯爵は激昂し、机を叩きつけた。
「我々が築き上げてきた貴族社会の伝統が、こんな新参者によって崩されるとは…!」
その場に居合わせた侯爵に従う貴族たちは顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべていたが、内心は怯えと後悔に苛まれていた。彼らの領地では重税と抑圧によって領民が困窮し、収入は減少の一途を辿っていた。中には、他の貴族たちと同様に改革の兆しが見えているエドガー側に乗り換えておけばよかったと感じている者もいた。
「エドガー卿に賛同していれば…今頃、領民は安定して税収も上がっていたのではないか…?」
とある貴族が、低い声で呟いた。
「今さら何を言う!」
ルーセル侯爵はその貴族に鋭い視線を向けた。
「私に従うと決めたからには、最後まで伝統を守り抜け!」
「「「・・・・・・・・・・・・・・・」」」
ルーセル侯爵の言葉にも関わらず、侯爵に従ってきた貴族たちの多くは惨憺たる領地の有様に顔を青ざめさせていた。領民たちの苦しむ姿や、貧困にあえぐ村の光景が、彼らの頭から離れなかった。
最早ルーセル侯爵が何と言おうと、既に王命が下されている。一人、また一人と、貴族たちはルーセル侯爵から離れていくことになる。
一方で、エドガーの改革に賛同した貴族たちは、王命の知らせに歓喜の声を上げていた。領民たちの生活が安定し、収入も増えている自領の現状に、彼らは安堵と誇りを感じていた。
「エドガー卿のおかげで、私の領地もようやく繁栄の兆しを見せ始めた!」
ある賛同者の貴族は、笑顔で杯を掲げた。
「彼を信じてついていって良かった。これからは我々の時代が来る!」
「そうだ。もはや旧体制に縛られる必要はない。我々が新しい時代を切り開くのだ!」
他の貴族たちも次々に同調し、歓声を上げていた。彼らの領地は明るい未来へと進みつつあり、領民たちからの信頼も厚くなっていた。
エドガー側についた貴族たちの屋敷では祝賀が開かれ、明るい笑い声が響く一方、ルーセル侯爵の屋敷では、冷え切った沈黙と後悔の念が重くのしかかっていた。エドガーの改革によって、国は目に見えて明暗が分かれ、未来への道が確実に変わり始めていたのだった。
王宮から戻ったエドガーは、最初から彼の信念を支えてきた友人のロバートと久々に再会していた。二人は静かに夜空を見上げながら、エルウィン邸の庭を歩いていた。
「ここまで長かったな、エドガー」
ロバートが穏やかに言った。
「だが、ついにお前の信念が王国を動かした。これほどのことを成し遂げるとは、正直、お前があの演説をしたときには思いもしなかったよ」
エドガーは微笑を浮かべながら、静かに肩をすくめた。
「そうだな。私自身、こんなに早く結果が出るとは思っていなかった。だが…最初からこうなることを信じていたわけではない。君をはじめ、支えてくれた者たちがいなければ、私はきっと途中で挫けていただろう」
ロバートはエドガーの言葉に真剣な眼差しを向けた。
「お前の信念は強かった。それは他の誰でもない、お前自身の力だ。それに、私はただ信じただけだ。お前ならば、きっと成し遂げるだろうと」
エドガーはふと夜空を見上げ、遠い星を眺めた。
「…領民たちの暮らしが少しでも良くなるなら、それでいい。貴族としての役目を果たすことが、どれだけ重要かを改めて感じた。だが、そのために他の貴族たちと対立することも多かった。君がいなければ、私はもっと孤独だったかもしれない」
ロバートは頷き、少し間を置いて言葉を返した。
「孤独かもしれないが、それでもお前は歩き続けただろう。だからこそ、今こうして王国が変わりつつある。領民たちの生活が改善され、貧困が減少し、やがてこの国全体が繁栄へと向かう。エドガー、お前は本当にやり遂げたんだ」
エドガーはロバートの言葉に少し照れくさそうな顔をしながらも、静かに微笑んだ。
「…ありがとう、ロバート。君がずっと私を信じてくれたこと、感謝している。これからも、君のような仲間と共に、私たちの信じる道を進んでいきたい」
ロバートは深く頷き、彼の肩に手を置いた。
「ああ、もちろんだ。エドガー、この国の未来を見届けよう。私たちの信じる道が、どれだけの人々の幸せに繋がるのかを」
二人は静かに庭を歩き続けた。夜風が吹き、彼らの間に一瞬の沈黙が訪れたが、その沈黙には、未来への希望と覚悟が宿っていた。
エドガーの「ダメなものはダメ」という信念は、かつては周囲から孤立した一人の言葉でしかなかった。しかし今、その精神は王国全土に広がり、時代を変える新たな価値観として根を張り始めていた。
王国は、彼の導く改革によって少しずつ生まれ変わり、やがて貴族社会そのものも変わりゆく運命を歩み出したのだった。