海を行く蒼
ナルド・レヴィアは凪の海の体現だ。荒ぶる海をナルド・リヴァイアが象徴するなら、その対の穏やかな波はナルド・レヴィアの領分である。
だから船の安全祈願は凪の海にするのが道理。
安全の祈りのために供物を。そうライカに命じられて海を行く。
ナルドの海は世界中のどの海域よりも広い。極寒の永久凍土の北方大陸、水のクランと土のクランが領土を分かつ南東大陸、それからフィニスの地である中央大陸の3大陸に囲まれた広大な海だ。
広い海の守護は1体では手が回らない。よって水神は眷属を2体遣わした。それがナルドの番の海竜だ。海というものの性質を写し取った番の竜は、往古、東西をそれぞれ分担していたという。東は荒ぶるリヴァイアが、西は穏やかなレヴィアが。
フィニスの地に接するナルド海は元々、レヴィアの領域なのだ。
そんな教科書の文章を思い出しながら、カヴェリエレは海を見た。地平線の向こうに大陸が見えている。あれは自分たちが住む北方大陸でも、かつていた南東大陸でもない。
「あれがフィニスの地か」
とっくにあと50日を切った。おおよそ1ヶ月後に、自分はあの地で信仰のため命を賭ける。未来を思い、カヴェリエレは目を閉じた。
未来を思うのもいいが、今は目の前のことだ。閉じた目を開けて船のへりから海面を見下ろす。青黒くうねる水はナルドの海らしく雄々しく荒々しい。これでも穏やかなほうだ。
船がこのうねりに飲み込まれないのは加護と、何より普段からの信仰のおかげだろう。そうでなければ不信心者など文字通り海の藻屑になっていたはずだ。
「よし、このへんでいいだろう。アレ持ってこいアレ」
アレというのはもちろんナルド・レヴィアへの供物だ。美しい海竜へ捧げる水瓶が詰まった木箱を運んできた船乗りに礼を言い、それから木箱の蓋を開ける。ライカが直々に汲んで水瓶に注ぎ、木箱に詰めて蓋をしたものだ。間違いはないだろうが念のために確認をしろと言われている。
水瓶の蓋を開けて中身をあらためる。いつも飲んでいる冷たい雪解け水だった。
「中身よし、んじゃぁ……」
偉大なる海竜へ捧げるとしよう。
粗雑な性格ゆえ、作法に粗末なところがあるかもしれないがどうか目をつぶっていただきたい。船乗り一同並んで頭を下げ、水底の美しい海竜へと祈る。
再信審判に勝つ力を与え給えとは言ってはならない。この供物はナルド・レヴィアへの見舞いであり、勝利の祈願ではない。そこは履き違えてはならない。勝利を祈願したいのならまた別に用意して、やるべき手順を踏んで行うべきだ。
「ナルド・レヴィア。美しきあなたの鱗をまた拝む日を望み……」
どうか、と祈りを捧げて水瓶を海へと投げ入れた。
ナルドの海へ供物を捧げる時、海竜がそれを受け取ったかどうかを判定する方法はひとつ。
供物がいつまでも水面に浮かんでいれば受け取り拒否。無駄になった供物を回収し、立ち去らねばならない。逆に、沈めば受け取ったということになる。場合によっては中身だけを受け取り、供物が入った容器だけ突き返すこともある。
果たしてどちらか。要求してきたものを運んできたので受け取り拒否はまずないだろうが、直接依頼したはずのライカが捧げていないと文句をつけてくるかもしれない。その時は無礼を詫びてライカに出向いてもらうよう頼まねばならないが、と懸念するカヴェリエレの目の前で、どぼんと水瓶が沈んだ。
それから水瓶は浮かんでこない。どうやら無事、受け取ってくれたようだ。カヴェリエレの懸念は杞憂だったらしい。
ほっと安堵の息を吐き、さて、と踵を返す。いつまでも海の上にいるわけにはいかない。再信審判は近く、やるべきことは山積みだ。用事を済ませてはいさよならとは失礼だと思うが、ナルド・リヴァイアは余計な前置きを嫌い本題のみを語る性分なので咎めはしないだろう。
「町に戻るぞ! 舵を取れ!」
「おう!」
ぐるりと船を旋回し、来た道を戻る。次にこの海を進むのはおよそ1ヶ月後。再信審判の始まりの時だ。
その際にはついでにもう一瓶くらい用意して景気づけをしておこうか、などと考える。帰ったらライカに進言してみよう。
ぐるりと何気なく見渡した波間に2匹の海竜が見えた。




