ニートがペットになったなら: 2050年不要人材ヒュペルボリア移住法施行
きっとこの先もずっと、変わり映えのしない、無価値な日常が続くのだろうな、とそう思っていた。
――じわり、意識が覚醒していくのと同時に、身体に鈍い痛みを覚える。
「朝、いや昼か……」
どうやら、ネトゲのプレイ中、机に突っ伏すように寝落ちしてしまったようで、節々が凝り固まっている。
とりあえず立ち上がろうとした俺は、しかし、足をもつれさせ、無様に椅子から地面へと転げ落ちてしまう。長時間血流の滞っていた太ももがしびれていた。そのあまりの感覚のなさに、少し不安になる。
地面に倒れ伏した情けない姿勢のまま時計を見れば、すでに15時を過ぎていた。家族はとっくに仕事に向かったのだろう。俺の部屋は二階にあるのだが、これだけ大きな音をたてたというのに、一階からは物音ひとつ聞こえなかった――最も、家族が在宅だったとしても反応したかはわからないが。
足のしびれがマシになってきたので、部屋を出て、のしのしと一階のリビングへと向かい階段をおりる。
昼過ぎに起きたのは都合がよかった。所謂ニート、というやつをやっている俺は、こうして家族がすっかりいなくなってから部屋を出ることが多い――だってどんな顔して家族と会えばいいんだよ――今日のような平日はともかく、休日は、家族が在宅なら一日中部屋から出ないこともしばしばだ。
この状態が始まって、はや5年。もはや、両親とは会話をすることもなくなったが、それでもお袋は、いまだに毎朝ご飯を作っておいておいてくれる。慣れた手つきで冷蔵庫から作り置きの料理を取り出し――ちなみに今日は麻婆丼だった――ラップをはずして、電子レンジに投入。流れるような手つきでテレビのリモコンを掴んでスイッチを入れると、見慣れた顔、ニートの俺でも知っている。しかめっ面の総理大臣の顔が映っていた。
「えー、昨今ですね。我が国の財務状況が、えー、非常に厳しく、現状のままでは、社会保障制度の十分な維持が困難である、ということはですね。えー、周知の事実であると、いう認識でございます。支出を削減するか、歳入を引き上げるか、いずれにせよ早急に手を打つ必要がある、というところまで、えー来ている、というのが現状でございます」
どうやら話題は国の財政に関することらしい。2040年にもなって、いまだに20年前と同じような問題で議論を繰り返しているのだから、実は赤字財政なんて放っておけば良いんじゃないか?なんて、素人には思えてしまうが、きっと政治家様には何か違う景色が見えているんだろう。
電子レンジが鳴って、熱々の麻婆丼を取り出す。ラップを外し、上から四川花山椒を振りかけてやると芳醇な麻の香りが鼻孔をくすぐった。CxxkDoの出来合いの麻婆豆腐でも、こうして花山椒を足してやるだけで、本格的な味わいになるのだ――まあ、本物の味なんて知らんが――そうこうしている間にも、退屈な政治家のトークは続いていたのだが、どうやらいつもとトーンが違う、ということに気が付いた。よく見れば、緊急会見、というテロップまで出ている。
「えー歳入を引き上げると申し上げましても、これは簡単なことではございません。2030年ごろから加速した少子高齢化問題もですね、えー、AI労働者の積極導入後もなお深刻と申し上げるほかありませんし、そうなると、支出を抑えるほかない、ということになるのであります。そこで、皆さんが危惧してらっしゃいますように、社会福祉に関する予算を大幅に削減するほかない、との議論がしばらくされていたのでありますが――」
遠回しな、なかなか核心を突かない総理の発言。しかし異様さを感じ取ったのだろうか、会見会場がざわつき始めているのが見て取れた。
――赤字財政の問題って、そんなに深刻だったのだろうか。まさかとは思うが、もしかして、ついに年金はやめますとか、そういう話が出てくるのだろうか……と、会見に漂い始めた尋常ならざる緊張感に、ニートながらに身構えてしまう。
「――この度、どうやら最悪の事態は回避ができそう、という事になりましたので、ご報告をいたします」
その拍子抜けするような言葉に一瞬、ぽかんとしてしまう。いやいや、結構もう手詰まり、みたいな感じだったじゃん。そんなあっさり解決するような話でもないでしょう、と高速なツッコミが脳内ではしゃぎ始めたが、当然そんなことは気にも留めずに総理は話をつづけた。
「我々の、えー、良き隣人であり、隣接銀河系の支配種族でもあります、ヒュペルボリアの方々から突然の接触と提案がございまして、日本人を定期的に彼らの星に移住させることで、経済的支援を提供してくださることになりました」
………………?
「つきましては、えー、移住の対象となる国民を選択する必要が、えー、ございますが、これに関しましては国民必要性指標、と呼ばれるものを導入予定でございまして――」
いやいやいやいや、まてまてまて――全く状況を理解できない俺をよそにテレビの向こうの総理は話を続けている。そこに、いち早く冷静さを取り戻した記者の一人が慌てて話を遮り、質問を投げかけた。
「――ち、ちょっとまってください、総理、なんか、その一度にいろいろありすぎてどこから質問したら良いのかって感じなんですが、まずヒュペルボリアって何ですか?」
質問を受けた総理も微妙な表情を作り口を開く。
「えー。私の口からも正確に説明させていただくことは難しいのですが、あえてシンプルな表現をいたしますと、宇宙人、ということになるかと思われます」
会場が再びざわつきだす。ようやくフリーズの解けた何人もの記者たちが勢いよく、動き出し、あちこちに電話を掛けだしたために、もはやすべてがしっちゃかめっちゃかだった。そんな中、最初に質問をした記者が、おそるおそる、口を開く。
「冗談、ではないんですよね?」
「正直に申し上げますと、私も最初は冗談か何かだと思ったのですが、米国に確認を取りましたところ、彼らとは秘密裏に、もう何十年も前に接触があったとのことでした。結果から申し上げますと、彼らから日本に対してこの度の提案をするにあたって、外堀は完全に埋められていた、という状況でありまして、これに関しては、えー、非常に申し上げにくいのですが、私の視点から申し上げますと、すべてが終わった後、事態を把握した、という状況でございます」
「いやいやいや、日本と交渉をしたいって、向こうが言ってきてるんですよね。事態の把握が事後って、そんなことありますか?」
「総理として非常に不甲斐ない事態である、ということは承知しております。いかなるご意見に関しましても、甘んじて受け入れる所存でございます。しかし、今回の件につきましては、是非もなく、ただただ、ご理解いただきたい、と考えております。形式上、交渉という形をとってはいるものの、我々に選択肢はない、ということをご理解いただきたいのです。ありていに申し上げますと、彼らの文明力は、我々の理解をはるかに超越しておりまして、その、アリが決して像に勝つことができないように、我々にはこの提案を呑む他ないのでございます」
深刻な表情の総理に、ざわついていた会場が一転静まり返る。
「――しかし、今回の事態、我々にとってはむしろ好機ととらえることもできます。彼らは直接、我が国『日本』と交渉をしたい、と要望をしているのであります。米国でも中国でもなく、我が国です。これは国際社会において、大変なアドバンテージであると言わざるを得ません」
顔をあげ、力強いトーンでそう告げた総理に記者たちの顔も若干の余裕を取り戻したようにみえた。
「そ、総理、なぜ、彼らは日本と交渉がしたい、とつげて来たのでしょうか?それは、つまり、特に日本人にだけ移住をしてもらいたかった、ということなのでしょうか?」
「えー、そういうことになります。えー、その理由になりますが、えー、これは大変その、申し上げづらい部分ではございますが、えー、その、これまた率直に申し上げますと、ですね。えー、日本人が、ですね、えー、たまたま彼らの嗜好に合致する、という事でございました」
会場が再び静まり返る。これを機と見たのか、もはや勢いで全部しゃべってしまえと思ったのか、総理は早口で続きをはなし始めた。
「彼らは人類と異なりまして、音声でのコミュニケーションを行いません。どうやら音を認識することも出来ないようでして、代わりに我々には理解も認識も不可能な感覚を知覚するための特殊な器官を有しておるようであります。その器官を通して我々日本人を、えー便宜上、視る、と申しますが、視ますと、大変愛らしい姿で映る、とのことでした」
「えーですから、その、日本人は彼らにとって、存在だけで価値がある、といいますか。その、逆に言えば、いかに社会にとって価値のない――失礼、社会にあまり貢献していない人材であったとしても、彼らにとっては需要がある、ということになります。彼らも、移住者に対しては、健康的で文化的な衣食住環境、加えて適切な繁殖環境や医療までを整える準備がある、と申しておりますし、これから導入いたします、国民必要性指標を基準に、社会にとって必要のない人材から優先的に――」
もうなんか早く会見を終わらせてしまおうという雰囲気を漂わせながら矢継ぎ早に言葉を紡ぐ総理だったが、さすがに記者から質問が入る。
「そ、総理、えー、とつまり、それは、彼らは、我々日本人を、愛玩動物、つまりペットにするために欲している、という理解でよろしいのでしょうか?」
苦虫をつぶすような顔の総理だが、回答はシンプルだった。
「有体に申し上げますと、はい、そのような言い方もできるかと思われます。」
◇◇◇
それからのことは、まだ理解の追いついていない部分も多いのだが――結論から言おう、俺は宇宙人のペットになった。
会見でもほのめかされていた新制度、国民必要性指標。ここからすべてが始まった。
これは、国民一人一人の社会的価値を定量化した指標で、具体的な計算方法は非公開とされていたが、簡単に言えば、正の値をとれば社会的に必要な人間、負の値をとれば、不要な人間、として扱われる、というものだ。当然、値が低ければ、優先的に宇宙人のペット候補にされる。個人の納税額や社会貢献が大きいとプラス評価になりやすく、社会保障の利用額が大きいと負の評価が付きやすいようだが、社会貢献0のニートの俺の指標は当然のようにマイナスだった。
その後は、すべてが光の速さで過ぎていった。
指標の結果が郵送で通知されると――2050年にもなって郵送って、これだからこの国は――すぐに、ヒュペルボリア移住管理庁のスタッフが家に大挙して訪れた。その様は、移住のサポートというよりもはや、不法滞在者の確保とか、マル暴のカチコミとかそんな雰囲気だったのを覚えている。俺の場合、特に反抗する気もなかったから、始終手続きは穏やかに進んだが、きっと反抗的な態度を見せたり逃走を試みたりしていた場合には彼らが全員で追いかけてくるのだろう。
何が書いてあるのかよくわからない書類一式に一通りサインを終えると、説明を受ける。全部を全部覚えているわけではないが、とりあえず印象に残っているのは:
1. 彼らは音を知覚できないので何か要求があった時に声で表現することに意味はない
2. 彼らが何をしようとしているのか完全にわからないのは流石に不便なので彼らの思考を部分的に理解するためのデバイスを支給する――これは皮肉にも鈴のついた首輪型だった、馬鹿にしてるのか?
3. 文化的違いから彼らの機嫌を損なう可能性があるので行動は慎重におこなうように
――といったところだろうか。
正直、今の段階で細かい説明をされても、実際飼い主にあってみないと判らないし、この職員の人たちだってそれほど何かがわかっているわけでもないのだろう。ただ、俺にとって個人的に幸いだったのは、どうやら、家族にお金が入るらしい、という部分だった。
今まで何の価値もない、お荷物でしかない俺に、毎朝ご飯を作ってくれたお袋の事を思うと、涙がにじんだ。親を思って泣く権利があるような人間ではないことなんかわかってる。それでも、これが今生の別れになるのかと思うと、こみ上げるものがあるのは当然だろう。せめて、支給されるお金で、少しくらい良い暮らしをしてほしい、素直にそう思った。
――それから、ほとんどまともに両親と言葉を交わす時間もなく、車に乗せられてどこかに連れていかれた。最後の挨拶は「じゃあ、いってくるわ」だった。お袋は泣いていたし、親父はうつむいていてその表情は、良く見えなかった。
初めて訪れた霞が関。各省庁の建物の他、インドカレーやタイ料理屋なんかが立ってて、以外にも国際色豊かな街並みなんだな、なんて我ながら頭の悪そうなことを考えながら歩いていると、すぐに目的の建物についた。移住管理庁の職員のカードキーをかざして開いた自動ドアをくぐると、急ごしらえなのだろう内装は実に殺風景で、受付のようなスペースを超えてすぐ、中央にそびえたつ謎の装置と対面した。
「えー、こちらの装置でヒュペルボリアに向かうことになります」
そう口を開いた職員。まあ、そうだよな、と内心思いながらも、あまりに信じがたい状況に、つい確認をしてしまう。
「その、これってもしかして、テレポートとか、そういうやつですか?」
俺の質問に、職員自身も、あまり自身のなさそうな表情で答えた。
「はい、我々も詳しくはわかっていないのですが、そういうやつだと思います。たぶん」
たぶんて、不安にさせるな――とは口にできない。小心者なので。
「向こうにつきましたら、さっそく仕事が始まります。そこからは、我々から連絡を取ることも、そちらから連絡を取ることも、原則できないものと思ってください。彼らの言葉を理解するためのデバイスですが、初回はこちらから提供いたします。以降、修理等が必要な場合には、彼らが適宜対応すると思いますので、柔軟に対応をよろしくお願いいたします」
かしこまった様子で改めて最後の説明をする職員だが、結局、あとはなんとかうまいこと生きてくれ、こっちは知らんから、と言っているようにしか聞こえない。特に準備も無いので、支給された首輪型のデバイスを装着し――このデザインを決めたやつを俺は一生許さないことに決めた――装置に乗り込む。外から見ると卵型のその装置の内部は、意外にも座り心地の好いゲーミングチェアのようになっていて、年中ネトゲばかりしているニートの俺には、どういうわけか落ち着く仕立てのようにも思えた。
「それでは、これで本当に最後です。何か言い残した言葉や、家族へのメッセージなどありますか?」
そう、職員に問われる。
「とっさに言われても、なにも思いつかないけど……そうだな、まず、ありがとう。それと、ほんと、一人息子だったのに、こんなだめな奴でごめん。あとは、支給されるお金で、ちょっと良い暮らし、とか、してほしい、くらい、かな」
――最後の方は、涙声になりそうなのをこらえたせいで、あんまりうまくしゃべれなかったな。
装置の蓋が閉じる。もう完全に真っ暗だ。中には照明とかないのかよ。急に心細くなってきたな。いままでどことなく強がっていた自分の、目に見えない薄い外側の自我みたいなものが、必要性をうしなって剥がれ落ちてしまったような、そんな感覚がした。
――そのまま、いつの間にか気を失ってしまっていた俺は、目覚めると、ふかふかのベッドに横になっていた。
◇◇◇
あたりを見渡す。そこは、以前暮らしていた実家の自室とほとんど同じくらいの空間だった。しかし、置いてある家具の一つ一つは、実家にあったものとは比較にならないほどに、質の良いものがそろっているように見えた。パソコンらしきもの、ゲーム機らしきもの、テレビのようなものもあって、至れり尽くせりだ。この身を包む毛布も、今まで触れたことのないほどの手触りで、ずっと包まれていたくなるような、そんな気持ちを抱かせた。
――ふと、音が鳴った。それは恥ずかしいことに俺の腹の音だった。意識を失っていた時間がどのくらいだったのかはわからないが、自覚した途端、随分お腹がすいていることに気が付いた。強烈な飢餓感といってもよいレベルだ。何か食べ物はないかとあたりを見渡すと、机の上に突然、プレートに乗せられた料理がポップした。
わかめと豆腐の味噌汁、サバの塩焼き、漬物と野菜の胡麻和え、そして小さめの茶碗一杯くらいの白米。なんというか、日本人の心にフィットする、そして、実に健康そうに見える食事だった。
とにかくお腹のすいていた俺は、一も二もなく食べ始めた。食べ始めると、これが味もなかなか。量に関しては、やや物足りないかなという感想を抱いたものの、総合評価はAと言っていいなんて評論家ぶった感想が出てきた。げっぷをしながら、食後にデザートでもでないものかな、なんてことを考えていると、空間が少し、ゆがみ何かが転送されてきた。
それは、錠剤のようなものと水だった。隣には手紙も添えられており、その錠剤が、先ほどの
食事で生じた栄養の過不足を調整するサプリメントのようなものであるとのことが書かれていた。
「健康管理までしてくれて、文字通り、至れり尽くせりってわけか……」
――ペット生活、思ったより悪くないかもしれん
だが、その甘い考えはすぐに打ち砕かれることになる。
それから、数日が過ぎた、と思う。と思う、という曖昧な言い方になったのは、正確な時間の経過を確認する術がないからだ。まず、この部屋は、外の景色を知ることができるような造りにはなっていないのだ。窓が無いし、脱出ができそうな扉もない。天井全体が淡く光を放っていて、これが時間経過とともに照度を変化させるために、なんとなく地球にいるときのように時間が流れているような気分になるのだが、実際のところどうなっているのか、なんてことは一切わからない。
概ね、空腹がやってくるタイミングや眠たくなるタイミングと部屋の照度がうまいこと合致しているので、まあ、おそらく同じような時間の流れ方をしているのだろうと仮定しているのだが、単に人体の方が環境に適応しただけ、という可能性もあるので曖昧な言い方になったのだ。
それで問題は、これ。今もまさに目の前にある食事。メニューは――
――わかめと豆腐の味噌汁、サバの塩焼き、漬物と野菜の胡麻和え、そして小さめの茶碗一杯くらいの白米。そう、初回の食事から、まったく同じものが出続けているのだ。サプリがあるので栄養的には問題が無いのだろうが、いや、そういうことではないだろう。初めはうれしかった味にも流石に飽きてきた。
そして、問題は食事だけではなかった。ゲームも、映画も、漫画も、アニメも、おおよそあらゆる娯楽が用意されていたのだが――なにか、こう、常にピントがずれている。表現が難しいのだが、「大体あってるけど、これじゃない感」がすごい。なんというか、まるで、人間はこういうものを好みますよ、という入力として与えらた生成AIがそれっぽいけど、全然おもしろくない頓珍漢なものを吐き出してきた時のような、そんなものばかり与えられている、そんな気分になるのだ。
「人間の事を、わかろうとしてくれてるし、善意でいろいろやってるんだけど、ピントがずれてる、ってことなんだろうか……?」
それなら正しい「日本人」ってやつを教えてあげれば良いのでは、と思ったのだが、問題はどうやってコミュニケーションをとるかだ。困ったことに、向こうは音がわからないらしい。ボディランゲージや筆記でなんとかならないかとも試してみたのだが、状況に変化はない。
「最初に錠剤の説明が日本語で書いてあったから、筆記がいけるかも、と思ったんだけどなあ」
彼らにも個体差があるのだとしたら、日本の文化に比較的明るい個体が書いた手紙を、そのままこの飼い主が転用しただけ、ということもあるのかもしれない。
そんなこんなで、しばらくつらい状況が続いたわけだが、人間、大抵の事には馴れるものである。推定一年が過ぎるころには、もはや同じ食事が続いても気にならなくなっていたし、突発的にケーキやスイーツなどが与えられることもあったのでそんなサプライズが楽しみにもなっていた。
娯楽の方は、どうにも与えられるものはいまいち面白くないので、最近では自分でゲームを編み出したり思案をするようになった。最近ハマっているのは、集合について考えることだ。集合の間の関数を考えることと、モノイドについて考えることは、遠目に見ると良く似ているのに、集合の間の関数が、左簡約可能であるならば等化子であるのに対して、モノイドの元を合成可能な関数のように見た場合にはそんなことが言えない。この差は一体どこにあるんだろうか、なんてことを考えて一日をつぶしている。
そんなある日のことだ、いつも通り思案に耽っていると、突然、脳に強烈な死のイメージが叩き込まれた。遅れて、身体が震え始めたことに気が付く。手足の末端が冷たくなっていくのを感じる。わからない。自分の身に何が起きているのか、理解ができない。ただ、ただ怖い。恐ろしいイメージがイメージが、ただ脳を駆け巡って、呼吸がはやい。かこきゅうだ、そう、ビニール袋を、いや、違う怖い。怖い怖い怖い怖い。身体が震えて、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。許して。許して許して許してもうしませんからこわいああああ、あ――
――そうして、気が付くといつものベッドに寝かされていて、テーブルの上には一枚の紙が置かれていた。紙には一言
――しつけと書かれていた。
どうやら俺は、何か悪いことをしてしまったらしい。状況から判断するしかないのがつらいところだが、わざわざわかるように日本語で書いてくれているのだから、そう、あの「何かわからないが恐ろしいもの」は、きっと人間でいうところの「しつけ」だったのだ。
問題はそう「わからない」ということだ。結局、あの「しつけ」がなぜ行われたのか、わからない。いや、あるいは考えてもわからないのかもしれない。人間とは価値観の違う生物に飼われる、というのはそういうことなのかもしれない。何が相手の禁忌に触れるのか。そう、猫がソファーをひっかいて、いったいなぜ叱られたのか本当の意味で理解することができないように。それなら、その哀れな猫が叱られないためにはどうすれば良いのだろうか。
ソファーをひっかくことが悪い理由がわからなくても、何かをひっかくときに悪いことが起きることが多いらしい、という推論をすることはできる。だから、その「恐ろしいこと」が何度かおきて、それで、それで俺は
「考えること」をやめた。
◇◇◇
「ごめんください、移住管理庁のものですが」
ドアベルとともに男の声が響くと、閑静な住宅街の、とある一軒家のドアの向こうから、どたどたと足音が響いた。
「あ、はい、今伺います」
扉が開いて出てきたのは初老の男性だった。移住管理庁の職員を名乗った男は、その初老の男性ににこやかに話しかける。
「それで、その後、調子はいかがで――おや、猫を飼い始めたんですか?」
初老の男性の後ろには猫がいた。どうやら随分なついているようで、彼の足元にしきりに頭をこすりつけていた。そんな様子をみて初老の男性も、バツの悪そうな顔ながらも、穏やかな顔で言葉を返す。
「はは、いやね、息子がいなくなって、私も妻も、どうしたら良いのか、ちょっと分からなくなってしまいまして」
少しの沈黙が生まれたが、職員はすぐに顔をあげると、その男に言葉をかけた。
「大丈夫。息子さんも、きっと幸せに過ごしていると思いますよ。なにせ、働かなくても衣食住から娯楽、健康管理までバッチリ見てもらえる、って話ですからね。ちょうどそこの猫の暮らしみたいなもんですよ」
冗談めかした様子の職員だったが、父親だった男は神妙な顔で、足元の猫を見つめて口を開く。
「そうですよね、きっと、幸せにやってますよね。猫だってほら、こんな、うらやましくなるような、気楽な暮らし、してるんですから、ね」
ペットとニートの違いって何でしょう。そんなことを考えていたらできた短編です。
1. 誰かがお世話をしなければいけない、という点では同じですね。
2. ペットは望まれて迎えられますが、ニートがニートになることはきっと望まれていなかったことでしょう。
3. ペットは言葉を話しませんが、ニートは憎たらしい言葉を吐きます。
4. ペットは人間社会における善悪を理解しません(なぜソファーをひっかいたらいけないにゃん?)が、ニートは理解可能です
きっとほかにも色々な違いがあると思いますが、そんなペットとニートの差分を一つづつ、外延的に埋めていったときに、いずれペットとニートは区別不能になるのでしょうか?